第20話 音色ににじむ・二
これほど心と体が乖離している人間を見たのは、随分久しぶりだ。かなりの重症らしい。
朱鷺を見上げて何拍もしてから、ようやく小雪は夢見ているような声で師を出迎えた。
「おかえりなさいませ、師匠様」
「ただいま」
応えて朱鷺は弟子の前に座る。見計らったように、
朱鷺が茶を飲むばかりでいつまでも琵琶を構えないからだろう、小雪は眉をひそめた。
「あの、師匠様、稽古は……」
「そんな顔して、できると思ってんのかい?」
「え……」
「まったく、心をどこに置いてきちまったんだい。それじゃあたしが何言っても聞こえやしないだろう。今日は休みにするよ」
「…………申し訳ありません」
朱鷺の指摘に、ぺたりと自分の顔に手を当てた小雪は沈痛な面持ちで俯く。自覚はなかったらしい。
大きなため息をついて、朱鷺は閉められた障子に一瞬目をやった。障子に誰の影もなく、近づいてくる足音もしない。
誰にも聞かれる心配がないことを確認して、朱鷺は単刀直入に問いかけた。
「…………あんた、御上と会ったのかい?」
「っ!」
小雪の目が大きく見開かれた。肩が跳ね、琵琶の首に添えた両の手が強く握られる。
何よりも雄弁な答えに、朱鷺は苦笑した。
「本当にあんたはわかりやすいね。音には出なくても、顔は正直だ」
「…………」
思い返せば、
それらに合わせて、心をどこかへ置き去りにした今の様子を見れば、上の空の理由は明白と言うもの。尋ねるまでもない。
今更ながら、城で最初に催された宴を朱鷺は思い出す。御上は朱鷺の技を褒めそやしながら、弟子の小雪に強い興味を示していた。多くの者は朱鷺の技こそ天下一と賛美し、小雪の技量もなかなかだと褒めるだけだったというのに。そのときは、男であれば当然の興味を抱いただけかと思い、どうか手を出してくれるなと、御上に酌をしながら遠回しに話を逸らしたのだが。どうやらそれは、大きな間違いだったようだ。
朱鷺は大きな息をついた。
「言ってくれれば、
「……信じてもらえるような話ではありませんでしたから。それに、もしあの方とまみえたとしてもこの姿ですから、私だとお気づきにならないと思ったのです。覚えていてくださったとしても、親しく話をする機会はないと」
それはそうだ。御上がどのように日々を過ごしているかなんて朱鷺は知らないが、一国の主たる者が一人きりになる機会など、そうそうあるとは思えない。小雪と話をするにしてもそれは謁見という形で、小姓やら何やらがいることだろう。そんなところでは、親しく話すこともできまい。
それに、城へ召し出されたときは、一夜限りだと聞いていたのである。小雪が楽観したのは当然だろう。
「あんたに会ったとき、御上は一人だったんだね?」
「はい。供の方もつけていませんでした。私をここへ導いてくださった武士の方とは、もしかしたらすれ違っているかもしれません。もちろん夜中のことですから、すれ違っていても御上とはわからなかったかもしれませんが……」
「……」
なら、付き人経由で重臣たちへ小雪の素性が漏れることはないわけだ。
今もっともおそろしいのは、二人の接点が明らかになることだ。小雪が三年前、
御上に命じられたからというだけでなく、城に出仕する武家の懐を目当てに長々と逗留していたが、そろそろ帰る頃合いなのかもしれない。これ以上ここにいては、小雪の素性が知られてしまいかねない。
朱鷺は両腕を組んだ。
「がっぽり金は稼いだし、そろそろ火白を出るのも悪くはないけどね。でもそのためには、御上の許しが要るんだよねえ。あたしらがここにいるのは、御上に命じられたからだし。勝手に出るわけにゃいかないんだよね。……許可、出してくれると思うかい」
朱鷺が問うと、小雪は首を振った。
「……わかりません。ですがあの方は三年前、ご自分の考えを持ちながらも、周囲の意見を聞き入れようとなさっているようでした。もし今もそうなら、重臣方の謗りを受ける危険を冒してまで、私を城に留めるとは思えません。……特に今は、難しい時期のようですし」
「そうかい。でも、夜中にあんたに会いに来たんだろ。それは御上が、まだあんたを少しでも想ってる証拠じゃないのかい?」
「……」
朱鷺が返すと、小雪はぽうと頬を染めて面を伏せた。
恥じらいや困惑、喜びやおそれが入り混じるその表情は、朱鷺が見たことのない‘女’の顔だった。この弟子は普段なら、群れ咲く小さな白い花を思わせる可憐な風情だというのに。一瞬でほのかな色香をまとって、咲き誇った。
白い頬に差す色は、朱とも桃ともつかぬ色。そうまるで、田園の青空に群れ飛ぶ朱鷺鳥のような。
この顔を見れば、小雪が御上をどう思っているかなど考えるまでもない。
御上のほうもほぼ間違いなく、小雪をまだ憎からず思っているはずだ。でなければ、小雪の正体を探ろうとし、わざわざこちらへ足を向けたりしない。
御三家たる和浪
小雪は顔をわずかにそらし、消え入るような声で言う。
「………………また、名を呼んでくれと。それだけです」
「でも、それで充分だったんだろう? 想いを知るには」
朱鷺がそう返せば、頬を染める色が耳まで広がり、小雪はますます縮こまる。そんなときではないが朱鷺は小雪が愛しくなって、頭をわしゃわしゃと撫でてやりたくなった。
だからこそ、この身分違いの恋を哀れに思った。
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