第21話 それは、夢物語でしかなく

 城下の薬問屋から戻った正成まさなりが中奥にある御座の間へ入室すると、御上が窓辺に佇んでいるさまが目に入ってきた。


 晴れやかな空にかかる白い雲を見つめるぼんやりとしたその立ち姿に、正成は内心で眉をひそめた。


 覇気がない。常であれば御上は凛とした居住まいで、政治に精力的に取り組む姿を臣たちが頼もしく思っているものを。今の御上は心ここにあらずといったふうで、目の前の景色を注視しているのではないことが一目瞭然だ。正成が入室したことにも気づいていないのかもしれない。

 声をかけるのも憚られ、正成は文机の前、御上の背後に座したまま、黙した。

 しばしの間流れた沈黙を破ったのは、意外にも御上だった。


「………………私は愚かだ」


 ぽつりと、指の間から雫をこぼすように御上は呟いた。

「気づかなかった。宴で顔を見ていたというのに。疑いもしていたのだ。なのに…………あれほど愛した娘に、私は………………」

「…………」


 情けない、と御上の声から自嘲がにじんだ。

 仕方ないだろう。正成は心の中で思った。どれほど一緒にいようと、愛していようと、わからないものはわからない。目を隠していたのだから、気づかなくて当然だ。御上が自分を責める必要は、わずかもない。


 おかしな話である。小雪こゆきと言葉を交わしたことのない正成が彼女の正体に確信を持ち、彼女を今も想い続けている御上が彼女の素性に確信を持てずにいたのだから。


 正成が御上に仕えるようになって、間もない頃だ。和浪かずなみ藩主であった御上が城下を頻繁に歩くことを心配する家老に、御上が城下のどこを歩いているか報告せよと命じられたことがある。その頃はすでに御上の隠密であった正成だが、垢落あかおちの子という身では家老に逆らえるはずもない。それで仕方なく、町人の格好をして下町を慣れた様子で歩く主君の後を追ったのだ。

 そして、寂れた社で主君が若い娘を熱い眼差しで見つめているのを見つけた。


 その娘が町の外に居住する土垢つちあかであることは、すぐに調べがついた。皮剥ぎを生業とする、比較的裕福な家の一人娘であることも。主君の彼女に向ける眼差しが親愛以上のものであることも、明らかだった。


 酔いつぶれた朱鷺ときをなりゆきで宿泊先へ送り届けることになり、旅籠で小雪を見て、正成はあのときの娘だと一目で確信した。だが、御上に報告しなかった。それどころか、早く火白ほしろを出るよう師弟を促したり、御上の居場所を逐一老中に報告し息抜きの散歩に出かけさせないようにして、御上と小雪の再会を妨害したりもした。師弟の滞在先として白郷丸はくごうまるを挙げたのも、本丸から遠く、御上を忙殺すれば容易に足を運べなくなると考えたからだ。御上の嘆きの一端は己にもあるのだと、正成は自覚していた。


 だが、正成は口を閉ざし、二人の再会を阻むしかなかったのだ。将軍が野土のづち、それも盲目の娘を大奥へ入れるなど、体面と名誉を重んじる武家社会で受け入れられるはずがない。ただでさえ、公家や武家の名門から室を迎えるようにという諸方面からの叱責や懇願を無視し、垢落ちの子である正成を御庭番の筆頭として重用していることで、御上は一部の者たちから眉をひそめられているのである。就任後からの、前例を無視した政治手腕ももちろん大きな要因だ。これ以上慣例を無視して周囲の反感を買い、侮られれば、政治に大きな支障を生むのは間違いない。御上の治世に突如現れた暗雲の兆しを払うためには、二人の再会、そして御上の暴走を絶対に阻止しなければならなかった。


 時間を巻き戻すことはできない。二人が再会してしまった以上、御上の暴走を防ぐことが正成の責務だ。

 だから、正成は口を開いた。


「……無礼を承知で申し上げます。御上はあの娘を、どのようになさるおつもりですか」

「……」

「重臣方の声を無視し、あの娘を正室もしくは側室に迎えることは可能でありましょう。ですが、御身に相応しき身分の室を迎え、世継ぎを設けるは武家のならいであり、御上の義務。その義務を放棄し、一介の琵琶師のため慣例を破り、世を変えるのだと重臣方に思われれば、多くの者が御上を軽んじましょう。彼女の素性が知れれば、噂の信憑性が高まるのは必至」


 小雪がせめて平民だったなら、これほど悩まずに済んだ。御上の生母たる白千しらちかたは商家出身の女中だったし、過去には遊山で訪れた村の娘を側室にした将軍がいるのだ。まあ側室にするなら構うまいと、周囲もそれほど反発しなかっただろう。


 だが、小雪は野土の琵琶師だ。それも、土垢の皮剥ぎであり御上の想い人であったという過去がある。この過去がある限り、何より人々の心に野土や土垢、皮剥ぎに対する偏見が強くある限り、重臣たちの反発は失せることがない。

 あの慎み深い娘は、そのことを理解しているはずだ。御上に正体を知られたと気づいたのなら、すでに旅立つ準備をしているかもしれない。――――いや、そうしてほしい。


「……わかっている。わかっているが…………諦めた夢を今一度前にして、容易く捨て去ることはできぬ…………」

「……」


 御上は俯き、肩を震わせる。その背から、全身から、激情が咆哮しているかのようだ。感情の波が、正成の肌を打つ。


 この歳になるまで異性に執着したこともなければ芝居の一つも見たこともない正成は、三年前と同じ、苦い感情が心中に広がっていくのを感じた。


 実は三年前も、正成は己が町で見たことを家老に報告しなかった。その必要はないと、何の根拠もなく思ったのだ。自分を高く評価してくれる主君への哀れみや忠義ゆえだったのか、垢落ちの若侍への侮蔑を隠しもしない家老への反発だったのか。御上は町の者の声を聞いているのです、とだけ家老には伝えた。

 結局、別の者が家老に土垢の娘の存在を告げ、家老は身を引かせるだけではぬるいとばかり、琵琶一台だけ持たせて娘を城下から追放した。すべて内密に成されたことだから、隠密の役職でなければ正成も知らないままだっただろう。そしてその後、臣下の所業を知らない御上は人捜しを正成に命じた。――――あのときの胸の痛みは、忘れようがない。


 だが、己の罪悪感を打ち消すため、御上の感情を重んじるために道を誤ってはならない。御上が抱くのは、誰も考えすらしなかった壮大な夢物語だ。国中の人々の価値観を根本から変える理想を実現するための道のりは、生半可な覚悟では乗り越えられないことは疑いようがない。本気で叶えたいと願うなら、どんな小さな障害も足手まといも可能な限り取り除くべきだ。

 正成は淡々と言葉を紡いだ。


「……以前御上は、あの娘に夢を語ったと仰せになられた。すべての民がその身分や職業に偏見を持たず、差別されず、幸福を分かちあえるような世を創りたいと」

「……」

「その夢物語を叶えるために、将軍となることを決意されたのではないのですか」

「……………………………………そうだ、な。そのとおりだ」


 悲しみややりきれなさがにじむ声音で御上は首肯する。ゆっくりと背後を振り向く。


「いつもながら、お前は厳しいな。……彼女の素性に気づいても、私と会わせぬために黙っていたな?」

「ええ。お知りになれば、御上は必ずや会おうとなさるはずですので」

「ああ。お前は本当によく私をわかっている。……だから、私にはお前が必要なのだ」


 御上は微苦笑を浮かべる。かつて見た夢を再び見た陰りは消えていないが、ほんの少しだけ、いつもの穏やかさが戻っていた。


「……『その夢物語を叶えるために、将軍となることを決意されたのではないのですか』か。……同じことを、朱鷺にも言われた」

「朱鷺殿が、でございますか」


 正成の声音に疑問がひそんでいたからだろう、御上は切なく笑った。


「三年前、彼女の行方を探るよう頼んだときにも言っただろう。彼女の本当の名は、朱鷺だ。……彼女は、その娘は死んだと言っていたがな」

「……」


 御上の笑みはさらに深まって、いっそうつろに見えるほどの痛みが全身と声からこぼれ落ちる。正成はそれを、ただ黙って見つめてた。

 御上にとって、あの娘はどんな姿、どんな名になっても『朱鷺』なのだろう。彼の心の中では、あの寂れた社での記憶は今も色褪せていないに違いない。それを眩しいと、正成は何故か思った。

 この話の終了を告げるように、御上が首を振る。次に見えた尊顔は、常の聡明さを取り戻していた。


「待たせてすまなかったな正成。報告を聞かせてくれ」

「御意」

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