第一章 招
第1話 挨拶・一
「やっぱり、まだしぶとく残ってたねえ」
雑踏から客を引き寄せようと賑わう店々の合間にあって、客引きがいなければ中から客の声一つしない店へ足を一歩踏み入れ、旅装に身を包む少女の師はひゅうと口笛を吹いた。
ここは四方を海に囲まれた、大小様々な島々からなる
「今日はこちらに泊まるのですか」
少女が師に問うと、彼女はそうさと頷いた。
「ちょいと狭いけど、ま、確実に泊まれるから文句は言えないね」
そうからから笑う師に促され、少女は店の中へ入った。
広々とした店の中は、がらんとしていた。店というものはどんなに閑古鳥が鳴いているにしろ、営業しているからには誰かしらいるはずだ。だというのにこの店は、厨で立ち働く人の気配も音もしない。空家の様相を呈していて、通りの賑わいが一層騒がしく聞こえる。
少女は首を巡らせ、不安そうに眉をひそめた。
「あの、師匠様、本当にここなのですか。誰もいないようですけれど……」
「ここはいつもこうさ。奥にいるか、ちょいと外に出てるんだろうよ――おや、団子があるじゃないか」
師が気楽に言うと同時に、ちりと皿が音を立てる。団子の串が皿に当たった音だ。
少女は控え目に師の袖を引いた。
「師匠様、勝手に頂くのはまずいかと……」
「ん? あ、いいんだよ。ここの店主はあたしの馴染みだから。ほら、あんたも食いな」
師は弟子の言葉を気にも留めず、どかりと腰を下ろして団子を勧める。少女が首を振って断ると、それならと自分の胃袋に収めてしまう。
師はいつもこうだ。もういい年をした成人女性だというのに、子供のような振る舞いをする。言ってもきかない。
とはいえ、少女は実のところ、師の正確な年齢を知らない。背の半ばまである波打つ黒髪や瑞々しい肌の張りからすると、自分と十も変わらないだろうに、時折こぼれる言葉の重みや老成した空気は、年月と経験を重ねた賢者のようにも思えるのだ。しかし、実年齢なんて怖くて聞けない。きっとこれからも知ることはないだろう。
少女は呆れたように小さく息をつくと、背に負っていた荷を下ろし、師の隣に座った。暇を持て余し、賑わう声が絶えないほうへ顔を向ける。
ふと店内の隅から、誰かが階段から下りてくる足音がした。少女の目線よりも高いところから聞こえてくるということは、そこに階段があるのだろう。空家ではなかったのかと安堵とも驚きともつかない気持ちで、少女は音がしたほうへ顔を向けた。
「お客さん、今日は昼から……ってお前、
そう嫌そうに言うのは、野太い声の男だ。三、四十代といったところだろうか。声といい足音の重みといい、小太りの男を少女に想像させる。
『見た目も中身も狸』だという、少女の師――朱鷺の友人だろうか。娘は推測した。
朱鷺は楽しげに答えた。
「久しぶりだねえ
「何が『久しぶり』だ。しかもお前、団子食いやがったな。俺が食おうと思ってたのに」
「そこに置いとくのが悪いんだよ。それより、またしばらく泊まるから部屋を頼むよ」
「待てこらてめえ、こちとら準備ってもんがあるんだよ! 大体お前、前のつけまだ払ってないだろ。だのにいきなり来て人の団子食った挙句、『よろしく』だあ? ふざけんな」
「まあまあ、あたしとあんたの仲じゃないか」
「ぼろ雑巾一枚の仲だろうが!」
男――源内は唾を飛ばしていそうな勢いでがなる。よほどつけが貯まっているに違いない。しかし朱鷺は、どこ吹く風といったふうで聞き流している。
つけを払っていないのに泊めてくれというのは、いくら友人同士であっても非礼で横暴だろう。旅籠なら他にもあるのだ。少女は師を制止しようと、師の袖に手を伸ばした。
が、その前に朱鷺は弟子の肩をぐいと抱き寄せた。突然のことに、少女は目を丸くする。
「ほら、この子も疲れてるし。ねえ?」
「師匠様、あまりご無理を言っては……」
「……ったく、ああもうわかったわかった! 泊めりゃいいんだろ泊めりゃあ!」
少女が朱鷺をたしなめようとすると、源内は自棄を起こしたように吠えた。しかし、ただしと付け加えることは忘れない。
「今までのつけ、金一両払ってからだ!」
「はあ? あたしゃそんなにつけた覚えはないよ!」
「利子つけるっつったろうが! 前に来てから、一体どれだけ経ってると思ってやがる。人の話を聞いてねえお前が悪い! その気になりゃどこぞの金持ちにでも貢がせて一日で返せるんだろうが。さっさと稼いで返しやがれ!」
口を尖らせる朱鷺に、源内はぴしゃりと言う。まったくの正論だ。
仕方ないねえ、と朱鷺は息をついた。
「ま、何にしても金は要るし、手持ちの金も道中使いきったところだし……稼ぐとするかね。――源内、籠貸しな」
「壊すなよ」
源内は鼻を鳴らし、何かを投げる。それを受け取った師は、颯爽と店を出た。師に手をとられ、少女もその後に続く。
辻まで歩き、他に芸者がいないのを確かめて、二人は辻角に腰を下ろした。他の辻芸人が近くで芸を披露しているときに芸をしないのは、辻で芸をする者の中での暗黙の了解なのだ。
少女は尋ねた。
「曲は何をしますか」
「そうだねえ。秋も半ばだし、『隆康』でもしようか」
「わかりました」
少女は首肯すると、荷袋から琵琶を取り出した。腹に空蝉が描かれた上物だ。父親に買い与えられた逸品で、故郷を出て三年が経った今も愛用していた。
少女が調弦を終えるころには、物見高い者たちが興味津々な顔で二人を見ていた。が、その眼差しに少女が臆することはない。こんな視線にはもう慣れている。銭を入れる籠を傍らに置き、緊張するわけでも煽られるわけでもなく、師の合図を待つ。
すう、と朱鷺は大きく息を吸い込んだ。
「さあて、道行く皆さま! これから当代一の琵琶師、神秘の地と名高き
明朗に、陽気に朱鷺は声を張り上げて客を呼び寄せる。巷間にも広く知られた琵琶師の琵琶を聞くことができるというささやきは人々の合間にたちまち広まり、どよめきも広がりさらに観客を引き寄せていった。最後あたりの文句も、御愛嬌というもの。二人の前に陣取った観客たちから笑いが起きる。
これで口上が本当なのだから、まったく不思議なものだ。この堂々とした振る舞い、芸人として慣れた口上。世の多くのものが想像する、神に仕えて日々厳かに、慎ましく暮らしているだろう巫女だったとは到底思えない。少女も弟子となったばかりの頃は、素性と今の振る舞いの不一致ぶりに唖然としたものだった。
ある程度観客が集まったところで、朱鷺は娘の手の上に自分の手を重ねて始まりの合図をする。
少女は一つ呼吸をすると、撥で弦をかき鳴らした。
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