第22話 時代にあがく者

「……うむ。ご意向、確かに承った」

「では、これにて失礼いたします」


 御用取次が用件を伝え終えてひとつ頷き、去っていく。それを見送らず、本多ほんだ明徳あきのりは踵を返した。


 明徳が拝命している老中は、幕臣としては最高位の役職だ。定員五名で、月替わりで政務を行い、重要な案件は全員で合議する。老中の決定は将軍といえどおいそれと変えられるものではなく、老中の筆頭ともなれば政治の実権を掌握することも不可能ではない。実際、先代と先々代の御代は、老中筆頭や御用取次が実権を握っていた。多忙で出費は多いが、付届けなどで支出以上の収入を得ることができるし、御上に代わって政治を執り行う楽しみは何にも勝る。明徳が実家の威光と雪代神戸家の伝手を使って老中の地位を手に入れたのも、病弱な将軍亡き後、そうした旨みを味わえると思ったからだった。


 しかし、先代将軍が病で逝去し、小賢しい将軍生母も退き、老中筆頭を失脚させるなりすれば権力が転がり込んでくるところで、計画は狂った。新しい御上が政治に積極的に口出ししてきては、老中の意見をたびたび無視して政策を実行するのである。挙句、法制大改革などという、わけのわからない政策を始めようとしている。様々な幸運が重なって将軍に成り上がっただけだというのに、当代の御上は目障りなことこの上ない。


 そもそも将軍の地位は、雪代ゆきしろ神戸かんべ家のものになるはずだったのだ。候補者四人のうち二人は血の濃さや年齢、人柄から選考に値せず、和浪かずなみ神戸家の若造は経験不足で、先代将軍から血が遠い。先代将軍とは叔父甥の関係にあり、年齢や経験も申し分ない当主の昌治まさはるがもっとも将軍に相応しいと、火白ほしろ城の幕臣や雪代神戸家の誰もが信じて疑わなかった。だから明徳もあちこちへ根回しをして、老中に押し上げてもらった恩を返すだけでなく、これからも便宜を図ってもらえるよう力を尽くしたのだ。


 ――――――――だというのに、あの若造が御上になった。先代将軍の生母の強力な後押しによって。


 和浪神戸家当主が次期将軍に決定したとき、雪代神戸家はそれに反発したし、明徳も同調した。人徳が一体何の役に立つというのだ。政治とは打算だ。片田舎で呑気に暮らしていた若造が、国政を担う者たちの利害を理解し、操れるはずがない。昌治を将軍に据え、明徳たち老中が補佐をするべきなのだ。

 そう何度も主張したのに、明徳たちの意見が通ることはなく、この城は、明徳は、田舎の若者を主に迎えなければならなくなった。かの若者に初めて頭を垂れたときの屈辱は、今でも忘れられるものではない。


 さらに腹が立つのは、国政の難しさにすぐ音を上げるに違いないと思っていたこの若造が、存外にしぶとくしたたかで、油断ならない存在だったことだ。


 御上が就任して間もない頃、ある政策について反対する者たちが、妨害工作を計画したことがあった。が、工作が実行される前に一味は全員捕らえられた。噂では、御上自ら一味のもとへ足を運び、言い逃れできない証拠の数々を並べて捕らえたらしい。捕らえられた者たちの愚かさもさることながら、御上の耳目の広さや豪胆さ、容赦のなさを知らしめる出来事として、この事件は城内の者に広く知られていた。


 そればかりか、後ろ盾に政治の口出しをされない身軽さや幅広い知識、前例にとらわれない大胆さが生み出した政策は、幕府の財政再建においてすでに効果を挙げている。特に就任直後、先代将軍が中奥に施した華麗な装飾をすべて剥ぎ取り売却したり、大奥の女中のうち見目麗しい者から優先的に解雇して最小限まで数を減らしたことも、城勤めなら知らぬ者はいない有名な話だ。また、特産物を保護し推進することで諸藩の財政の健全化を図ってもいる。まだ二十代前半だというのに、この御上はなかなかのやり手だった。

 しかし――――――――


「おや、和信かずのぶ殿ではござらぬか」

「明徳殿……」


 前を歩く背に気づき声をかけると、浮かぶ感情を押し殺しているのが明らかな表情で、老中の三好みよし和信が振り返る。この男は明憲を毛嫌いしているのだから、当然の反応である。

 明徳は内心で笑いがこみ上げてきた。


「……何用ですかな」

「用も何も、御姿を見たので声をかけたまでのこと。いやはや、お邪魔でしたかな」

「まさか。ただ今宵は雪代神戸家の宴に招かれたので、執務を早く済ませたいのです」

「ほう、宴ですか。春野はるの殿から聞いてはおりませぬが……」


 明徳はついと目を細めた。宴を催すなら何故私に言わないと、内心で憤る。

 そんな明徳の内心を読み取ってたか、和信はかすかに目を動かした。


「明徳殿の多忙に配慮されたのでしょう。出席なさりたいのであれば、私から春野殿に伝えておきますが」

「構いませんかな? これはかたじけない。今宵が楽しみですな」


 と、明徳は上辺だけの礼を述べた。和信は軽く会釈し、去っていく。

 去っていく背を見つめ、明徳は頬が緩むのを抑えられなかった。


 幕府の重臣を意のままに操っているばかりか、聡明と名高い御上を欺いている快感。それはどんな酒にも優る美味だ。

 どんなに政治の才があったとしても、大嫌いな側近の秘密ひとつ暴けない愚者に政治ができるわけがない。ましてや、すべての身分と職業が対等な世など、夢のまた夢だ。


 そうだ、現在進行中の法制大改革の阻止に、あの男を使おうか。あの男は明徳と同じ、改革反対派だ。命令されることには反発するだろうが、改革の阻止そのものには反対しないはず。あの男を動かし、大々的に妨害工作をさせれば改革を中止させることができるかもしれない。――――いや、中止させなければならない。


 法制大改革が進めば進むほど、明徳はこれまでの所業ができなくなる。明徳がしてきたことの多くは、今の法でさえ犯罪行為であり、それを地位や後ろ盾の威光、金などでもみ消してきただけにすぎないのだから。雪代神戸家がいつまでも明徳を庇うとは限らない。近頃彼らが明徳の行いの後始末をすることに消極的になっていることを、明徳は敏感に察していた。


 今までやりたいことを思う存分やってきた明徳にとって、我慢を強いられることは苦痛以外のなにものでもない。ましてやそれで捕らえられることがあればと思うと、喚き散らし手当たり次第に物を壊したい衝動が全身を襲うのだ。


 武家も公家も土垢つちあか野土のづちもなく、誰もが対等になるなど、とんでもない。自分は本多家の三男だ。帝君の懐刀と恐れられた本多ほんだ昌巳まさみの直系。平民や土垢、野土如きと対等であるはずがない。卑しい者らのために罰を受けるなんて冗談ではない。


 自分は、処罰された者たちのように間抜けな真似はしない。必ずやあの田舎出の若造を出し抜き、鼻を明かしてやる。

 自分ならそれができると、明徳は信じて疑わなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る