第32話 雨中に翻る
空気に湿気が多分に含まれている感覚で、
牢には小雪ともう一人、
できるだけのことはしたつもりだ。正成との面会後も数度あった取り調べという名の拷問で、小雪は改めて無罪を主張した。ただ無罪を叫ぶだけではない。与えられた情報を整理し、筋道を立てて矛盾点を指摘し、反論したのだ。吟味方の威圧的な態度と無情な拷問は小雪の心胆を寒からしめたが、恐怖に負けることはしなかった。それを生意気と吟味方がますます頭に血を昇らせても、我が身の潔白を主張し続けることだけが自分にできる抵抗だと、小雪は信じていた。
やれるだけのことはやった。後は正成の助けを信じるしかない。
しんと静まり返った牢にいて、どれほど経っただろうか。ざり、ざりと草履が土を踏む音がした。
足音は、小雪がいる牢の前で止まった。がちゃがちゃと錠前を外す音がする。
「出ろ」
いつもの牢番のものとも吟味方のものとも違う、冷たい声に促されて小雪は牢を出る。後ろ手に縄で縛られ、小雪は戸惑った。
「え、あの、これは……?」
「……」
小雪の手首を縛る者は答えない。聞いても無駄だと言わんばかりに無視する。小雪はますます不安になった。
「ちょっと、その子にゃもう取り調べなんて必要ないだろう。判決もここで下すもんのはずだし……一体どういうことだい」
「……」
小雪と同じ疑問を抱いた峰が、小雪を牢から出した者へ格子越しに問いかける。しかし男はまたも答えず、歩けとばかり小雪を小突く。小雪は仕方なく、縄を引かれるまま歩き出した。
先に牢を出ていった女たちは皆、この牢で判決を言い渡されていた。だから、小雪も牢で判決を聞くものとばかり思っていたのだ。ここではないなら、どこで判決を言い渡すのだろう。
それとも判決はまだ決まっていなくて、また取り調べをするのだろうか。しかし小雪の感覚はすでに、行き先が取り調べをする部屋ではないことに気づいていた。いつもとは方向がまったく違う。
思っていたものとは違う展開に、小雪はどんどん不安になっていく。盲目の小雪にとって、どこへ連れていかれるのかわからないことは恐怖だ。足を止めてしまいたくなる。
それでも歩かなければならなくて、小雪は歩く。一音一音強く脈動する心の臓の音は、耳元で跳ねているかと思うくらいだ。
空気に湿り気が混じり、雨の音が強くなる。建物の渡り廊下かどこかに出たらしい。冷えた空気が背筋を撫ぜ、震わせる。
一体どこまで歩くのだろうと小雪が思っていたときだった。
「っ!」
何の前触れもなく背を押され、小雪は前に倒れた。音で己の存在を知らせる一面の砂利の上に顎や胸、腹などをしたたかに打ちつけ、息が詰まる。一瞬、閉じた瞼の裏に光が瞬いたような気がした。
立ち上がろうとした刹那、ぶんと風を切る音がした。小雪は何も考えず、その場から転がる。
さっきまでいた場所でざん、と音がする。それが何の音なのか、小雪は理解できない。
尻もちをついたまま後ずさりし、小雪は風切り音がしたほうを見上げた。
「何をなさるのです!」
「お前はここで死ぬのだ」
「!」
「捕らえられていた女の野土は申し渡しの直前、連行する兵の隙をついて牢屋敷より逃亡を図らんとした。その際の抵抗激しく、ゆえに一命を絶った……それならば、申し渡しは不要であろう」
「そんな……! 私は人を殺したりなどしていません! 逃亡だって」
「死者に口はない。生きていたとしても、誰が
男は嘲笑する。小雪は悔しさと怒りに身を震わせた。
事実だ。御上や正成や、
これは、
こんなところで死んでしまうのか。武家に振り回され続け、使い捨ての道具か何かのように殺されてしまうのか。
どうして。どうして殺されなければならないのだ。自分は何も大それたことなど願っていない。生きていたい。生きていたい――――――――………………!
間近に迫る死の恐怖に小雪は震えあがった。それと同じくらい、我が身の不運を呪った。
じりじりと気配が近づいてくる。腹と足に力を入れ、壁に身を擦りつけもがくようにして立ち上がった小雪は、振り下ろされた一撃を間一髪で避けた。耳元で刀が空を切る音がする。
身を翻して逃げようとするが、走り出してすぐ、小雪は壁にぶつかって立ち止まらざるをえなくなった。ならばと横へ足を出すもののそこに床はなく、身体は砂利に沈む。全身に衝撃と痛みが走る。
上半身を起こすと、背後から白砂を踏む音が間近で聞こえる。身を捻り、小雪は息を飲んで気配のほうを見上げた。
「盲目の野土如きが、手間をかけさせる。……これで終いだ」
「……!」
ちゃり、と金属の音がする。続いて、ぶんと刀が振り下ろされる音。倒れ伏した小雪は、その場に縫い止められたように動けなかった。
小雪の思考が完全に停止した、そのときだった。
「何をなされているのですか、社奉行殿!」
聞き覚えのある声が、小雪の命を絶やそうとする斬撃を止めた。小雪はわけがわからず、帯の下で目を瞬かせる。
「これは、南町奉行殿……」
男の声に忌々しさがにじむ。とんだ邪魔が入ったという響きに、小雪は震えた。
南町奉行は小雪を起こすと、庇の下まで誘導してくれた。雨に打たれ、小雪の小袖も髪も、わずかな隙もなく濡れている。それだけに、触れている手から伝わってくる彼の体温が一層心地良く感じられた。
「社奉行殿、これは一体どういう……いや、ここでは話を聞けぬ。――誰か!」
南町奉行が声を張り上げると、ややあって数人駆けつけてきた。
「この娘に着替えをさせてやれ。社奉行殿も誰ぞ、見張れ」
「南町奉行殿、何故私が見張られなければならないのだ? 私は、罪人が逃亡を試みたので捕らえようとしただけだ」
社奉行と呼ばれた男は、慌てて釈明する。が、南町奉行はまったく聞かず、声を荒げた。
「誰が罪人と申されるか! 彼女はまだ申し渡しもしていない、捕らえられただけの者ではありませぬか! 私の留守をいいことに、囚人に刀を振るうなど言語道断。勝手な処断は、貴方といえど許しませぬぞ」
「……」
南町奉行の雷鳴のような怒りの声が落ち、社奉行は沈黙する。それを無視し、南町奉行は小雪を捕らえる者たちを促した。
ひとまず命の安全を得た小雪は、安堵の息をついた。途端、気持ちが緩んでしまったのか涙腺までもが緩む。
ずぶ濡れであることを気遣い、衣を改めさせてくれる。それだけのことが、こんなにも胸を暖かくさせる。
やはり彼は――――義忠は、小雪が明徳に侮辱されたときのように小雪を守ってくれた。
大丈夫だ。きっと自分は助かる。
気遣いなく引き立てられても、小雪はそう強く信じた。
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