第33話 終焉の調べ・一
牢屋敷の一室で着物を改めさせてもらった
「さて、先ほどは一体何があったのですか」
「先ほど申し上げたように、そこな罪人がいかなる手段を用いてか牢から逃げていたので、捕らえるところであったのだ」
「違います! 私はこの方に牢から出され、あそこへ連れて行かれたのです」
社奉行――
だが、久治は話を聞き終えもせず、小雪を睨みつけた。
「
「! なすりつけてなどいません!」
「……」
一蹴する久治に小雪は噛みつくように返すが、場の空気は彼に味方していた。野土の娘を蔑み責める眼差しが、小雪の身に刺さる。
久治の言ったとおりだ。誰も、野土の言葉など聞いてくれない。小雪は悔しくてならなかった。
やりとりを静観していた義忠は、あの者を呼べ、と誰かに言った。
間を置かずしてすっと引き戸が開かれ、誰かが入ってくる。ぎしりと鳴る音は、青年にしては軽い。
足音の主が小雪の手をとり、髪を撫でる。
「小雪ちゃん、大丈夫? 変なことされてないかい?」
「……
小雪は思わず、布の下で何度も瞬きをした。何故、彼女がここにいるのだ。誰が、何のために彼女を牢から出したのか。
峰が答えるより先に、義忠が彼女に問う。
「峰とやら。正直に答えよ。本日、牢よりこの娘が脱走したか否か」
「脱走? できるわけないだろ、両目が見えてるあたしでも無理だったんだから」
峰はそう、はっきりと否定した。
「そこの三白眼の男がその子を牢から出して、縛ってどっかへ連れていっちまったんだよ……見た目からして牢番とか下っ端の役人じゃなかったから、あやしいとは思ったんだ。牢番たちも見て見ぬふりだし」
「なっ……で、出まかせを」
「嘘じゃない! 御武家様の横暴にはうんざりしてるけど、だからって嘘ついて陥れるほどあたしは落ちぶれちゃいないよ!」
高らかに峰は告げる。世の不条理に己の意思を貫くことも叶わない身であっても、人としての誇りを失わない声音は、鮮烈に小雪の耳を打った。
峰の言葉に切り裂かれたかのように、場の空気に変化が生まれていた。小雪を責める色はまだ失せていない。しかし戸惑いが混じり、先ほどまでよりもずっと弱い。何かが裂け目から滴り落ち、一つの疑心に染まっていた場に別の疑心を加え、居並ぶ者たちに確かな混乱を与えていた。
「っ南町奉行殿! 罪人如きの戯言に、耳を貸すおつもりか!」
歯ぎしりの後、裏返った声が南町奉行を責める。ふむ、と義忠が頷く気配がした。
「囚人の証言では不服と?」
「当然であろう。卑しい囚人ごときの言葉など、信用に足るはずもない。南町奉行殿は、私の言葉を信じないというのか。私は見たのだ! この娘が逃げようとする」
「騒々しいぞ」
すう、と襖が開く音を道連れに、若々しい声音が男の言葉を遮った。誰かの喉がひくりと鳴る。
その、涼しくも力のある声音。小雪が誰よりも知るそれは――――――――
「……頭が高い」
誰もが凍りつく中、
一体誰なんだい、と闖入者の正体を知らない峰の不安そうな呟き声が、やけに大きく聞こえた。
「ふむ……どうやら良いところに居合わせたようだな」
「は……?」
久治が頓狂な声を上げる。正成、と御上が呼べば、おそらく御上の傍らにいるのだろう正成が口を開く。
「
「な、何を!
「我が側近を侮辱するのか」
氷刃もかくやというような、冷え冷えとした声音がわめきを切り裂いた。いえそのようなことは、と久治が引きつった声音で言い訳する。
御上は続けて真実を暴く。
「お前が月釣鐘の抜け荷に関与していたことは、すでに調べがついておる。帝君が定めた法、社奉行たるお前が知らぬはずがあるまい。……御庭番がこの件の調査をしているらしいとでも聞き及んで、慌ててその娘を殺そうとしたか」
「ち、違います! 私はそのような悪事に加担してなど……!」
「ならば、お前の自宅にあった品々についてどう申し開きをする? お前の住居を改めたところ、証拠を隠滅しようとした痕跡に加え、お前の禄では到底手が届かない額の小判と、月釣鐘の葉が残る箱があったという報告がある。それも誰かの陰謀だと申すのか?」
「っ、え、ええ! そうに違いありません! 私は何も知りません!」
御上の言葉に合わせ、久治は声を裏返らせて必死に否定した。
当たり前だ。帝君が定めた法により、各藩で特産物に指定された品は藩の許可なしに生産や栽培、販売することができないし、上納金を藩に納める義務も課せられている。抜け荷となればその両方を怠っているだろうから、その刑罰は軽くても垢付けだろう。
まったく往生際が悪い、と御上は忌々しげに言った。
「こうなれば、抜け荷の件で拿捕の上拷問するのが現在の正規の手順だが……しかし、せっかくだ。そなたの技、見せてもらおうか」
「御意」
「……!」
御上に同意するその麗しい声に、小雪は思わず頭を上げた。それを兵に押さえつけられるが、御上が制止してくれたので手が引っ込められる。
「師匠様……御無事で」
「あんたもね。……小雪、もう少しの辛抱だよ。大丈夫、すぐ終わるから」
声を震わせる小雪に、朱鷺は優しく言う。そしてすぐ、まとう空気を改める。
「朱鷺殿。これで準備はよいか」
「ああ、どうも正成様。……小雪、ほら」
「……!」
朱鷺が正成から受け取り、渡してくれたものが琵琶だとわかった途端、小雪の胸は歓喜に満ちた。父に買ってもらった琵琶の手触りは、手にしみついている。親しい友と久方ぶりにまみえた心地だった。
「調弦は済ませてあるよ。『幻燈』だ。弾けるね?」
問う形でありながら、朱鷺の声音は反論を許さない強さがある。思わず小雪は竦んで頷いた。よし、と朱鷺は明るい調子で小雪の頭を軽く撫でる。
何故こんなところで音曲なのか、と多くの者たちが困惑している中、小雪は深呼吸で浮ついた気持ちを落ち着かせた。最初の宴のようなしくじりをするものか、と強く胸に誓う。
――――きっと、彼の前で奏でるのはこれで最後なのだから。
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