第2話 挨拶・二

 たちまち人のざわめきが消えた。そして、数拍置いて朱鷺ときが琵琶を奏でる。

 一瞬にして、場の空気が変わった。


 朱鷺が琵琶を奏でるほどに、大勢の人が行き交う四つ辻を創り変えていく。大通りに建ち並ぶ建物はすべてどこかへゆき、人々は刀や弓矢、槍などを手にし、甲冑を身にまとう。幟が林立し、陽光が前立てに反射して兵士たちの目を射る。

 無論、それらは現実ではなく幻想だ。しかし琵琶の演奏によって研ぎ澄まされた少女の感覚には、そのように感じられていた。


 少女にとって今やここは四つ辻ではなく、戦場だった。戦の狂気に満ち満ちた場所。数多の兵士たちが殺しあい、砂塵と血臭はむせ返るほど。刀や甲冑がぶつかりあい、悲鳴と怒号が響き渡って一瞬の静けさもない。人間の身のみならず、心までもが殺されていく――――――――

 場――人々の心の隅々に再現された戦場の暴威は、しかしそこで一度途切れた。朱鷺が自ら断ち切ったのだ。一瞬の空白を置いて、先ほどまでとは打って変わった、ゆったりとした暗い旋律を奏でる。

 そこに重なるのは、若くして将となった青年、隆康だ。若者は夜空の下、戦陣を離れて一人笛を奏でている。


 師が紡ぐそんな場面を少女は想像し、再現できるようにと祈りながら曲に寄り添う。


 そう、隆康はひどく疲れていた。血臭を嗅ぎ続けることに倦み、己の死を予期し、今ここで死んでいいとすら思っていた。死こそ我が救いであると。その願いの息吹を受けた笛の音は陰鬱で、胸を締めつける痛々しさがある。

 翌日、青年の悲願を天が聞き届けたかのように、戦いは彼の軍の大敗に終わる。逃げることなく首を差し出す青年の潔さに敵将も感じ入り、しかし彼を殺さなければならない乱世の業に涙する――――――


 師と弟子の旋律が重なり、その余韻も絶えて曲は終わった。曲の終焉と共に合戦場は消え、喧騒の絶えない都の大通りが復元されていく。

 曲が終わっても、しばらくは誰も動かず、声一つ立てなかった。賑わいは遠く、この辺りだけが静寂に包まれている。


 これはいつものことだ。朱鷺が奏で終えた後、大抵の者はしばらくの間思考できなくなる。朱鷺が作る曲の世界に引き込まれ、なかなか戻ってこれないのだ。彼女の琵琶が天女の楽と評され、天下に知れ渡る所以である。


 唐突に、ごう、と喝采が少女の華奢な身体を芯まで震わせた。銭を、と乞わずとも、驟雨のように籠へ銭が降り注ぐ。雨あられのように銭が籠へ投げ入れられていく音がやみ、ようやく一帯に日常のざわめきが戻ったときには、一曲しか演奏していないにもかかわらず、籠の中は銭でいっぱいになっていた。


 いつもどおりの大収穫に上機嫌の師に連れられ、少女は己の琵琶を両手に抱えて旅籠へ戻った。弾く直前までとは違い、少女はどきどきしていた。何せ目の前の師が持つ籠の中には、大量の銭があるのだ。好奇の眼差しには耐性がついても、これにはいつまで経っても慣れない。銭たちが籠の中でじゃらじゃらと鳴り、存在を主張している。

 旅籠に戻ると、源内げんない自らが出迎えてくれた。


「お疲れさん。まあまずはゆっくりくつろぎな」

「おう、そうさせてもらおうかね」

「てめえにじゃねえ、そっちの嬢ちゃんに言ったんだ」

「こら助平野郎。あたしの弟子に手を出すんじゃないよ」

「はあ? どこに目ぇつけてやがる」


 源内とじゃれあいながら、朱鷺は店内の長椅子にどかりと腰を下ろす。少女は源内に導かれてその横に座り、ほうと息をついた。


「で、いくら稼いだ? 足らなかったら明日も稼いでもらうぞ」

「さあねえ、自分で数えてみれば?」


 いつの間にやら団子に夢中であるらしい朱鷺は、いかにも適当といった返事をして、丁稚に団子の追加を注文する。彼女は甘いものに目がないのだ。舶来の砂糖菓子など見ようものなら、子供のように欲しがる。

 悪友の言質をとった源内が、しめたとばかり蓋代わりの布を取り払う音がする。途端、引きつった息の音が漏れた。きっと、うんざりした顔をしているに違いない。

「こりゃまた大量だな……」

「辻で稼いできたんだから、当然だろう。あんな賑やかなところでやって、あたしの腕で稼げないはずがないじゃないか」


 と、団子を食べながら言う。傲慢な科白はまったくの事実なのだが、団子を食べながらでは間が抜けている。


 金一両は、今の相場だと銭四千文に相当する。それだけの銭を数えるのは難儀なので、少し賑わっている店では大きな天秤を置いてあり、それで重さを量るものだ。が、言っては悪いが客の入りがあまり良さそうではないこの旅籠に、そんな大層なものがあるとは思えない。両替屋で数えてもらうか、自分で数えるしかないだろう。重労働だ。


「あの、私が両替屋へ行きますから……」

「いーよいーよ。天秤も分銅もあるから、こんなのすぐ済む。それに、客の手を借りるわけにゃいかねえよ。ありがとな」

「そうそう。こいつは勘定しなくたって、適当に金とりゃいいんだからね。あんたが気にする必要はないよ」

「てめえは数えろ」


 愛想良く少女の申し出を辞退する源内は、悪友にはきつい物言いで返す。

 ひとしきりやりあって、源内はそういやと娘に関心を向けた。


「嬢ちゃん、名前は何ていうんだ?」


 尋ねられ、ようやく少女は自分がまだ名乗っていなかったことに気付いた。これは失礼しました、と湯呑みを長椅子に置き、膝に手をついて頭を下げる。

 焼け爛れた目を覆い隠す帯の端が、さらりと頬を撫でた。


小雪こゆきと申します。以後お見知りおきを」

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