第37話 夢語
そして午後。師弟は謁見の席で、出立の許可を願った。
出立の許可の求めを聞き、御上はほう、とため息をついた。
「あらぬ嫌疑をかけてしまった詫びをしたいし、できるならもうしばらく滞在してほしいのだが……これ以上そなたらの足を止めるのもしのびない。……許可しよう」
「ありがたく存じます」
許しを得て、
あんなにも容易でなかった謁見が簡単に叶い、あっさりと出立の許可が下りて、小雪は複雑な気持ちだった。これでいいのだと思う半面、これで終わりなのかという嘆きが胸中から聞こえてくる。相反する気持ちが胸に同居していて、落ち着かない。
御上が朱鷺に問う。
「出立は、いつにするつもりだ」
「明日には発とうかと。北へはどうにか行けるでしょうから」
「北か。そうだな、奥滋野あたりはもうそろそろ、雪が降っているであろう。
そう言う御上の声音には、柔らかな笑みが混じっている。きっと
御上は言う。
「母上は、そなたたちのことを気に入っている。こたびの一件でも、そなたたちのことを大層案じておった。出立を惜しまれるだろう」
「
「そうか、顔を見せて差し上げてくれ」
笑みを含んだ声音で御上は言う。ややあって、静かな声で周囲の者らに命じた。
「……しばし、弟子殿と話をしたい。皆、外してくれぬか」
思いもよらぬ命に、小雪の鼓動は唐突に跳ねた。
だというのに朱鷺は逆らいもせず、御意と言って下がるのだ。廊下で待つと、小雪に言い残して。御上の命には逆らえないとはいえ、もう少し食い下がってくれてもいいのに。
しかも気づいてみれば、同席していたはずの小姓やら何やらの気配も消えている。それとも、小雪がわからないだけでそこにいるのだろうか。
二人きりにされ、小雪の緊張はさらに増した。頭の中で何かがぐるぐると回る。
「そんなに硬くならないでくれ。少し、話したいだけだから……」
と、小雪の表情やまとう空気に心情が表れていたのか、御上は困ったふうに息をつく。その物言いは、どこか巷間の若者のようだ。
小雪は一瞬、遠い昔に逆戻りしたような錯覚に襲われた。伏虎の町中で、叶わぬ想いに胸を痛めていたあの頃。寂れた社の中、五感で感じたあらゆるものに包まれているような錯覚さえした。
思い出の欠片が小雪の混乱を鎮め、落ち着かせた。緊張は解けないままであるものの、平常に近い心持ちになることができた。
次に彼が発する声音は、小雪が恋い焦がれた青年のものだった。
「……そなたは、留まってくれないのか」
「……はい」
小雪は唇を噛みしめた。膝の上に置いた拳が震え、胸が詰まる。
留まると言えたら、どんなにいいだろう。だがそれは無理だ。
彼とてそれは百も承知だろう。最初からわかっていたというふうに苦笑の息をついた。
「やはり、留まってくれぬか」
「わかっていたなら、仰らないでください。私は貴方のそばにいられない。そんなこと、貴方も御承知のはずです」
「ああ、わかっている。だがそれでも…………」
彼の声音が切なく揺れた。問うように、縋るような空気が肌を撫でる。哀しみが胸から喉へせり上がってきて、小雪は泣きたくなった。
彼を卑怯だと思った。
「……言って、何になります。今の私たちに、未来などないというのに」
「………………そう、だな。……すまなかった」
傷ついた声で彼は謝る。小雪の胸が痛んだ。
どうしてこんなふうに言ってしまったのだろう。小雪は後悔した。同じ拒むにしろ、もっと上手い言い方があるはずなのに。口をついて出るのは、冷えて傷つけるだけの事実ばかりだ。
彼は話題と声音を変えることで、重く沈んだ空気を払う。
「……このたびの一連の事件は、武士の愚かさや
「……」
「もし
彼の声から後悔がにじんでいく。小雪はいいえ、と必死に首を振った。
「それでよかったのです。貴方が証拠もなく奉行の裁きに異議を唱え、私を助ければ、公正な裁きという理想を貴方自身が穢してしまっていました。貴方は正しかったのです」
正成が来てくれるまで、小雪は心のどこかで、彼が助けてくれるのではないかと淡い期待を抱いていた。彼にはそれだけの権力がある。保護者である朱鷺が権力者ではない以上、小雪には彼しか自分を助けてくれる人が思い浮かばなかった。
けれど、彼の将来を案じる気持ちもあったのだ。彼に理想を実現してほしかった。だからこそ余計、苦しかった。
「貴方は、毒を盛った犯人を見つけることを優先し、
彼は己を許せないだろうとわかっていても、小雪はそう言わずにいられなかった。すぐ助けてもらえなかったことを残念に思う気持ちはあっても、彼を恨むことはできない。むしろ、今も己を責めている彼を慰め、労わりたかった。
互いが孤独を感じる、重苦しい沈黙が長く続いた。それを破ったのは彼だった。
「朱鷺。私は理想を貫く。このたびのような事件は、二度と繰り返されてはならない。そのためにも改革を成功させ、人々がその身分や職業によって差別され、虐げられることのないよう力を尽くす。すべての身分と職業の者が手を取りあい、偏見の垣根を越えて笑いあえてこそ、真の太平であるだろうから」
「……」
「そして、そんな世へ向かっているのだと確信できたときにこそ、もう一度そなたの手をとりたい。……そのときに、私の手をとってくれないだろうか」
「……!」
疑いようのない真摯な声音に、小雪の喉がひくりと動いた。胸や喉や瞼に熱いものがこみ上げてくるのを感じ、強い感情に貫かれた体が震えてくる。
何を言えばいいのかわからなかった。言いたいことや語りたい想いが、泡のように浮かび上がってきてはどこかへ消え去っていく。想いを表わす言葉が見つからない。
嬉しいのか、悲しいのか、それとも悔しいのか。何もわからない。
ただ、この想いと約束が自分たちをつなぐ絆であることは、小雪にも確信できた。
覚えていよう。小雪は強く思った。たとえ彼の努力が実らなかったとしても、もう会えなくなったとしても。彼が今この瞬間、誓いに込めた想いは忘れまい。
この言葉を聞けただけで充分だ――――――――
「さようなら、
「――――!」
大きく深呼吸をして、今の自分にできるとびきりの笑顔で別れを告げて、小雪は音もなく立ち上がった。呼び止めようとするかすかな吐息を無視して、かすかに光が差すほう――――障子の向こうへ向かう。
部屋を辞してすぐ、優しい手が小雪の手をとり、肩を叩いた。労わるように、励ますように。
「……じゃあ、行こうか」
「はい」
頷くと、朱鷺が手を引いて小雪を導いてくれる。小雪は振り返ることなく、導きの手に従った。
一歩一歩部屋から離れるごとに、胸が軋みを上げるような気がした。何故だろう。恋はもう三年前に終わっていて、あの人はかつて恋した人というだけのはずなのに。離れることがこんなにも悲しく、苦しい。
追いかけてくる足音がないことに心底安堵し、落胆する己を小雪は嗤った。
三年前もそうだった。故郷から離れながら、想い人が追いかけてくるのを期待し、落胆して。自由になってからも、突然断ち切られた幼い恋を思い出しては、己の愚かさと叶わぬ想いに何度も涙した。
けれど、それももう終わりだ。
夢はいつか終わる。目覚めと共に夢を忘れ、人は生きていく。
それだけの話だと、涙を一筋流し、小雪は己に言い聞かせた。
神庭琵琶夢語 星 霄華 @seisyouka
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