第23話 秋雨に混じる疑惑
「……うん、大分ましになってきたね」
「でも激しさが足りないね。ここは……」
と、朱鷺は気づいた点を、自ら演奏しながら指摘していく。小雪はそれを真剣に聞き、注意しながら弾き直していった。
小一刻ほどそれを繰り返し、休憩を挟むことにした朱鷺は結に茶を用意してもらうと、縁側へ小雪を誘った。
今朝から続く雨はまだ止まず、冷気が肌を粟立たせる。降り注ぐ雨音はしめやかで優しく、軒先や雨樋から滴る水音は旋律の合間に落ちる合いの手か、遠い昔に聞いた母の子守唄のよう。無言で耳を澄ませていると、意識が遠くなりそうだ。
淹れたての熱い茶を一口飲んで、小雪はぽつりと呟いた。
「……秋ももうすぐ終わりですね」
「ああ。北のほうはもう雪が降ってそうだね。……その前に、出ていきたかったんだけどねえ」
女をこんなに待たせるなんてねえ、と朱鷺は大きなため息をついた。
小雪が過去を明かした翌日、朱鷺は御上に謁見を申し出た。城を出て、漂泊の身に戻る許可を得るためである。しかし御上は今重要な案件を抱えており、
この空白は、混乱した心を安定させるのに充分な時間を小雪に与えてくれた。いつものように琵琶の稽古をして、時折
ただ、昨夜の宴では心安らかでいられなかった。宴に出席した客の中に、あの
「……ひと月後にはもう、北のほうは雪景色なのでしょうか」
「ああ、多分ね。北は雪の量が半端じゃないって聞くから、道がふさがってるかもしれないし。ここはもう、
桜薙山は、
どこへ行くにせよ、御上の命で城に留まっている以上、小雪たちは勝手に城を出ることはできない。御上に会えないのなら、待つしかなかった。
「……」
御上の時間が空くのを待つだけなのがもどかしく、内心でため息がもれる。商人の屋敷なら逃げ出せるのに、と思ってしまうあたり、朱鷺の奔放さに毒されてしまっているのかもしれない。
考えても仕方ないこと、もうしばらく雨音を聞いていようと、小雪が考えることをやめてすぐだった。
何の前触れもなく、朱鷺の空気が鋭いものに変化した。唐突な変化に小雪は戸惑い、眉をひそめて師を振り返った。
「師匠様……?」
「……外が騒がしい」
言われて聴覚を意識して研ぎ澄ませてみると、朱鷺が言うとおり、雨にまぎれて入口のほうで誰かが騒いでいた。それも、複数の男性だ。
誰だ。ここは客人用の離れだ。諍いとは無縁のはず。
小雪がその正体を探る間に、ざわめきは荒々しい足音を立てて離れのあちこちを走り回る。誰かを探している声がする。息が詰まるほど強くなる緊迫した空気に小雪は怯えた。
やがて足音は縁側に辿りつき、小雪と朱鷺を取り囲んだ。周囲から立ちのぼる不穏な人の気配に、小雪は身を竦める。朱鷺はそんな小雪を宥め、庇うように寄り添った。
小雪と朱鷺を囲む人垣から、声が聞こえた。
「お前が野土の琵琶師、小雪か」
「……はい。そうですが」
居丈高な呼ばわりに、表情を硬くして小雪は答えた。刀の音などから察するに、招かれざる客たちは男は兵なのだろう。正成たちが歩くときのような衣擦れの音がしない。
小雪は嫌な予感しかしなかった。鼓動が自然と速くなる。
その予感は、外れなかった。
「野土の小雪。老中、本多明徳様を毒殺した疑いで、取り調べる」
「え……」
瞬間、小雪の頭の中は真っ白になった。男の言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「…………一体どういうことだい」
小雪のすぐ隣から聞こえた怒りの空気を伴う声は、常よりもはるかに低く、皮膚を通り越して心の臓に強く打ちつけた。
「稽古の合間の休憩にって弟子と縁側でのんびり茶をしばいてりゃ、邪魔された挙句、この子がお偉いさんに毒盛っただって? だから連れて行く? 何の説明もしないで、ふざけんじゃないよ」
「っ……」
兵たちは、思わぬ苛烈な反撃にすっかりたじろいでしまっていた。野土の女の無礼を咎めもしない。驚き、困惑し、ひそひそと言葉を交わす。朱鷺がまとう雰囲気には、兵の高飛車な態度をくじくだけの力があった。
同僚と相談を終えたのか、一人が咳払いをすると、簡潔に経緯を語った。
「……明徳様は昨夜、
「……で? なんで小雪が疑われるんだい」
「その娘が雪代神戸家の宴にて、明徳様の杯に細工をしていたことは女中の証言で明らかだ。その娘以外に、明徳様の杯に毒を仕込めた者はおらん。よって、その娘が疑われているのだ」
「そんな! 確かに一度だけ、明徳様にお酒をお注ぎしましたけど、毒なんて盛っていません」
「そうだよ。大体、この目でどうやって男どもが見てる中、毒を仕込むっていうのさ。その女中の嘘に決まってる」
朱鷺が小雪の反論を補強してくれる。が、兵はまるで聞き入れてくれない。
「何を言う! 雪代神戸家の屋敷の女中が嘘を申すなど、あるはずがない」
「は! どこのお偉いさんの女中だろうと、人じゃないか。嘘つくことだってあるだろうに」
「――――ありました! これを!」
室内から、大きな声と共に誰かが入ってきた。何かを持っているらしい。
男はおお、と感嘆したような声を上げた。
「見ろ! これはお前の部屋から発見されたものだ。中に何が入っているか知らんが、どうせ毒だろう」
「はあ? 何言ってんのさ、そんなもんこの子は持っちゃいないよ! 誰かの陰謀だよ!」
「ええい、いい加減にしろ!」
朱鷺が食い下がるのに我慢の糸が切れたのか、とうとう男はわめいた。
「その娘に毒殺の疑いありと、評定所が判断したのだ。その上こうして、毒瓶が出てきたではないか。野土如きが、評定所の判断に文句を言うな! 大人しくついてこい!」
「! このっ……!」
「師匠様! 駄目です!」
隣から不穏な気配が放たれる。小雪は朱鷺の腕にしがみついた。
小雪は明徳に毒など盛っていない。確かに明徳は自分にひどい態度をとった、嫌な男だ。しかし毒を盛るなんておそろしいこと、小雪にできるはずがない。大体小雪は、毒を作る方法も仕入れる方法も知らないのだ。
だが――――――
「…………わかりました。行きます」
「小雪?」
「わかればいい」
従順な態度に気を良くした男とは反対に、朱鷺は自分の腕から離れた小雪の両肩を抱いた。
「やってないのに、なんであんたが行かなきゃなんないんだい!」
「でも私が行かなければ、師匠様まで捕らえられてしまいます!」
小雪は叫んだ。
今の小雪にとって、朱鷺は人質も同然だ。彼女まで捕らえられたくないなら、大人しく捕縛されるしかない。
「……師匠様、私は大丈夫です。毒を盛ったりなんてしてませんから。きっとすぐに出られます」
胸元で手をぎゅっと握り、小雪は無理やり笑んでみせる。
「小雪……」
朱鷺はらしくない、弱気な声音で弟子の名を呟く。きっと悔しそうな顔をしているのだろう。
本当は怖い。平気だと言ってはみせたが、本当に無罪放免でいられるのか、小雪は見当もつかない。捕らえられた者が過酷な拷問を受け、やってもいないことをしたと言わされるというのは聞いたことがある。自分もそのように、無実の罪で責められ、裁かれるのかもしれない。自分がこれからどうなってしまうのわからなくて、怖い。
それでも、行かなければならないのだ。
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