第27話 遠いお伽話・一
言い訳にならない言い訳で集落から出て、活気に溢れる人通りへは行かず、土辺への近道である小路を抜ける。気ばかりが急いて、髪が乱れるのも気にならない。なるべく衝撃を与えないようにしなければならない木箱が、煩わしく感じられた。
寂れた社の前で立ち止まり、鳥居の足元に印があることを確かめた少女の胸は、走っていたからではない別のもので高鳴り熱くなる。鳥居をくぐり、物陰に隠れると深呼吸をして息を整え、乱れた髪を手ぐしで整えた。それがこの社へ来るときの、少女の最近の習慣だった。
「来てくれたか」
障子が破けた社務所の引き戸を開くと、書物に目を通していた青年が顔を上げてふわりと笑みを浮かべる。少女は高鳴る胸の鼓動を抑えられなかった。
「……勉学ですか?」
「ああ。昨日、
「まあ、それでは他の方々がお困りなのでは」
「何、
それより、と澄まし顔の彼が手招きするので、少女は彼の隣に座った。少しばかり緊張しながら、手にしていた木箱を躊躇いがちに開ける。
「あの、あんこ餅を作ったのです。お好きだと仰っていましたから。もしよろしければ……」
「おお、作ってくれたのか」
少女が差し出すと、彼は嬉しそうにあんこ餅を掴んだ。満面の笑みで頬張る姿に、人目を盗んで作った甲斐があったと嬉しくなる。
住む場所が離れている二人が会えるのは、月にそれほど多くはない。前もって決めておいた日になんとか仕事を抜けだし、この寂れた社で待っていてようやく会える。当然、急いでやって来ても相手がいないことはしばしばだ。今日も少女は道中、彼に会えるかどうか不安を抱えていた。
「あんこ餅の作り方など、よく知っていたな。菓子職人しか知らぬと思っていたぞ」
「餅屋に勤めていたという父の知人が、以前教えてくれたんです。材料はその方から頂きました。あまり作らないので、職人のようにはできませんが……」
「何を言う。このあんこ餅は美味いと思うぞ」
「……ありがとうございます」
食べてくれるだけでも嬉しいのに、素直な賛辞まで送られれば頭を下げるしかない。喜びやはにかみ、愛しさが混じって胸に柔らかな火を灯し、頬だけでなく全身に熱をくまなく与えていく。
いつからだろう。この火が胸に灯るようになったのは。いつの間にか、彼の一挙一動に目を奪われていた。彼の笑顔を見ること、そばにいることさえもがくすぐったく、恥ずかしく――――嬉しくて。褒め言葉は社交辞令なのだと言い聞かせても、身悶えしたくなるような熱が全身を駆け廻る。
そして、そのたびに胸が痛むのだ。彼が何者であるのか直接問い質したことはなかったが、少女はうっすらと理解している。だが彼が身分を明かそうとしないから、尋ねるのは双方にとって良くないことのように思え、少女は聞けずじまいのままだった。
彼のことをもっと知りたい。もっとそばにいたい。家の手伝いをする間も、彼が集落、いや家にいたならと考えることがある。こうして秘密の逢瀬に行くときも、自分の身なりが気になって仕方なく、彼が好きだというあんこ餅を作ってしまった。想いは募るばかりで、近頃では周囲の者たちから、誰を慕っているのだ、お前なら良い嫁になれる、いっそお前から想いを告げてしまえとからかわれる始末だ。そのたびに少女は赤くなって、逃げ回らなくてはならなかった。
あんこ餅を食べ終えた彼は、ところで、と話題を変える。
「半年前に、身分による衣服の規制を撤廃する触れが出たが、あれから
「多くの人は、今までと同じ服を着ています。
「ふむ……では調度や小物はどうだ。その規制も緩和する触れが出ただろう」
「そうですね……私の家はまだ裕福なほうですから、贅沢品を買うことが増えたように思います。父が菓子を以前より頻繁に買ってくれるようになりました。でも着物と違って、贅沢な物は家族以外の人が目につくようなところへ置いたりはしません。見せびらかすようなことをすれば、贅沢ができない人を不快にさせてしまいますから。来客用の菓子を常備するようになったくらいです」
死んだ牛馬の処理を生業とする土垢が多く暮らす、土辺と呼ばれている少女の集落には、町と同様に貧富の差がある。皮剥ぎの中にもよく稼げる者とあまり稼げない者はいるし、集落には他の職業の者も住んでいるのだ。閉鎖的な集落の中で裕福な家の者が他の者たちとうまくやっていくには、自分の稼ぎを誇らず、同郷の者への配慮を欠かさないことが不可欠なのだった。
「そうか……」
顎に手を当て、彼は俯き加減で瞑目する。考え込むときの癖なのだと知っている少女は、その横顔をしばらく無言で見つめ、耐えきれなくなってそっと視線を外した。
彼は時折少女に、土垢が藩主の政策についてどう思っているか尋ねてくる。それもまた、少女が彼の地位を疑う理由のひとつだった。政治に何らかの形で関与することができる身分、役職でなければ、そんなことを聞く必要はないのだから。
だから尋ねられた後の沈黙が、少女は怖かった。自分と彼の絶対的な違いを突きつけられたような気持ちになるから。二人きりでいるのに彼を遠く感じるのが嫌だった。
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