第28話 遠いお伽話・二

 少女にとって居心地の悪い沈黙が下り、けれど彼を見ることはできず、少女が手持無沙汰に縮こまってしばらくして、彼が口を開いた。


「……そなたは、何が一番嫌だと思う」

「嫌なもの……ですか?」

「そなたは皮剥ぎの娘だ。土辺つちべの中ではそうではなくても、町に出れば良い扱いはされていまい。理不尽な思いもしたろう。その中で、何が一番耐えがたい?」

「……」


「私は幼い頃から、土垢つちあか野土のづちを卑しい者と教えられて育った。だがその一方で、藩主が野土の芸者を城へ招き、皮剥ぎによって作られた道具で家臣たちが鷹を手に留まらせるのを見てきた。卑しい者と蔑みながら、我ら武家は土垢や野土たちに支えられているのだ。平民もそうだ。だというのに武家だの皮剥ぎだの、そうやって身分や職業によって人を分けて考えることはおかしい。下賤の者と蔑みながらその支えに縋り、搾取するなど、古の暗君と同じではないか」


 彼はぐっと拳を握る。唇を噛む顔は悔しげだった。


「そなたと出会って、こうして逢瀬を重ねて、その疑問はますます深まった。この世はおかしい。私はそれを正したいのだ。だが、虐げられる者が何を望んでいるのかわからない。だから教えてほしい。……私はそなたから、苦しみを取り除いてやりたいのだ」

「私は…………」


 言葉にしかけ、しかし少女は数拍口をつぐんだ。

 言えるはずがない。想いが報われる望みすらないことが一番つらいなどと。そんなこと、口が裂けても言えない。

 だから少女は想いに口を閉ざし、代わりのことを言う。


「私は……土垢だからというだけでひどいことをされるのが、それが当り前であることが一番悲しいです。土垢だから、皮剥ぎだからと蔑まれ、見下され、ひどいことをされるのが……それをおそれ、町を歩くだけでも身を小さくしなければならないこともつらいし、悲しい。他の人とは違うと、線を引かれることが……」


 そう、少女は町を歩くたびに覚える恐怖を率直に伝え、目を伏せた。


 相手が土垢、それも皮剥ぎだと知った平民の態度は冷淡だ。常連の老鷹匠のように優しい人は少なく、土垢が相手なら罪は軽いからと、平気でかどわし暴行する者もいる。気味が悪いと石を投げられることは常だ。そうした扱いをされたくなくて、町へ行ってもすぐ帰る土垢は多い。

 土垢であることも皮剥ぎであることも、望んだことではない。自分ではどうすることもできない結果なのだ。なのに人々の冷たい態度も蔑みも受け入れなければならない理不尽に対する怒りは、少女の、いやすべての土垢の胸にくすぶっている。


「………………それが、土垢の痛みか」

「………………はい」


 少女は彼と目を合わせないまま、小さな声で頷いた。

 土垢であるがゆえの痛みを聞いていた彼は、少女の名を呼んだ。


「……私は時々、我が身の地位が煩わしくなる。父は私の誇りであるし、後を継ぐことに異論はない。だが、身分が違うというだけで人を蔑む者を毎日のように見聞きするたび、腹立たしくなる。けれど私には力がない。蔑まれる者らをひととき庇うことも難しい……」

「……」

「何故、同じ人間が蔑まれなければならない? 土垢であろうと武家であろうと、泣き、笑い、怒る。血の通った人間だ。旗本の地位とて、金を出せば買えるのだ。垢付けで土垢となっても、恩赦で元の身分に戻ることができる。大工の棟梁の跡取りが、高名な歌人になったことも。身分や職業など、その程度のものなのだ。なのに何故、身分や職業で蔑むことが許される? そなたと会うことさえ、秘めたものにしなければ叶わない。正直なところ、時々、何もかもを捨てて城を出てしまいたくなるのだ…………」


 恨めしそうに、悔しそうに、そして切なそうに。彼は目を窓へと向けた。


「身分も職業も関係なく、人々が笑いあえる……そんな世であれば、そなたと何の気兼ねもなく、日の下で笑いあえることができるのだろうか。もし私が、将軍になれるなら……」

「そ……」


 そんなこと、と言いかけて少女は口をつぐんだ。

 そんなことは不可能だ。身分も職業もまるでないかのように誰もが笑いあえるなんて。第一、将軍になれるのは将軍家に生まれた者と、御三家だけだ。そのくらい少女でも知っている。彼の手が届くような地位ではない。

 わかっている、と彼は言った。


「城の者たちや父上なら、戯言だと言うであろう。だが私はこの人気のない寂れた社ではなく、明るい日の下でそなたと語らいたいのだ。そなたが花を愛で鳥を愛でるのも、明日を夢見るのも当たり前のこととして――――……」

「……」

朱鷺とき。私は平らな世を作りたい。武家も平民も土垢も、そして野土も、ひとつの輪の中にいるような世を。いや、そんな国にするには、私の地位では不可能だ。ならせめて、和浪かずなみ藩の中だけでもそんな地にしたい」

「……」


 彼は熱く、己の夢を語る。少女はそれを、胸に痛みさえ覚えて聞いていた。

 見つめてはくれないのに、彼の夢は少女と似ていた。地位も身分も関係なく、仕事に明け暮れる日々の合間に寄り添って四季を感じ、琵琶を奏で、共に明日を夢見る。なんて幸せな日々だろう。


 彼はひどい。少女が自分にどれだけ恋焦がれているか、どれほど必死な思いで恋情を隠しているか知りもしないで、舞い上がらせることばかりを言う。ただ身分違いの知己との語らいを願ってくれているのだ、叶わぬ想いなのだと自分に言い聞かせても、かすかな期待が胸を高鳴らせる。そしてそれ以上の悲しみで、心が涙を流すのだ。

 少女が彼と結ばれる未来はない。土垢が平民や武家に受け入れられる日は来ない。それが現実なのだ。


「……そんなこと、貴方の周りの方々が許すはずがありません」

「ああ。この理想を実現するには、藩の中のみとはいえ、険しく厳しい道を歩かねばならぬだろう。一生かかっても無理なのかもしれぬ。だが、それでも私は実現させたいのだ。誰もがひとつの輪の中にいるなら、身分も職業も関係ない。そんな場所を作れたならば、私は………………」


 虚空を見つめていた瞳が、唐突に少女へと向けられた。その、知らない人のような強い眼差し。

 視線が絡みあった刹那、鼓動がひと際強く鳴った。小鳥のさえずりや遠いざわめきさえも少女の耳から消え、全身が熱っぽいような、じんと痺れるほど冷えていくような奇妙な感覚に襲われる。


 この瞬間、世界には何もなかった。少女と彼がいるだけだった。


 床についていた手に、一回り大きなそれが重ねられた。自分とはまるで違う手触りと温みは、痺れとなって体中を駆け廻る。少女はそれをおそれた。


「あの、手を………………」


 いたたまれず、少女は頬を染め目を伏せて懇願した。自分から離れることはできなかった。今更ながら、彼と距離をおかなかったことを後悔した。

 彼の声が、切なさやおそれでゆがんだ。


「身分も職業も関係なく寄り添いあえる世ならば、そなたは私の手をとってくれるだろうか」

「………………!」


 懇願するような問いかけに、少女は絶句した。呆然と目を見開き、彼を見る。

 そのひたむきな面、瞳、声音。偽りなど一片も見当たらない表情。

 逃げることはできなかった。

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