第25話 望みの代償

 老中たちの世間話の体を借りた当てこすりを退け、一人になった御上は正成まさなりを呼びつけた。


「お呼びでございましょうか」


 現れた正成が一礼する。御上は脇息から腕を離し、居住まいを正した。


「例の件の調査はどうなっておる」

「証言や物的証拠は揃いつつありますが、手先のみを捕らえる証拠でありますれば、黒幕まで捕らえるには少々難しいかと」

「……では、明徳あきのり毒殺の件は」

「そちらは首尾よく進んでおります。ですが、小雪こゆき殿の沙汰が下される前に終わらせることができるかどうかは保証しかねます」


 御上に問われるまま、正成は淡々と報告する。予想していた、そうであってほしくなかった報告に、御上はきつく拳を握った。


 例の件というのは、目付と御庭番が噂を耳にしたというとある不正についてだ。明徳毒殺の件について御上は奉行所とは別に独自の捜査を正成に命じていたが、数月前から極秘に調査していた重要案件を一時中断することは、御上のやり方ではない。同時進行で二つの案件は調査が進められていた。

 御上は開いていた扇子をぱちんと閉じた。


「……評定は、十日後だ。初回の審議は五日後。担当の社奉行は赤名あかな久治ひさはる、老中は三好みよし和信かずのぶだそうだ。……あの選民思想の者らが、な」


 老中の中では比較的若い三好和信は、良くも悪くも平凡な才の男だが、明徳と同様、法制大改革の着手に最後まで反発していた。土垢つちあか野土のづちは卑しく生まれながらの犯罪者の集まりであり、武士や平民と対等に扱う道理はないと。そういう男なのだ。そして社奉行の赤名久治は、和信の取り巻きの一人である。一人、公正明大な男はいるが――――評定の結果は、初めから決まっているようなものだ。


 この事件を取り扱っている評定所は、幕府を揺るがすような重大犯罪の他、藩や藩主に対する訴訟、訴える者と訴えられた者の身分や所属が異なる事件を担当する司法の最高機関だ。葛城かつらぎ屋敷で三奉行が合議し、判決を下す。今回の事件は、野土に武家、それも老中筆頭を毒殺した容疑がかかっているので、評定所の管轄なのだった。

 顔は平静なまま、正成の視線が呆れの色を帯びた。


「……よく御存じでいらっしゃる」

「盗み聞きと誘導尋問は得意なのでな」

「御上ともあろう方が、御庭番や廻り方の真似事とは……」

「悪く言うな、正成。これとそなたたちのおかげで、私は政治を上手くやっていけているのだ」


 悪びれもせず返せば、正成はため息をつく。いつものことながらそれが面白くて、御上はくつくつと喉で笑った。


 気配を殺して襖の向こうの秘め事を盗み聞き、集めた情報をもとに家臣や女中などを誘導尋問して知りたいことを知り、あるいは罠にかける。経験と知識の不足を補うため和浪かずなみ藩主時代に身につけた手管は、今でも磨きをかけている途中だ。これのおかげでいち早く不正を知り、対策を立てられたこともある。通じない相手もいるが、そこは書物で得た知識や肩書、忠義を尽くしてくれる臣らの助力でごまかして、どうにかやってこれていた。


 将軍就任から二年が過ぎ、以前よりも好意的な臣は増えたと思う。しかしまだ若い政治的手腕を疑う者は多く、身分と職業の平等という理想を疎んじる者も数多い。彼らの目を変えるには、今以上に為政者として励み、平等な世にする意義を訴えて彼らの意識を変えていかねばならない。そのために多少隠密めいた情報収集をするのはやむをえまいと、御上は開き直っていた。

 御上は表情を引き締め、話題を戻す。


「取り調べのほうは、どうなっている」

「知人の話によると、小雪殿は頑なに容疑を否認しているとのこと」

「それはそうだ。彼女が人に毒を盛るはずがない。大方、法制の改定を撤廃させたい者らによる濡れ衣であろう。明徳自身の怨恨の線も消えぬがな」

「小雪殿の仕業ではないとすると、毒は賄い所にいる者か、膳や杯を宴席へ運んだ女中が仕組んだことになりましょう。あるいは、宴の後に用意されたのやも」

「であろうな。毒瓶が彼女の部屋で発見されたことからすると、白郷丸はくごうまるにいた女中にも手先がおるようだ。……町奉行の月番は南であるから、三奉行の見解はおそらく一致すまい。老中の月番の三好和信に判決が任されれば、朱鷺は死罪、良くて遠流か垢付けだろう。私が助けることも可能だが、それは避けたい。そうなる前に朱鷺ときを救えるよう、手を尽くしてくれ」

「御意」


 御上の命に、正成は頭を垂れた。


 法制大改革の反対派にとって、野土の娘が老中を毒殺したなどという事件は、大改革の一角を切り崩す格好の口実だ。現にこの事件が起きて以来、法典の改定作業に参加していた反対派から、だから野土や土垢とそれ以外の身分の者らを同等に考えてはいけないのだというような声が上がり、数少ない賛成派との間に、議論とは無関係の対立を深めている。あくまでも容疑者が捕らえられただけで、罪人と確定したわけではないのにこの状態である。黒幕の想定内に違いない。


 調査を進めていた件と今回の明徳毒殺および朱鷺――小雪への容疑に繋がりがあることを、御上は確信していた。時期やこれまでの調査報告を総合的に考えると、そうとしか思えない。法制大改革を潰し、自身の罪は野土になすりつけて知らぬ顔を通すつもりなのだ。なんと卑怯な手口だろうか。


 三年ぶりに再会した想い人が毒を盛ったなどと、御上は一片も疑っていない。記憶の中の彼女はいつも控え目で気立てが良く、身分や職業による差別に怒りや悔しさを覚えても、じっと我慢する性質だった。その性根は今も変わっていない。それはあの一夜で確信している。

 彼が城に師弟を留め置いたのは、当代一の歌舞音曲を母にも聞かせたかったからだ。何より、両目を隠した、想い人を思い起こさせる弟子の素顔を確かめたかった。

 執務や謁見、勉学でそれらはなかなか叶わず、滞在を延ばし延ばしにさせてしまった結果が――――これだ。


 将軍の権力を使えば、彼女を牢から出すことは可能だ。しかしそれは、権力者が私情で法に干渉するという、自分が嫌悪している行為に他ならない。自ら法の領分を犯しながら、下々には法に従えなどと言えるはずがない。正成ら御庭番にこの件の捜査を最優先させるよう命じるのが、法を犯すことなく想い人にしてやれる精いっぱいだった。


 本当は、彼女を助けたい。人を使ってではなく、自らの手で。思うように動くことのできない身がもどかしくてならない。


『私如き、捨て置かれませ』

『その夢物語を叶えるために、将軍となることを決意されたのではないのですか』


 不意に、激情のまま動こうとするのを制止する声が脳裏をかすめた。愛しい女と、誰より信頼する臣の声だ。

 これが己の選んだ道だと、理想を実現させるための唯一の方法なのだとわかっているけれど。

 望み、受け入れた将軍の地位が、今ばかりは疎ましく思えた。

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