2月
やっぱり、無理
恋愛とかそういうのって、なんかこう、熱のあるものだと思ってた。
でも、違ったみたい。
楽しいから、一緒にいたい。毎日一緒にいたい。ずっとこのまま、一緒にいたい。
そんな恋心もあったんだ。
認めてしまえば、笑ってしまうくらい受け入れてしまったこの気持ち。
稲葉が思わせぶりなことを言う前から、わたしは彼のことが好きだったんだろうか?
いつの間にかってのが、一番しっくり来る。
認めてしまったから、受け入れてしまったから、素直に稲葉に気持ちを伝えられるか、というのはまた別問題だった。
「稲葉さんは、恵方巻き食べるの?」
「食べたことないですよ。なんか、高いし。そんな余裕ないです」
明日は節分。
稲葉の、意外と言えば意外だし、らしいと言えばらしい答えにちょっと笑った。
前日の今日も、もちろん恵方巻きを売り出してる。
「そろそろ、値引きした方がいいですよね」
「あー、もうすぐ6時かぁ。お願いします」
片付け終わったフライヤーの油を補充した稲葉が、恵方巻きの値引きに行った。
「いらっしゃいませ!」
今にして思えば、稲葉は毎日のように思わせぶりなことを言ってた。
思わせぶりなことを言われ続けてきたから、稲葉のことを素直に意識できなかったかもしれない。
稲葉は、わたしのことが好きかもしれない。冴えないわたしを、からかって遊んでいるだけかもしれない。
もちろん、前者の方がいいに決まってる。
何にでもなれると思ってた子どもの頃が懐かしい。
あの頃みたいに傷つくこと恐れなかったら――それはただの無謀だけど、稲葉に直接思いを伝えたり、尋ねたりできたと思う。
フライヤーに蓋をしながら、ため息をつく。
いっそのこと、しばらく稲葉に仕返ししてやろうか。
汚れて曇ったステンレス製のフライヤーの蓋では、鏡のようにわたしの顔は映らない。でも、マスクをしててもわかるくらい意地の悪い顔をしてるに違いない。
「いらっしゃいませ!」
稲葉がなかなか値引きから戻ってこないから、売り場に出てみるとご年配の男性客に頭を下げてた。
「明日まで、もたないのかよ」
「はい。賞味期限は本日限りとなっております」
ああ、よくある厄介なお客さんか。
そりゃあ恵方巻き、千円くらいするからね。ハーフサイズや、中巻、細巻きなら、お買い得だけどそれで恵方巻きってのはちょっとである。
値引いた恵方巻き買って、明日食べようってことだろう。
多分、他にも同じことを考えるお客さんはいるはず。
「店員としては明日食べても大丈夫だとは言えないので、自己責任で食べていただくしかないんです」
稲葉にしては、かなり強気な言い方だった。
そのお客さんは稲葉をにらんで鼻を鳴らしたけど、行ってしまった。もちろん、お惣菜は何も買わずに。
肩をすくめる稲葉と目があう。
その目が『やれやれですよ』と言ってるのが、よくわかった。
「いらっしゃいませ! ただ今、恵方巻きがお買い得となっております。いかがでしょうか?」
「いらっしゃいませ!」
わたしが売り込みの声を上げると、稲葉も対抗するように声を上げる。
「おねぇさん、コロッケもうないんだな」
「あ、申し訳ありません」
声をかけてきたのは、寒くなってから茶色い帽子の違和感がなくなったコロッケじいさんだった。
「本日分の在庫は売りつくしてしまったので」
今日は、いつもよりちょっと遅いような気がする。そう気にすることでもないけど。
「コロッケは完売してしまいましたけど、恵方巻きがお買い得になってますよ」
「あー、どうしようかな?」
ダメ元で言ってみたら、コロッケじいさんは帽子に手をおいて考えだした。
意外だ。
ポテトコロッケ以外、買ってるところを見たことないから。
「まぁ、1本くらい買ってくかな」
「ありがとうございます!」
なんか、今日はいいことあったじゃん。
なら、ちょっとだけ稲葉に今までの仕返ししてやろう。迷ってたけど、するって決めた。
稲葉が恵方巻きをいきなり3割引き、半額にしてくれたおかげで、7時すぎに売り場を確認に行ったら完売してた。
ちょっと、早かったような気がしないでもない。まぁ、廃棄にならなかっただけ、よしとしよう。
いつもよりキレイに作業台を磨きながら、わたしは心の準備を整えた。
「稲葉さんって、再来週の火曜日って出勤だったよね?」
「再来週の火曜?」
明日のポップを用意しながら、稲葉は首を傾げて、すぐに戻すと大きく縦にうなずいた。
「出勤です。黒崎さんもでしたよね」
「うん、一応ね」
再来週の火曜日は、14日。2月14日、バレンタインデーだ。
稲葉のことだから、おねぇサマたちからたくさんチョコレート貰えそうな気しかしないけどね。
目が輝いてるのは、稲葉がチョコが好きなのか、それともわたしが……いやいや、今はそんなこと考えたらダメだ。
確実にボロが出る。
いちいち稲葉はわたしのことを馬鹿にしてるだけかもしれないって、セーフティネットを張ってしまう自分が嫌だ。
でも、そうでもしないと怖いんだ。
「黒崎さん、あの……」
「明日の節分、しっかり乗り切ろうね」
「あ、はい」
がっくり肩を落とす稲葉がかわいい。
このまま、全部言ってしまおうか。
ステンレスの作業台に映る自分に問いかけてみる。
やっぱり、無理。怖い。
とにかく、バレンタインデーだ。
その前に、明日の節分を乗り切らないと。
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