誰がうまいこと言えと!
稲葉
とにかく、おねぇサマたちのウケがよすぎる。
リーダーの木村さんはもちろん、岡野さん、お寿司の糸田さん。それから、阿知波の女王サマまで、稲葉をかわいがってる。
さすが、イケメンですよね。
しかし、解せない。
おねぇサマたちの前では、外面がいい。でも、わたしと2人きりになった途端、その外面のよさが微妙に崩れるのだ。
解せない。
「黒崎さん、女王サマがグリーンサラダの発注増やすように言ってくれって言われたんですけど」
「わかってるなら、女王サマが発注してくれればいいのに」
「俺もそう思いますよ」
午後7時前、夕方のお客さんも落ち着いた頃、稲葉から女王サマの注文を聞かされた。
それだけで憂鬱な気分になる。
確かにサラダはわたしの担当だけど、阿知波の女王サマだって発注できるんだ。
いつものことだからいいけど、増やして値引いたり廃棄するようになったらなったで、自分が増やせと言ったことを棚に上げてキレてくるから厄介。
顔に出やすいわたしの顔を見て、作業台を拭いていた稲葉はニヤリと笑う。
「女王サマって言うより、阿知波さんって妖怪口だけ女じゃないです?」
「誰がうまいこと言えと!」
笑いながらツッコミを入れてから、調理場の中のパソコンの発注画面を開く。
思わず笑ってしまったけど、しっくりきすぎて笑いごとじゃない。
妖怪口だけ女。
稲葉とは、時々こういうくだらない会話で笑うことが増えてきたような気がする。
今日は4月19日。
もうすぐゴールデンウィークじゃないか。
発注画面を開いて、あらためて思い知らされる。
「
予定らしい予定もないし、ほとんど出勤だけど、まったく関係ないわけじゃない。
行楽シーズンということで、いつもよりも忙しい。
ほどほどに発注数をいじって、パソコンの近くにあったファイルを開く。
ゴールデンウィークの計画を見ると、いつもそんなにくるのかと思ってしまうほど、売上目標も高く設定されている。
まぁ、なんだかんだで去年も忙しかったか。
って、去年もその前も同じこと思ってたよね。
そうやって、もう30歳になっちゃったんだよ。
ファイルも発注画面も閉じて窓越しに売り場の様子を見ると、稲葉がお客さんにつかまっていた。
「いらっしゃいませ」
様子を見に売り場に出ると、お客さんは惣菜部門のおねぇサマたちと同じようなオバサンだった。
また、かわいがってもらっているなぁ。
残り少なくなってきた商品を並べなおしていると、しばらくして稲葉が横に並んだ。
「黒崎さん、黒崎さん」
「ん?」
「さっきのお客様に、明日でも食べられるかって訊かれたんですけど、ダメだって答えてよかったんですよね?」
さっきのお客さんが戻ってくるのを警戒して、稲葉の声は小さい。
なるほど。
今回はあっさり引き下がったようだけど、しつこいお客さんもいるから、ちゃんと教えておかなきゃ。もちろん、調理場の方で。
惣菜の賞味期限は、ほとんど当日だ。
特に40代より上の年齢層に多いんだけど、明日食べても大丈夫かと尋ねてくるお客さんがよくいる。
「たいていのお客さんは、賞味期限が当日限りだって知ってるの」
「なんか、そんな感じでしたね」
「確認っていうか、なんかあった時に店員が食べてもいいって言ってた、責任押しつけたいんだよ。だから、絶対に大丈夫ですなんて言ったらダメ」
納得している稲葉には、申し訳ないが手強いお客さんもいるんだよ。これが。
「たまに、『でも、みんな次の日でも食べてるんでしょ?』って、しつこいお客さんもいるから、そういう時は『自己責任でおねがいします』って言えば、切り抜けられるはず」
「はず?」
「というか、これで切り抜けられない客に遭遇したことないし、したくない」
「ですよねぇ」
稲葉も厄介な客を想像したのか、ため息が2つ調理場に追加された。
厄介な客はいくらでもいる。
年齢なんて関係なく、いる。
今日はお寿司が売れていないから、早いけど稲葉に全部半額のシールを貼ってもらう。
明日の広告ポップを用意をしながら、売り場の様子をうかがう。
厄介な客には、いくつか種類がある。
厄介度は低いものの不快度は高いのが、値引き目当ての客だ。
事前に、自分の買い物かごにキープして、店内で30分以上ウロウロした後に、値引きを始めるとすかさず戻って来る客。
今、稲葉に近づいてきたいかにもケチそうな顔をしている太ったオバサンがそうだ。わたしは、心の中で健康サンダル女と呼んでいる。一年中、素足で健康サンダルを履いているからだ。
値引きを稲葉に任せるのは初めてじゃないけど、値引き目当ての客が多い時間帯を任せるのは初めてだ。
案の定、健康サンダル女は、カートに載せた買い物かごの中を指差しながら、稲葉に声をかけている。
健康サンダル女は、稲葉がイケメンでも容赦しないようだ。
ひと言、ふた言、声をかけられて、稲葉は助けを求めるようにこっちを見てくる。
しかたない。助けてやるか。
「稲葉さん。値引き変わるから、
「はい」
ペコリと健康サンダル女と、その後ろのわたしに頭を下げて、稲葉は逃げるように調理場に去っていった。
健康サンダル女をわざと視界に入れずに、稲葉がやり残した寿司の売れ残りの商品を半額にする。
「これ、なりますよね?」
すぐに、無視された健康サンダル女は、カゴの中の10%引きになっているカツ重を指差す。明らかに、キレてる。
わたしも、プチキレてる。
なりますよね? じゃないです。
というか、何にしてほしいんですか。
いろいろと言葉抜けてるんですけど。
後、いつも思うんですけど、なんでカゴの中から出そうとしないんですか。
笑顔を貼り付けて、わたしは心の中で毒づく。
「まだ、なりません」
言い方というものがある。
せめて、「半額にしてください」と控えめに言えば、同じ状況でも半額にしてあげるんだ。
だから値引き目当ての客は、不快度が高いんだ。
今日の健康サンダル女は、すぐには引かなかった。
まぁ、最後のカツ重が売り場から姿を消したのは、少なくとも40分は前のはず。それだけ店の中でうろうろキープしてたら、そうかんたんに引き下がりたくないだろう。
「
「何時かは、決めてません。その日の売れ具合を見ながら、ちょうど売り切れるように値引いてますから」
前にも言ったはずですけど?
笑顔を意識していると、心の中で毒づく台詞がですます調になるのは、我ながら不思議でしかない。
結局、健康サンダル女はフンッと鼻を鳴らして、カツ重をやや乱暴に陳列棚に戻して去っていった。
健康サンダルが、可哀想なくらいバシュバシュ音を立てて去っていった。
勝ったね。当たり前だけど。
値引きを再開しようとしたら、窓越しに稲葉と目があう。
どうやら気になってたようだし、中で何をすればいいのかわからなかったんだろうな。
健康サンダル女が充分離れたことを確認してから、稲葉は売り場に戻ってきた。
「黒崎さん、すごかったですねぇ」
「なにが?」
「いや、マスクしててもわかる満面の笑みなのに、目が全く笑ってない。マスクしてるから、迫力倍増」
「はいはい」
知ってた。でも、ちゃんと、わたしだって相手を選んでる。
健康サンダル女のような、日本語を知らない値引き目当ての客には、強気な態度のほうがいい。
こっちだって、1円でも多く売上に計上したいんだ。
値引いてほしかったら、頭下げろってんだ。
稲葉に値引きの機械をわたしながら、ある程度は値引くか自分で決めていいけど、態度のでかい客はつけあがるだけだと教える。
「あの健康サンダル女、前にどうにもこうにも売れ残るってときに、しかたなく半額にしたら、次来たときに『この間は半額にしたじゃないの』って、うるさくて、うるさくて……」
「あー、なるほど。で、健康サンダル女って、黒崎さんのネーミングですか?」
「そうだけど?」
「黒崎さんも、なかなか面白いあだ名つけますね」
首を傾げたわたしに、稲葉は楽しそうに目尻を下げた。
いやいや、妖怪口だけ女のセンスには、かなわないよ。
やはり、稲葉はよくわからない奴だ。
まだ1ヶ月も一緒に仕事してないから、よくわからなくても当たり前。
でも、なんというかつかめない。
稲葉のプライベートなんて興味ないし、同僚以上に仲良くなろうとも思わない。
ただ、距離感がつかめない。
話せば意外と盛り上がる。
ただ、なかなか話し始めるキッカケがつかめない。
最初の頃のように、気まずい雰囲気になることも少なくなったけどね。
やりづらくなければ、それでいいんだけど、ねぇ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます