5月

女王サマは、取扱い注意!

 阿知波あちわ 由紀恵。62歳。

 我が惣菜部門の女王サマである。


 もちろん、皮肉で女王サマと陰で呼んでいるだけだ。本人に知れたらと思うと――いや、思いたくもない。


 稲葉が名付けた妖怪口だけ女は、阿知波の女王サマにぴったりだ。


 ただそれだけじゃ、とても阿知波 由紀恵という人を表しきれていない。


 とにかく、厄介な女王サマなのだ。


 阿知波の女王サマがいなかったら、わたしの仕事のストレスは9割減間違いないのだから――。



 ゴールデンウィーク後半の5月4日。みどりの日。


 行楽向けの売り込み商品も多いから、わたしと稲葉、それから阿知波の女王サマまで遅番も全員出勤だ。


 こどもの日は明日だって言うのに、朝から鯉のぼりとかの童謡オンリーの店内BGMにうんざりしだした午後4時半。


「ゴールデンウィークだからって、作りすぎよ」


 はい、始まった。

 木村さんが帰った途端、始まったよ。


 阿知波の女王サマのトリセツがあるなら、ガラケー並みに分厚くなると思うよ。


 流しでプラトレイを洗っている女王サマの、横に短く縦に長い背中だけでも怒ってる。


 4つあるフライヤーのうち、電源を落とした3つのフライヤーの揚げカスをすくっていたわたしは、隣でポテトコロッケを揚げていた稲葉と目をあわせる。


 稲葉はゲンナリした目で、なんとかしてくれと訴えてくる。


 いや。なんともならない人だけど。

 と、わかっているけど、話を合わせるだけでも空気がだいぶ違ってくる。


 しかたない。やれるだけのことはやろう。


「阿知波さん、上からの指示なんですから仕方ないじゃないですか」


 バンっと揚げカスをすくった網をザルに叩きつけたが、それをかる~く上回る音で女王サマは洗ったトレイを乱暴に立てかける音がした。


 あ、しくじったなこれ。


 女王サマの手が止まったのがわかった。


『ご愁傷さまです』


 コロッケを並べながら目でそう慰めてきた稲葉を、横目で睨む。


 くっそぉ……。

 よくわかっているじゃないか。


「黒崎さん」


「はい」


 女王サマのお話が始めるときは、だいたいこっちまで手を止めるはめになる。


 フライヤーの隣の流しの方、つまり稲葉と反対側に顔を向ける。


「朝から山のように作って、売れるわけないじゃない。社員は馬鹿なんだから、いちいち木村さんもいう事聞かなくてもいいと思わない?」


 思いません。……とは、言えないし、言わなくても、女王サマのお話は続く。


 手を止めて目を合わせ、適当に相槌を打つこと。しかし、はっきり否定も肯定もしてはならない。

 ご立腹な女王サマの対処法の1つ。


 稲葉がコロッケを並べ終えて売り場に出して戻ってきても、まだ女王サマのお話は続いている。


「……だいたい、ゴールデンウィークだからって人が来るわけないでしょ」


 いつもよりも、来てますが。


「誰だって、もっと大きいところに遊びに行くでしょうが」


 普通にのんびりしたい人もたくさんいると思いますが。


「……あのぉ、もう、コロッケ揚げないですよね?」


 手が空いた稲葉が、控えめに訊いてくる。


「まだ揚げるかもしれないから、電源落とさないでね」


「わかりました。じゃあ、焼台、洗いますね」


 女王サマよ。

 さっきから売れ残ってるとか散々言ってたくせに、まだ作らせる気かよ。


 というか、なんで稲葉のときは声のトーンが違うんだよ。


 でも、女王サマのお話も強制終了できたし、よしとしよう。

 いい方向に考えるようにしないと、もたない。


 握ったままだった網で揚げカスをまたすくいださないと。


「もう、わたし帰ろうかしら」


 は?


 また手が止まった。

 というか、調理場の空気が止まったような気がする。

 換気扇の音がゴウゴウ鼓膜を震わせるだけの2、3秒間が、やけに長く感じた。


「明日、孫とお出かけしなきゃいけないし、いいよね? 黒崎さん。稲葉くんも、手伝ってくれるし」


 は?


 稲葉は手伝いじゃないし。


 でもわたしの精神衛生上、お帰りいただいたほうが楽だ。仕事量は増えるけど。


「いいんじゃないですか。わたし、やれるようにやりますから」


「じゃあ、申し訳ないけど、お先に失礼するわね」


「あ、はい。お疲れ様です」


 あっさり帰っていきやがったよ。


 というか、何しに来たんだ。


 午後4時前に出勤してきて、30分ちょいで帰っていったよ。


 状況がよくわからない稲葉が肩を落とす。


「ほんと、妖怪口だ……」


「言っちゃだめだって。10分は警戒していないと、あの人戻ってくるから」


「……マジっすか」


「マジっす」


 さらにガッカリする稲葉には、わたしは悪くないのに申し訳ない気持ちになる。

 が、女王サマが途中で帰ることはよくある。

 ひどい時は、来るだけ来て、人が足りてそうだから、暇そうだからと制服に着替える前に帰ってしまう。


 すぐに愚痴りたいのはわたしも同じだ。よくわかるよ。


 でも、ほら、噂をすればってやつで――。


「黒崎さぁん」


「はい」


 エプロンとマスクを外した女王サマが、フライヤーのある調理場とバックヤードの間にある寿司工場の入口からわたしを呼んでる。


 これだから、厄介なんだ。

 どうせあれでしょと、気づかれないようにため息をついてから、女王サマの方へ急ぐ。


 確信犯だと思う。

 エプロンと三角巾を外したら、衛生上、調理場には入れないんだから。


「なんですか?」


「あのね。値引きはギリギリまで待ったほうがいいよね。後お寿司は、値引かなくて大丈夫そうだから」


「はぁい。わかりましたぁ」


 さっき言ってたことと違うじゃないかと、心の中で言うだけ言ってさっさと行ってしまった女王サマをののしる。


 多分、今度こそ帰ったはずだ。


 急いで戻って、最後のフライヤーの電源を落とす。


 あんな風にわがままで自己中な性格のまま、よくやってこれたと思うよ。


「で、何がしたいんですか。あの人」


「さぁ? 知りたくもない。わたし、値引いてくるから焼台終わったら、一度ゴミ出してきて」


「はぁい」


 女王サマがいなくなったら、やりたいようにやらなきゃ損だ。

 精神的にも、肉体的にも、売上的にも。


 当てつけというわけじゃないけど、値引きの機械を載せた台車を引っ張って、真っ先に寿司売り場に向かう。


 確かに、ゴールデンウィークだからって、普段は作らない2千円を超える寿司の盛り合わせを作ることはないと、わたしも思うよ。


 ただ、やっぱり本社の指示には従うべきだと思う。


 わたしたちは、所詮パートだ。


 正社員じゃない。

 給料がいい分、わたしたちなんかよりも仕事量も責任もぜんぜん違う。

 このエリアの惣菜部門をまとめている社員さん、どう考えても残業続きだ。

 やれと言われたことを、責任持ってやるのがわたしたちだと思ってる。


 それをやる前から文句を言う女王サマが、理解できない。


 せめてこうした方がいいという改善案も示してくれれば、ここまで嫌われもしない。でも、『無駄』、『やらなくていい』だけじゃ、話にならない。


 店のことを考えてるとか言ってるんだけど、ねぇ。


「いらっしゃいませ! ただ今より、一部お寿司がお買い得になります!」


 とにかく、今は値引かないと。

 せっかく女王サマが帰ったのに、いつまでもあの人に囚われたくない。

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