だから、なんでわたしに訊くのかな?
稲葉のお姉さんたちの第一印象は、できる女、クールビューティだった。それは、多分間違いだ。
真ん中のショートボブにオフホワイトのパンツスーツ姿のお姉さんが強烈過ぎて、左右のお姉さんたちもそう見えてしまっただけだ。そう、稲葉を『バカヅキ』ってからかってた人。
左のダークブラウンのセミロングヘアのモスグリーンのスカートのお姉さんは、大人可愛い。
右のショートヘアに前髪をヘアピンでとめてるカーキ色のジャケットのお姉さんは、かっこいい。
――いやいや、そんな観察してる場合じゃない。
どういうことよ、稲葉!
で、肝心の稲葉は、申し訳なさそうな顔でお姉さんたちの前に立っている。
「黒崎さん、姉貴たちがどうしても挨拶しておきたいからって……」
「は、はぁ」
稲葉は今年で26歳だったけ? そりゃあ、恥ずかしいかも。よほど、お姉さんたちは稲葉をかわいがってるんだなぁ。
「「「弟がいつもお世話になっております」」」
「いえいえ、とんでもないです」
3人揃ってニッコリと完全無欠の笑顔で言われると、迫力がある。てか、怖いよ。
『わたしたちの弟に何かあったら、許さないんだから』そういう笑顔だよ。
「これで、気がすんだろ? 帰ってくれよ。……黒崎さん、ほんと邪魔してすみません」
ペコペコと頭を下げる稲葉に、お姉さんたちは不満そうな顔をするけど、何も言わなかった。
「稲葉さん、阿知波さんもそろそろ出勤してくるけど、いいの?」
「いいの、いいの。もう、気がすんだはずだから。な?」
最後の方は、お姉さんたちに確認って感じじゃなかった。
クールビューティなお姉さん――多分、弥生さんは、やれやれって表情をやわらげてくれた。
「バカヅキがそこまで言うなら、しかたないわ。黒崎さん、弟と仲良くしてやってね」
「は、はぁ」
気がすんだってわけじゃなさそうだったけど、お姉さんたちは稲葉と去っていった。
「バカヅキ、今夜は何かおごりなさいよ」
「皐月姉ぇ、それはないだろ!」
「いいじゃない、バカヅキ。今夜は旦那に子どもたち任せてあるから
「睦月姉ぇまで……。弥生姉ぇ、なにか言ってやってよ。俺、そんな金ないんだから」
「もう、フリーターじゃないんだし、おごりなさい。バカヅキ、執行猶予あげたんだから、そのくらいしてもらわなきゃねー」
「えぇええええ! 勘弁してくれよぉ」
どうやら、かっこいいお姉さんが皐月で、大人可愛いお姉さんが睦月らしい。
弥生、皐月、睦月――なるほど、和暦の月の名前だ。ご両親は、ロマンチストかな。ん? じゃあ、花月って、どこからきたんだろう?
「よしっ、今日は、バカヅキのお金で、どんどん飲むぞぉ!」
「「おー!」」
「ほんと、勘弁してくれよぉ」
仲のいい姉弟の後ろ姿が、微笑ましい。
「黒崎さん、何かあったの?」
「あ、阿知波さん、おはようございます」
いつの間にか、5時過ぎてたみたい。
「稲葉さんのお姉さんたちが、挨拶に来てたんですよ」
「ふぅん」
あれ? 今、目が笑ってたような気がするんですけど。
気のせいに決まってるけど、売り場の商品を確認する女王サマの後を追いかけなくては。
「阿知波さんが来るって言ったんですけど、もう行っちゃんたんです」
「いいんじゃない。黒崎さんに挨拶したかったんでしょう?」
「ふぇ?」
えーっと、なんでそうなるんだ。
女王サマと一緒に弁当売り場の商品を整理しながら、心のなかで首を傾げる。
あのお姉さんたちは、弟の職場に挨拶に来たはずなのに。
「で、どんな話をしたの?」
調理場に戻ってくるなり、好奇心で目を輝かせた女王サマに訊かれた。
だから、なんでわたしに訊くのかな?
内田さんといい、女王サマといい。
これじゃ、まるでわたしと稲葉がそういう関係みたいじゃない。
「別に、挨拶しただけですよ」
「ふぅん」
「フライヤーの電源落としますね」
なんか、ちょっと腹が立つ。
「稲葉くんも、正社員とかだったらこんなに苦労しないのにねぇ」
「ですね」
なに、その意味ありげな目は。
ちょっとどころじゃない。すごく腹が立つ。
確かに、稲葉と話してると楽しい。ずっと話してたいとは思うけど、それだけだ。それだけで、充分じゃないか。
「阿知波さん、お寿司、そろそろ値引いてきます」
「握りは3割ねー」
「はぁい」
ちっ、半額にしたかったのに。
もう、7時半。お客さんの数を見ても、それがいいと思うのに。
「いらっしゃいませ」
お客さんも減り始めてる。確かに、今日は売れ行きをよくコントロールできたと思う。
でも、そろそろ大きく値引いてもいい時間だ。
お寿司から女王サマに言われたとおりに値引き始めると、進行方向にショッピングカートが現れた。
ブチッって音が、どこかから聞こえてきた気がする。
ただでさえ、今日のわたしは機嫌が悪い。それなのに、進行方向にぴったりわたしに張り付いてる。
多分、前にもこうやって値引きの進行方向に現れた値引き狙いのおばちゃんだ。よし、その顔半分を隠すマスク。覚えた。
今日から、わたしは心のなかでこう呼ぶことにしよう。口裂け女って。
前も、ぬぅって現れてたし、目がちょっと怖いし、いつもマスクしてるし。
「すみません。ちょっと……」
いちいちひと言断りながら進まなくてはいけないから、迷惑きわまりない。その上、このお客さんは、半額目当てだ。
もし、『わたしキレイ?』って言ってくれたら、半額にしてあげるのに。
「ちょっと、いいですか?」
だんだん、わたしの声にイライラがにじみ始めてる。
半額だったら、かごに溢れそうなくらい惣菜を入れる人だから、女王サマに言われたとおりにして正解だったかも。
もういい!
本当は、弁当まで値引くつもりだったけど、もういい!
「ありがとうございます」
半額にしたばかりの鉄火巻をカゴに入れた口裂け女に、嫌味だと思われてもかまわないと思った。彼女のなにを考えてるのかわからないジトッとした目に、困惑とか驚きといった感情が浮かんだ。彼女の感情がわかるなんて、珍しいこともあるもんだ。
調理場に戻ると、めずらしく女王サマに先に帰っていいって言われた。嫌味っぽくないから、何か裏があるんじゃないかって勘ぐってしまったほどだ。
もちろん、帰らせてもらいましたとも。
今日、わかったことがある。
あのお姉さんたちは、稲葉の
気にはなるけど、話題にしたら駄目な気がするんだ。
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