あれから、1週間
あれから、1週間。
もちろん、稲葉がバツイチだったなんて誰にも言ってない。
てか、言えない。
ここのところずっと気持ちのいい秋晴れが続いたのに、今日は朝から降りそうで降らない曇天。やる気の失せる曇天。
そこまで天候に左右されるような仕事じゃないから、気分の問題でしかない。
「あーあ」
こんな時は、駐車場でしっかり下がりきったモチベーションを吐き出してしまうにかぎる。
よし、今日もほどほどに頑張れそうな気がしてきた。
「だぁから、そんなんじゃないって……勘弁してくれよ」
びっくりした。
思わず足を止めて振り返ったわたしに、稲葉は申し訳なさそうな顔した。
「てか、今から仕事。切るから。……あーあ」
誰かとの通話を強制終了した稲葉が、さっきのわたしとよく似たため息をついた。
なんだかおかしくて笑ってしまったら、なぜか稲葉も足を止めて笑うんだ。
「黒崎さん、おはようございます」
「あ、おはようございます」
イケメンなのに、稲葉の私服は本当に残念だ。
今日も今日とて、とことん着古されたグレイのポロシャツにジーパン。
人のこと言えないけど、稲葉はイケメンだからついついファッションチェックしては、残念に思ってしまう。
「さっきは、驚かせちゃってすみません。姉貴の電話はしつこくてしつこくて」
「お姉さん?」
「えぇ」
3人いるんだっけ?
「花ちゃん、おはよー」
「おはようございます。森田さん」
先に行ってしまった稲葉のお姉さんたちって、やっぱりきれいな人たちなんだろうなぁ。
「「お先に失礼します」」
「お疲れ様です」
岡野さんと糸田さんが、女王サマと入れ違いに帰っていった。
今日は平日なのに、人が充実してる。
おかげさまで、わたしも稲葉もいつもより早く順番に休憩できた。
つまり、稲葉はあの森田さんと休憩が重なったはず。
「阿知波さん、あと2、3種類くらい、何か作っておきますね」
「お願いするわ」
とりあえず、串かつに、唐揚げに、あとは、あとは……。
冷凍庫で売れそうな商品を、見繕う。
「アジフライはないのぉ?」
「あります!」
串かつに、唐揚げに、それから女王サマが提案してくれたアジフライ。
フライヤーに投げ入れてく。
今日は人に余裕がある。
気持ちも余裕がある。
女王サマの言うことに、いちいちピリピリしなくてすむ。
女王サマだって悪い人じゃないってことを再確認しては、余裕のない時に忘れてしまう。
もう1人くらい、遅番が増えればいいのに。
もしかしたら女王サマにも余裕ができて、優しくなってくれるかもしれない。
「いらっしゃいませ! ただ今、串かつ、唐揚げ、アジフライが出来たてとなっております。アツアツです。いかがでしょうか?」
夕方5時過ぎたばかりで、仕事帰りのお客さんもこれからって時間。
並べた途端に、もう2パック、3パックと売れていく。
よしよし。いい感じ。
マスクの下で得意気に笑いながら、調理場に戻る。
「ねぇ、黒崎さん」
「はい」
窓を拭く手を止めた女王サマに対する自分の返事が、別人ってくらい丸くなってる。
「稲葉くん、もう休憩終わってるはずよね?」
「あっ」
そう言えば、そうだ。
わたしが休憩戻りのタイムカードを押したのが、15時41分。その後、入れ違いに休憩に行ってるから、軽く20分はオーバーしてるじゃないか!
「花ちゃんなら、駐車場でずっと電話してたよ」
「あ、店長」
『来る極寒の冬に向けて、1年中脂肪を蓄えてます!』――そんなキャッチフレーズがよく似合うくせに、忍者のように気配を殺して調理場に現れた店長。
「黒崎さん、稲葉くん呼んできて」
「はーい」
女王サマも店長が何しに来たのか、もちろん心得てる。毛嫌いしてる店長に言われる前に、白ご飯をパックに詰め始めた。
「だから、何度も言わせるなって……あー、そうだよ。そういうんじゃないって……」
通話してる相手の耳が心配になるくらい大きな声で、駐車場で稲葉は電話中だった。
さっきも同じような口調で同じようなことを言ってたから、またお姉さんかな。
「おいっ、『ば』つけんじゃねぇよ! ……だから、『ば』つけるなって、いっつもいってるだろ」
「稲葉さん、稲葉さん。もう休憩時間終わってるよ」
何を怒ってるのかよくわからないけど、稲葉にそっと声をかける。
ようやくわたしの存在に気がついた稲葉は、血の気が引く音が聞こえてきそうなほど一気に青ざめた。
「くそっ……、俺、仕事戻るから、切る。………あー、そうだよ。……だから、『ば』つけるな!」
だから、『ば』ってなんだ!
気になるけど稲葉が青筋立てそうな口調だから、訊けない。つらい。
通話終了したスマホで時間を確認した稲葉は、一瞬固まる。
「げっ、もうこんな時間かよ。黒崎さん、ありがとう」
「あ、うん」
ロッカー室に全力疾走する稲葉を見送りながら、ふと思ったんだ。気がついたのが女王サマだって知ってたら、限界速度超えるんじゃないだろうかって。
「ほんとっ、すみませんでした」
女王サマに深々と頭を下げる稲葉を横目に、わたしは調味料を補充する。
笑いながらいいのいいのって許す女王サマに、やっぱりもう1人くらい、遅番がほしいと強く思ったんだ。
それにしても、稲葉のお姉さんってどんな人たちなんだろう?
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