3月

もっと胸張ってもいいんじゃないかって

 3月3日が、稲葉の誕生日だったとは、笑っていいのかなんなのかもうよくわからない。


 だって、稲葉のことなら大抵のことは受け入れてしまっているから。

 多分そうとう前から、そうだったんだと思う。

 そうじゃなかったら稲葉の思わせぶりな言動に、ブチ切れてたはずだし。


 今にして思えばってことが多すぎる。


 女王サマと内田さんのことだって、そうだ。


「で、昨日は楽しかった?」


「楽しかったけど」


 内田さんからおすそ分けしてもらったチョコパイを、口に押し込む。

 いくらなんでも口の中に食べ物が入ってる間は、話をさせようなんて思わないはずだ。


 モグモグ……。


 いつもなら喫煙所に行ってるはずなのに、向かいの席でまだ内田さんはニコニコしてる。


 モグモグ……ゴクン。


 負けましたよ。

 こうなったら先手必勝とまではいかないだろうけど、こっちから話題を誘導すれば墓穴をこれ以上深くすることもないはずだ。


「内田さんって、いつから稲葉がその……、そういうの気がついてたんですか?」


「にひぃ、いつからもなにも、花ちゃんの方から相談してくれたんだよ」


「ふぇ?」


 墓穴を深くすることはなさそうだけど、気になってたけど訊くのが怖かった部分に触れてしまったみたい。


「だって、花ちゃんよく『なんで、伝わらないのかなぁ』とか、よくここでぼやいてたよ」


「う、嘘でしょ!」


 ニヤニヤが止まらなそうな内田さんは、さらに続ける。


「で、あたしが『ストレートに好きって言っちゃいなよ』っていうと、『困ったことに、黒崎さんのリアクションがツボすぎて言えないんです』って言うのよ」


「内田さん、もうやめて、お願い、もうやめて」


 恥ずかしすぎる!

 てか、稲葉よ。お前、なにここで恋愛相談してたんだよ。


「あ、でも、安心してね。あたしと、阿知波さんだけだと思うから、多分」


「多分?」


「うん、多分」


 もう、これはやつに直接問いただすしかない。


「で、昨日は何が楽しかったのかな?」


「……たこ焼き」


「へぇ、花ちゃんちでタコパしたんだ!」


 あ、これ、稲葉のやつ相談しやがったな。たこ焼きだけで、タコパまでわかるわけがない。


 もう、これはやつに徹底的に直接問いただすしかない。


 タイミングよく――と言うかもっと早くなってくれてもよかったんだけど、スマホのアラームが鳴った。


「内田さん、チョコパイ、ごちそうさま」


「うわーん。もっと聞かせてよぉ」


 ニヤリと笑ってみせるだけ、わたしにも余裕があるのかもしれない。



 あれから、わたしは稲葉の部屋に入り浸ってる。ほとんど、同棲って言ってもいいかもしれない。

 デートしたくても、お金がかかる。わたしも稲葉も、パートタイマー。将来のことを漠然と考えても、交際にお金はかけたくないということで、意見は一致してる。

 稲葉の部屋は、2DKの日当たりのいい部屋。1人暮らしにしては、贅沢だと思ったら、事故物件だった。たまにラップ音がするけど、すぐに慣れたとか笑いながら言うことじゃないと思うんだけどね。でも、すごくワクワクしたのも事実。

 そんないわくありそうな稲葉の部屋で何をしてるのかと言えば、お互いにおすすめB級映画を鑑賞したりしてる。

 もっと暖かくなったら、ちょっと出かけてもいいかなって、このごろ考えてたりする。



「いらっしゃいませ!」


 休憩から戻ったら稲葉は売り場を整理してたから、わたしも手を洗ってそのまま売り場に出る。

 もうすぐ1年になるんだなって、昨日もたこ焼きを食べながら話してた。


「さっき、お客さんが一気に来たんですよ」


「じゃあ、少し補充しないとね」


 頭の中で、補充する商品を考えながら、調理場に戻る。


 正直、まだ稲葉と2人きりで仕事するのはちょっと気恥ずかしい。

 そのうち女王サマと内田さん以外のおねぇサマたちにも、バレてしまうだろうけど、できることならバレていじられたくない。そうでなくても、ずっといじられてるんだから。


 アジフライをフライヤーに投入してると、稲葉が調理場に戻ってきた。


「女王サマの送別会どうします?」


「今日のあれ? いや、無理でしょ、わたしたち」


「ですよねぇ」


 アジフライのパックをプラトレイに並べながら、稲葉がうなずく。


 過去にも送別会という名の飲み会をやったけど、遅番は誰か1人は残らなくてはいけない。なんなら、稲葉だけでも行ってくれてもいいんだけど、広告日に設定されてることもあって1人はきつい。


「ランチか何か、誘うってのはどうですか? 俺、結構、仕事以外もお世話になりましたし」


「恋愛相談とかでしょ」


 ムッとした勢いで、タイマーを止める。


「そうですよ」


 あ、開き直りやがった。


「おかげさまで、こうして瞳さんと楽しい半同棲生活できてるんですし」


「ここで、瞳さんはやめてよ」


 ただでさえ、まだ恥ずかしいんだから。


「ほら、パック詰め」


「了解」


 稲葉は言ってた。もし、結婚するんだったら、弥生お姉さんの旦那さんのツテで、もっとしっかりした仕事をするって。

 もっとしっかりした仕事って、なんだよって思わないでもなかったけど、パートタイマーでは世間体が気になるみたい。


 1年前だったら、こんなこと思わなかっただろうけど――。


 正規雇用労働者だけが、日本を支えているわけじゃないんだ。わたしたちだって、もっと胸張ってもいいんじゃないかなって。


 時間給だから、残業もほとんどない。決められた時間だけ、与えられた仕事をこなすだけ。そういう働き蟻のような労働者だって、必要なんだ。


 他の部門だって、わたしと同世代の男性パート店員がいるし、もっと自身持っていいんじゃないかな。



「で、女王サマと昼食会でいいですか?」


「うん、いいよ。場所とか、どうする?」


 だいたい、稲葉がいなくなったら、遅番はわたし1人になってしまうじゃないか。


 それは困る。ものすごく困る。

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