9月
大事なことなので2回言いましたよ
近所の小学校から、運動会の練習の声とかがよく聞こえるようになった。
来週の土曜日が本番だから、まだまだ熱をこめる余地はあるはず。
「黒崎さん、来週のお彼岸の計画出てるけど、発注は大丈夫?」
「あ、計画出るの待ってたんで今日やります」
わたしと稲葉と入れ違いに、お昼ごはんを食べに休憩に行ってた木村さんが戻ってきた。
お彼岸、かぁ。
お墓は、県内にあるけど、わざわざお彼岸に墓参りに行くことはない。
先月、お盆すぎに行ったばかりだし。
やりますって言ったけど、今すぐにはできない。
いつも夕方以降、それも閉店前くらいの空いた時間にやるから。
今だって、ある程度たまった商品に値段をつけて売り場に出さなきゃいけないんだ。
「いらっしゃいませ」
そういえば、いつの間にかなぁなぁになってた『いらっしゃいませ』が、普通になってる。
「……花ちゃん、今度、また台風ができたんだって」
「木村さん、俺は雨男じゃないですよ。俺のせいじゃないですって……」
調理場から、そんな会話がわたしを追いかけてきた。
「いらっしゃいませ!」
馬鹿みたいだ。
馬鹿みたいに、稲葉が気になる。
別に恋とか愛とか、そんなんじゃない。
ただ最近、前みたいに考えなしにくだらない話ができなくなっただけ。
いちいち、話題を考えてしまうようになっただけ。
話し始めれば、いつもみたいに楽しくて面白いのに。
あーあ。
ランチタイムにごっそりと穴のあいた陳列棚を整理しながら、ため息が。
この間、試しに食べたロイヤルミルクティー味のカップ焼きそばの話とか、したいのに。
「すみません。温泉卵って、ありますか?」
「温泉卵ですね。こちらになります」
ご年配のおばあさんを、温泉卵まで案内しなくては。
腰の曲がった小柄なおばあさんの歩調に合わせて、ゆっくり温泉卵まで。
「忙しいのに、ごめんねぇ」
「いえいえ、仕事ですので」
そう、仕事。
わたしはパートタイマーだけど、ちゃんとこのスーパーの従業員だ。
社会保険料もしっかり、なけなしの給料から天引きされてる。雀の涙って笑われそうな所得税や、住民税とかだって。
稲葉とだって、仕事上の付き合いでしかないんだ。
24時間のうち、昼の1時から閉店時間の9時までの拘束時間8時間。
1週間にだいたい3日か4日、1日の3分の1の時間を、一緒に過ごしてる同僚だ。そう、同僚。
「温泉卵は、こちらになります」
「ありがとうね」
シワだらけの顔に浮かんだ優しそうな笑顔に、わたしも笑顔になる。
こんな笑顔、なかなかお目にかかれない。
だからこそ、お目にかかれた日はいいことがありそうな気がするんだ。
わたしも稲葉も、仕事上の付き合いでしかないんだ。
「わかってるつもりなんだけどなぁ」
稲葉と入れ違いにやってきた食堂の机に、おでこを押しつける。
いつもひんやりして冷たい。
誰もいない食堂で悶々としてる冴えないアラサー女子が、ここにいます。
もうすぐやって来る森田のおねぇサマの愚痴を耳に入れないために、イヤホンはしてるけど、音楽は聞いていない。
あーあ。来ちゃったよ。森田のおねぇサマが。
目が合う前に、机に突っ伏して寝てるふりをする。
そもそも、恋とか愛とかそういうのは、もっとキラキラしてるはずなんだ。
長続きしなかったけど、元カレの時もそうだったんだし。
ずっとそばにいたい、とか。
オシャレしなきゃ、とか。
休日も一緒にいたい、とか。
なんか、恋人が生活の中心になるはずなんだ。
――って、そんなに恋多き女だったわけじゃないけど。
でも稲葉はただくだらない話とかできる、気の合う同僚なんだ。
――――って、なに、休憩時間なのに稲葉のことばかり考えてるんだろう。
馬鹿みたいに、悶々と堂々巡りしてると、森田さんがテレビをつけたらしい。
『……続いては、天気予報です』
『はい。気象予報士の……』
そういえば、さっき台風ができたって木村さんが行ってたような気がする。
ちょっとだけ頭を上げてテレビを見る。
耳栓代わりにイヤホンつけてるから、はっきりと聞き取れないけど、台風情報はゲットできそう。
『では、この地方の影響は?』
『このまま東寄りの進路でしたら、ほとんどないでしょう』
よかった。
進路が変わるかもしれないけど、地震とかと違って台風は、まだ読める自然災害だからありがたい。
『ところで、今夜は皆さんもすでにご存知でしょうが、中秋の名月……』
あ、今日だったけか。
男の天気予報士のお月見に関する豆知識が続く。
十五夜かぁ。
久々に、夜空を見上げてみたくなったなぁ。
結局、木村さんに言われた彼岸の発注の確認は、8時前にようやく取りかかることができた。
「黒崎さん、もう半額にしますよ」
「ん? 8時過ぎたもんね。よろしく」
別に、稲葉の好きにしてくれればいいんだけどね。きっと女王サマと一緒のときに、勝手に値引けないから訊いてくるんだと思う。
調理場の隅っこにある小さな作業台が、発注等の事務的な作業スペースだ。パソコンの他に、やたらかさ張るファイルや、棚卸しとかに使うバインダー。おねぇサマたちが使う、ツルの折れた老眼鏡。それからホームセンターかどこかで購入らしい、長時間座ってられない椅子。
はっきり言って、窮屈すぎる作業環境だ。
だいたいこっちから彼岸のために修正しなくても、いつもより多く強制的に送り込まれてくる。売り場を調節するために、いつも値引いたりする商品の数を減らす作業がメインだ。
「終わったぁ」
お尻が痛くてしかたない。
パソコンの電源を切りながら、壁の時計を見ると閉店まで15分くらい。ずいぶん、時間がかかってしまった。
稲葉は黙々とパックにシールを貼ってた。
よし、今日こそ。
「稲葉さん、だいたい片付いた?」
「発注終わったんですね。後は廃棄するだけですよ」
ペタペタシールを貼る稲葉の前に、チョコレートを置く。
「これ、唐辛子味のチョコだって」
「マジですか? へぇ、いただきますね」
稲葉は早速、嬉しそうに目を輝かせてエプロンのポケットにチョコを突っ込む。
「そういえば、この間のロイヤルミルクティー味のカップ焼きそばは、残念でしたよね」
「あ、稲葉さんも食べたんだ」
「黒崎さんが買ったって言ってたから、つい俺も」
わたしも一緒になってパックにシールを貼りながら、今日話したかった話で盛り上がりだした。
実は、唐辛子味のチョコは3分の1のウナギのお返しだったりする。金額的に、全然釣り合い取れてないけど。稲葉が喜びそうで、気兼ねなく受け取ってもらえそうなモノは、これしか思いつかなかった。
ひと月半もたってるし、今さら稲葉にお返しだなんて言うつもりもないけど。
渡すタイミングを逃し続けて1週間以上経ってることも、言うつもりもないけど。
「お疲れ様です」
わたしが彼岸の計画と格闘してる間に、稲葉はほとんどの仕事をしてくれてた。売れ残りの廃棄だって、ほとんどなかったし。
ロッカー室で着替えたら後は帰るだけ。
そうそう、ちょっと夜空を見上げてもいいかもしれない。
ロマンチストじゃないけど、年に一度の中秋の名月の今夜くらいね。
仕事が終わったのに、こんなにウキウキしてることもめずらしい。
そんないい気分だったから、いつもより早く帰り支度を終えて外に出た。
「わぁ」
思わず、そんな声をあげてしまうくらい綺麗な満月。
SNSとかで共有したくなるけど、わたしのスマホじゃ10分の1も伝わらないのがわかりきってる。
だから少しでも長く見ていようって、明かりの消えた従業員用の駐車場で月を見上げてた。
「黒崎さん」
「ん?……っ」
近っ!
稲葉の声に後ろを振り返ると、なんで気がつかなかったのか不思議なくらいの距離に稲葉がいた。
稲葉のまつ毛って、こんなに長かったんだ。
そんなどうでもいいことまで、わかってしまうほど近くから、身長が高い稲葉はわたしを見下ろしてた。
心臓が止まるかと言うほどの衝撃が去って、距離を取ろうと後ずさるよりも早く――。
「月が綺麗ですね」
「ふぇ?」
いや、月は上だから。
なんで、わたしを見ながら言うんだ。
言いたいことは、後からたくさん浮かんできたけど、その時は稲葉の笑顔に頭が真っ白になってた。
「月が綺麗ですね」
「そ、そりゃ、中秋の名月だし」
声が上ずってしまったけど、稲葉がイケメンだからしかたない。近すぎるから。
てか、なんで2回言ったんだ。
「大事なことなので2回言いましたよ。じゃあ、お疲れ様です」
「お、お疲れ様です」
デイバックを背負い直した稲葉は、街灯に照らされた歩道に向かう。
な、なんだったんだ。
稲葉みたいなイケメンに、あんな至近距離で見下ろされたら、心臓に悪いって初めて知ったよ。
てか、まだ心臓がバクバク言ってる。
どうしてくれるんだよ。
誰かに見られる前に、帰りたいけど体が思うように動かない。
『月が綺麗ですね』って、夏目漱石か誰かがI LOVE YOUをそう訳したって、あれじゃないよね。
「ないないないない……ありえないからぁ」
誰かが来る前に、声に出して否定したら、ちょっと落ち着いた。
「うん、月が綺麗だ」
見上げれば、確かに綺麗な満月がそこにあった。
中秋の名月が綺麗。うん、稲葉にとってものすごく大事なことだったんだな。
そういうことだよな!
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