ため息と若さ関係ありませんから
最近、稲葉がよくため息をついている。
「
阿知波の女王サマも気になっていたようだ。今日は3人いるから、稲葉と阿知波の女王サマに片付けを任せて、わたしはパソコンの発注画面とにらめっこしていた。
午後7時すぎ。暇な火曜日だし、発注が終わったら帰れるかもって、ちょっと期待している。
プラトレイを台車に積んでいた女王サマが、やっぱり手を止めて値引きから戻ってきた稲葉に諭すように言う。
「若いんだから、そんなため息ばかりついていないで……」
ため息と若さ関係ありませんから。背後にツッコミを入れつつも、心の中だけだ。
だって、女王サマと進んで会話に参加したくないし。
「いや、阿知波さん、違います。ため息で不幸を逃さないと、どんどん胸の中に溜まっていくんですよ」
あ、それいただき。
今度から幸せが逃げるって言われたら、そう返そう。
さすがの女王サマも、返す言葉が見つからないらしい。
自分でも、笑っているのがよく分かる。
よし、来週の発注も終わったし先に帰らせてもらおう。
「黒崎さん、発注、そろそろ終わる?」
「……今、終わったところです」
嫌な予感しかしない。
発注画面を閉じていると、案の定、阿知波の女王サマは女王サマっぷりを発揮した。
「じゃあ、わたし、帰らせてもらうわね」
「……どうぞ」
わたしも、思わずため息だ。
売り場を確認してくる間に、女王サマは稲葉にあれこれ指示をしているのが窓越しに見える。
さっさと、帰れ。
とにかく、帰れ。
女王サマの機嫌次第じゃ、わたしだって帰れたんだ。
別に、給料を減らしたいわけじゃない。
ただ6日間連続勤務の5日めだし、少しでも早く帰って休みたかった。
売り場を見れば、商品がかなり残っている。
800円以上の握り寿司がかなり残っている。なのに、1割しか値引いてない。
売れるわけがない。
握り寿司の盛り合わせなんて、惣菜部門でもかなりいい値段のする商品が、1割引き。
売れるわけがない。
わたしだって、500円以下ワンコインで買える弁当の3割引き買うよ。
でも、女王サマにとってこれが正解なんだ。
何度もお客さんの多い時間に値引こうと提案しているんだけど、頑として譲ってくれない。
女王サマ曰く、
『握り寿司を先に引いたら、握り寿司から先に売れちゃうじゃない』
願ったり叶ったりじゃないか。
稲葉はもちろん、他のおねぇサマたちにもどういう意味か訊いてみるのだが、みんな首をひねる。
女王サマのルールは、誰も理解できないのだ。
だから、誰も何も言えないんだ。
「じゃあ、黒崎さん、お先に失礼します」
「お疲れ様でーす」
スイングドアのところで手を振る女王サマ。
さて、今から10分警戒時間だ。
急いで調理場に戻る。
稲葉はちょうどゴミを捨てに行ってくれたらしい。
頭の中で、閉店まで1時間半ちょい。調理場の片付け具合と、売り場の寿司メインの大量の商品をどう片付けるか、頭の中で計画を立てていく。
稲葉が戻ってくる前には、計画を立て終えなくては。
わたしが調理場の片付けをして、稲葉に売り場の商品を全部半額にしてもらおう。
値引き目当てのお客さんの対応も、なかなか上手くやってるし。
よし、それでいこう。
時計を見ると、警戒時間残り8分。
稲葉が戻ってきた。ため息をつきながら。
やっぱり、最近、稲葉はため息多い。
「稲葉さん。明日の売り出しのポップ用意したら、商品全部半額にしてきて」
「わっかりましたー」
何があったか知らないし、わたしが知ることもないと思う。
ここでは上手くやってると思うけど、何かあったらそれこそ木村さんか店長に相談するだろうし。
よく、遅番は時間に追われないから、余裕があるように午前中のパートさんに言われることがある。
くらべないでほしい。
今だって調味料をディスペンサーに補充したり、賞味期限切れがないかチェックしたり、細々した作業が多いのが遅番だ。
早番は開店までに商品を作らなくてはと、時間に追われると聞いている。それはそれで忙しいに決まっている。
でも遅番だって、商品補充、値引き、片付け、翌日の用意。とにかく、やることは充分あるんだ。
多分、稲葉は今から値引きに出たら、8時過ぎても戻ってこないだろうな。
昼過ぎまで、あれだけ雨が降っていたんだ。寿司なんて気分じゃないんだろう。
きっと、半額にしても残る。
もっと早く値引いていればよかったのに。今さらだけど。
で、予想通り稲葉が調理場に戻ってきたのは、8時過ぎていた。
その頃には、わたしも調理場を片付け終えていた。
「売り場のバッド並べるのも、お願い」
「了解です」
調理場を片付けたわたしは、ペタペタとパックにシールを貼っている。
時間があるときでいいよと木村さんたちは言うけど、いざシールを貼ってあるパックが切れると、朝は忙しいからと言われる。
うん。だから、こっちも忙しかったんだ。
稲葉が入ってきてくれて、ひと月半と少し。ようやく、シールを貼るだけの余裕ができた。
実は、こういう内職みたいな作業がわたしは好きだったりする。
黙々とペタペタとシールを貼っていく。
今日みたいに充分時間のある時は、最高新記録を達成できないかと頑張れる。
売り場にバッドを並べて戻ってきた稲葉にも、シール貼りのコツを教えなくては。
どうせ、今日は廃棄覚悟するしかない。
「あのぁ、黒崎さん、ちょっとお願いがあるんですけど」
作業台で向かい合ってシールを貼りながら、稲葉はまたため息をついた。
「なに?」
わたしからは、稲葉に何があったのか訊かないけど、稲葉から言うぶんには耳を傾けようとは思う。
「休憩行く順番、変わってもらえませんか?」
「なんで?」
稲葉はひときわ大きなため息をついて、ボソッとひと言、森田さんと言った。
「なんとなく、わかった」
「ですよねぇ。あの人、しつこくて、しつこくて」
知ってた。
うん。実は、農産部門の森田さんが嫌で、稲葉に先に休憩に行ってもらってなんて、口が裂けても――いや、口が裂けるくらいなら、言うけどさ。
つまり、そのくらい厄介な人だ。ババアと言ってもいいけど、さすがに言わない。ババアがかわいそうだ。
「俺に正社員になれとか、俺の顔を見るたびに言ってくるんですよ。若いんだからって。若さだけで正社員になれたら、誰も就活とか苦労しないわ!」
うわー。そうとう溜まってたなぁ、これは。
「定職つかないと、結婚できないとか、余計なお世話だっつーの。俺は結婚したくないからな」
わー。なに、調子のってくれたんだ、森田さん!
はぁ……、わたしまで、ため息ついちゃったじゃないか。
いや、不幸を逃してるんだから、後ろめたく思うこともないんだ。
「うん、だいたいわかった。森田さんはそういう人だったね」
「ホントに、お願いします!」
わたしも、森田さんの休憩時間と被りたくない。けど、しかたない。こんなことで辞められても困るし。
「わかった。わたしが先に休憩に行くようにするね」
「ありがとうございます。……助かったぁ」
うん、だろうね。
「稲葉さん、なんだったら、今日はもう帰る?」
「え?」
「もちろん、ちょっと給料は減るから、このままラストまでいてもいいけど」
「じゃあ、お言葉に甘えて上がります」
シール貼りもキリがよかったからか、稲葉はあっさり帰っていった。
それか、森田さんのエイジハラスメントがこたえていたのも。
稲葉なら、あの上から目線の森田さんとも上手くやっていると思ってたのに。
甘かったか。
「はぁ、またイヤホン持ってこないと」
森田さんは、農産部門のパートさん。
最初は世話好きなおばちゃんとしか思ってなかったんだけど、なにかと『若いんだからさぁ……』と言ってくるようになった。否定しても、お茶を濁しても、とにかく森田さんはしつこい。
「若さでなんでもできたら、苦労しないって」
稲葉のため息が
けど、わたしが今日最大のため息をついたのは、大量の売れ残りを見たときだった。
稲葉を帰らせるんじゃなかった。
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