女王サマ、辞めるかもしれないね
2月4日、立春。
暦の上では、今日から春。まだまだ寒い。
昨日の節分で、店長の判断ミスで発生した大量の恵方巻きの廃棄に、わたしと稲葉、それから女王サマの3人がかりでも、心身ともに疲労困憊した翌日。
本当なら、今日はわたしは休みだった。
「おはようございます」
「あ、黒崎さん、おはようございます」
それなのに、どうしていつも通り稲葉と従業員用の駐車場で挨拶をする。
去年の暮にマフラーをなくしたせいで、首元が寒い。
「4時からの出勤でもよかったんじゃないですか?」
「……まぁ、そうなんだけどねぇ」
実は、今気がついたなんて言えない。
今朝、女王サマから昨夜遅くに父が亡くなったと電話があった。
彼女の実家は県外で、しばらくお休みをいただくとも。
今日は昨日の節分商戦で中心にいた糸田さんと木村さんが休みで、岡野さんと稲葉、それから女王サマの3人で昼からやっていくことになってた。さすがに、女王サマがぬけるときついから、とりあえず今日はわたしが出勤することになった。
残りは、木村さんがシフトを組み直してくれるはずだ。
確かに、4時から出勤すればよかったかもしれない。
タイムカードを押すのが、いつもより億劫に感じてしまう。
「おはようございます」
先に来てる稲葉は売り場を確認してまわってる。
岡野さんは、水筒を持って今から休憩に行くようだ。
「おっはよう。阿知波さんのお父さん、亡くなったんだって?」
「そうみたいですね」
「そっかぁ。じゃ、休憩行ってくるわね」
以前――あの時も冬の寒い日だったと思うけど、午前中のパートさんの親が亡くなった時に、香典を集めるのに揉めに揉めたことがあって以来、惣菜部門の従業員連名の香典を出すことはやめになった。個人でやる分には構わないって。
同じ遅番のわたしと稲葉は、送ったほうがいいんだろうな。後で相談しないと。
それから実はまだ気がかりなこともあるから、それも稲葉と相談しないと。
「いらっしゃいませ!」
昨日、安くない恵方巻きを買った人が、今日も惣菜買いに来てくれるなんて期待してはいけない。
お客さんが少ないわけじゃないけど、いつもより閑散として見えてしまうのは何故だろう。
売り場も何を作れというのだというくらい、商品が充実してる。
確かに、4時に出勤するべきだったかも。いまさら遅いけど。
「とりあえず、明日に回せるものは、回しますか?」
「そうだね。様子見ながら、少しずつやってかないと怖いね」
とりあえず1台フライヤーの電源を落としてもらって、唐揚げとか優先順位の高いものから揚げてく。
「香典、惣菜部門じゃ集めないけど、どうする?」
「女王サマのお父さんのですか? 一度、女王サマに確認してからのほうがいいと思いますよ。香典返しが大変だからって、断ってきた人も前にいましたし」
「そっかぁ、わかった。後で連絡してみるけど、稲葉さんはどうするの?」
ピピピッピピピッ……
稲葉がタイマーを止めて、唐揚げをすくい上げてる間、会話が中断する。
「出そうとは思いますよ。……はい、どうぞ」
揚げたての唐揚げの入ったザルを、わたしの前のバットに置いて、稲葉は竜田揚げの粉の袋を鶏肉の入ったボウルに開ける。
用意しておいたパックに、わたしが唐揚げを詰めてく。
「女王サマ、悪い人じゃないですから。最初は、ホントに妖怪口だけ女だって、ムカついたこともありましたけどね」
「今でも、そう思うことあるよ」
「たまにですよ。仕事のことでは、イラッとすること多いですから。でも、悪い人じゃないですから」
「じゃあ、女王サマに連絡した結果、教えるよ」
「ありがとうございます」
しばらく黙々と2人で作業していて、やっとわたしがその話題に触れることができたのは、それから30分近くたった頃だった。
商品に値段をつけながら後ろでポテトコロッケを揚げてる稲葉に、やっと口を開くことができた。
「女王サマ、辞めるかもしれないね」
「え?」
「前に聞いたことあったんだ。女王サマのお母さんの介護を、お父さんがしてるんだって。もし、そのお父さんが先に亡くなられたら、自分が面倒見なきゃいけないかもしれないって」
「そう、なんですか?」
「うん」
あの時の女王サマは、機嫌が良かったのか、悪かったから、そんな話をしてくれたのか今となってはわからないけど。
「女王サマの旦那さん、ずい分前に亡くなっているから、だって」
「あー、旦那さんのことは聞きましたよ。事故で、子どもがまだ小さかったから、かなり苦労してきたって」
「で、今は1人暮らし。そうなると、やっぱり女王サマが一番都合がいいんだよね」
「ご両親と仲が悪いわけでもないみたいですしね」
兄弟も確かいたはずだから、そう簡単に決められるものじゃないだろうけど、親の世話をすることになったら、辞めるしかない。
女王サマが辞めれば、遅番はわたしと稲葉だけ。
一時期、わたしと女王サマでなんとかやってきたけど、やっぱりなんとかやってこれただけ。
うるさいくらい自信がある女王サマのことだから、そう簡単にやめるって決断できないだろうな。
そういう人なんだ。阿知波の女王サマは。
そんなに忙しくない日だから、岡野さんはわたしと稲葉に同時に休憩に行くように言ってきた。
「その方が、わたしは早く帰れるじゃない?」
今は、2時半。今からわたしたちが休憩に行けば、岡野さんは何事もなければ4時前に帰ることができる。彼女も、昨日、まだ暗いうちから恵方巻きを作ってた人だから、そうとう疲れてるに違いない。
そうして、稲葉と一緒に初めて休憩時間を過ごすことになった。
女王サマのことで、意識せずにすんでた稲葉への思いが、ロッカー室で一気に膨れ上がる。
「だ、大丈夫。大丈夫、きっと、内田さんとか、この際森田さんでもいいけど、誰かいるはず……」
――いませんでした。
食堂の真ん中あたりに座ってる稲葉しか、いませんでした。
勘弁してください。
い、一応、常備してるおやつの中から、稲葉が好きそうなチョコチップクッキーは持ってきたけど、勘弁してください。
「黒崎さん、ちょっと相談したいことあるんですけど、いいですか?」
入り口でぼうだちしてたわたしに、稲葉はスマホをいじりながら向かいに座るように身振りで示す。
結果的には、それで気持ちが楽になった。
どこに座ればいいのか、まるでわからなかったから。近すぎても、遠すぎても駄目だろうからって、すごく考えてたから。
「女王サマには、さっきメールしたよ」
「ありがとうございます。でも、相談ってそのことじゃないんです」
「ふぇ?」
顔を上げた稲葉はやけに真剣だった。
なんて言って、内田さんのときのようにクッキーをおすそ分けしようか、フル回転してた脳みそが止まる。
「姉貴どもに、近々、プレゼントしなくちゃいけないことがあって、その相談なんです」
「はぁ」
「あ、俺、シスコンじゃないですよ。勘違いしないでください」
なにも言ってないし、そもそもシスコンだなんて思ってなかったんだけど、稲葉は声に力を込めて否定する。顔が赤く見えるのは、気のせい。きっと、照明の加減だ。
「最近、いろいろ世話になってるから、そのお礼ともう世話焼くなって意味を込めて、マフラーをプレゼントしようと思うんですけど、女の人ってプレゼントにマフラーってありですか?」
「あり、だと思うけど」
「よしっ」
なぜ、そこでガッツポーズ?
それにしても、本当に仲のいい姉弟なんだなぁ。
かなり、うらやましい。
「クッキー、食べる?」
「あ、いただきます。いただいていいんですよね?」
いただきますと言った後に、いただいていいんですよねって何なんだ。
てか、ちょっとかわいいってキュンと来ちゃいましたよ。
「……この間、アイスのお返し」
「そんな気をつかわせちゃって……。でも、ありがたくいただきます」
テーブルの上で袋を広げたクッキーに手を伸ばしながら、稲葉は照れくさそうに頬をかく。
「俺、昔っから、プレゼントのセンスが無いって、よく怒られるんですよ」
「お姉さんたちに?」
「姉貴どももそうですけど、他にも……」
きっと、あの幼馴染みの別れた奥さんにも言われたんだろうな。
プレゼントかぁ。
稲葉とクッキーばかり食べる毛むくじゃらのモンスターの話をしながら、わたしは自分の誕生日が迫ってることに気がついた。
2月15日。
もう、誕生日プレゼントなんて貰わなくなってずいぶん経つ。
なんとか、作戦立てたバレンタインデーの方が大事だけど。
てか、この歳になってバレンタインデーにドキドキするなんて思わなかった。
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