◆番外編1

◇堕ちた少年勇者~淫魔姫の罠~

 ここグラジオン大陸に南西に位置する小国カザルスの王都クラインは、明日の慶事を控えて華やかな雰囲気に包まれていた。

 此処で言う慶事とは、王女オーガストと救国の勇者の結婚式が行われることを指す。


 * * * 


 東のクラムナード大陸ほどではないが、戦乱に明け暮れる南のサイデル大陸に比べれば、本来このグラジオン大陸も──時折国境沿いで小競り合いがあるとは言え──全体的には平和な土地と言えるだろう。

 ただ、辺境に魔界と直接通じるダンジョン“冥宮”をいくつか抱えているカザルス王国は、その地理条件から魔族の侵攻の対象となることがままあるのだ。

 無論、王国側も手をこまねいているわけではないが、これらの冥宮は埋め立てようと封印しようと、数年単位でいつの間にか、再び開通しているのが常だった。

 何より、小国にとって多数の兵士を派遣してそれらを封鎖し続けるのは財政その他に大きな負担がかかる。

 そこで、グラジオン大陸では“冒険者”と呼ばれる職業が半ば公認されている状況を利用し、カザルスは最低限の監視のための軍人を派遣しつつ、一定レベル以上の信頼に足る冒険者に、それら冥宮の巡回を兼ねた探索を許可するという形で治安を維持していた。

 冥宮探索は冒険者側にも(ハイリスクハイリターンとは言え)相応の利があることだったので、志願者には事欠かなかった。


 その方策は一見巧くいっているように思えたのだが──数年前、突如均衡は破られた。

 冥宮のひとつに入った冒険者たちのパーティーがどれも丸一日以上帰還しないことに危機感を抱いた常駐兵の取りまとめ役が、王都に異変を告げる伝書鷹を飛ばしてから僅か半刻後、冥宮から魔族の軍団が現れたのだ!

 魔族の軍団はカザルスの辺境へと進軍。カザルスは、たちまち国土のおよそ4分の1近くを彼らに占拠されることとなる。不幸中の幸いは、占拠された地域が比較的人口が少ない地方であったことだろうか。

 結果、カザルス王国は“魔王軍”を名乗る彼らと戦争状態に突入。3年以上のあいだ一進一退のこう着状態が続いた。当然、国も人民も疲弊する。


 事態を打開すべく、カザルス王国が採った方策は「少数精鋭による敵軍指導者の殺害」──いわゆる“勇者による魔王の打倒”であった。

 「艱難辛苦を越えて魔王を打ち倒す勇者」と言えば聞こえは良いが、ある意味、これ以上ない程危険な汚れ仕事である。戦線の維持のためにも正規の騎士を動かせるはずもなく、自然とその仕事も冒険者ギルドから腕利きの人材が募られるはずだったのだが……。

 宮廷付き魔術師にして占術師でもあるヴォータンが異を唱えたのだ──「勇者として魔王討伐に赴くべき人材は、すでに存在する」と。

 他の人間が言えば一笑にふされたであろうこの提言も、これまで30年以上も国を支え導いてきた相談役が言えば重みが異なる。まして、ヴォータンは、かねてから魔族の侵攻を予見し、王国の重鎮に注意を促していたのだから。

 厳粛なる星見の結果見出されたのは、ごく平凡そうな冒険者志願の少年だった。彼には詳しい事情を知らせず「冒険者ギルドが素質を見出したから」と言いくるめて、およそ1ヵ月の間、厳しい訓練が課せられた。

 大の大人はおろか一人前の冒険者でさえ音をあげそうなその特訓に、しかし14歳の少年は耐えた。のみならず、めきめきとその戦いの技量を上げ、僅か1月足らずで剣術魔術とも新米冒険者の域を遥かに越える成長を見せたのだ。

 王国の上層部も、彼が運命に選ばれし勇者──正確にはその“候補”だと認めないわけにはいかなかった。

 少年はあらためて王宮に呼ばれ、魔王討伐の任を授けられる。もとより、正義感の強い彼が冒険者を志したのは戦時下のこの混沌とした情勢を憂いての話だったため、少年の方も喜んでその役目を受け入れた。


 彼の旅立ちには、王国からの肝入りで3人の仲間が同行した。

 名高い老剣聖の孫にして門下最強の腕前を誇る、若き女剣士。

 幼き頃より神童の呼び名も高い、博識で人格者な青年僧侶。

 そして幼い頃にヴォータンに拾われ、彼の内弟子として修業してきた魔法使いの少女。

 歳若い人材が多かったのは、才能とのびしろを見込んでのことで、実際勇者自身も含めた彼ら4人は、旅立ちから2年足らずで辺境を支配していた魔王軍の3人の幹部を倒すまでに成長する。

 さらにその余勢を駆って冥宮から逆に魔界へと侵入を果たし、さまざまな苦難の末、ついに“魔王”を自称していた高位の魔族を倒し、1年前、王都クラインへと凱旋したのだ。


 旅立ったときはまだあどけない子供の面影を残す小柄な少年だったが、仲間とともに王都に戻って来た勇者は、2年半にもおよぶ魔王討伐の旅を経てすらりとした美丈夫へと成長していた。

 まるで絵物語から抜け出して来たような立派な“勇者”を人々は歓呼の声をもって出迎える。とくに、一度魔界四天王のひとりに誘拐され、勇者の手で救出された王女などは、自分と同年の勇者に心酔していた。

 勇者は王国から貴族の地位と報償を授かり、仲間達もまた相応の褒美をもって遇された。

 当初は戦いしか知らぬ田舎者かと思われた勇者だったが、意外なほど頭が切れ、また社交性や人間的な魅力にも長けており、気づけば宮廷でも一目置かれる存在となっていた。

 そして、凱旋から1年のあいだ、辺境に残る魔王軍の残党を掃討する作戦を指揮するかたわら、徐々に王女と接近し、いつしか恋仲になり、ついには明日の婚礼にまで漕ぎ着けた……というわけだ。

 将来女王となるであろう姫を射止めたのだから、このうえない逆玉と言えるだろう。

 無論、口さがない王宮雀の間では、ポッと出の勇者の躍進をやっかむ声が皆無と言うわけではないが、国王自身が勇者を気に入っている上、世論の流れもあって、反対派の動きは(少なくとも表面上は)それほど活発なものではなかった。


 * * * 


 「ふふふ……ついに、ここまで来た、か」

 王城で二番目に高いバルコニー(無論、一番は国王夫妻の居室だ)から夜空の満月を見上げながら、不敵に笑う勇者。その様子は、勇者と言うよりむしろ何かの陰謀を企む悪役といった風情だ。

 「おっと、独り言は自重しないと、な」

 自分でもそのことに気付いたのか、顔つきを改め、真面目くさった表情で改めて月を見つめる勇者だが、それでも純白の騎士装束をまとったその背中からは、どこか隠しきれない歓喜──いや、愉悦のようなものが滲んでいた。


 だが……。

 『フン、いい気なものだな』

 「誰だッ!」

 いずこからか聞こえてきたその声に、勇者は素早く警戒体勢をとりつつ、辺りを油断なく見まわす。

 (声の聞こえてきた方角は……)

 「頭上そこかッ!?」

 城の方を振り返るように見上げる勇者の目に、本丸と隣接する尖塔の頂き──王国旗が翻るポールをつかんで急勾配の屋根に立つ人影が映る。

 人影は一見、15、6歳の金髪の少女のように思えた。しかし、全身から漂う“魔”の気配と、左右の耳の上から生えた褐色の角が、“彼女”が決して人ではないことを物語っている。

 「お主、魔族だな。どうやってこの城の結界をすり抜けたッ?」

 『──フッ』

 小馬鹿にしたように魔族の少女は微笑う。バサリ……という羽音とともに、彼女の背中に暗赤色の翼が翻った。

 「その翼……サキュバスか!?」

 サキュバスは、淫魔とも夢魔とも呼ばれる種族だ。魔族の中ではおおよそ中の下クラスに位置するとみなされる。一見したところ、人間、それも極めて美しい女性と酷似した姿を持つが、本性を現すと頭に角、背中に蝙蝠のような翼が生じる。

 闇属性と精神関連の魔術を得意とすると同時に、その素早い身ごなしと鋭い爪で格闘戦も決して不得手ではない。ハーピーなどの鳥人族には及ばないものの、巧みに空を飛ぶ事もできるため、なまなかな冒険者では数人がかりでも苦戦することは必至だ。

 ただし、比較的体力が低いことと、魔術・体術・飛行ともそれをもっとも得手とする魔族には及ばない、ある意味器用貧乏であることから、ハイレベルな冒険者なら1対1でも決して倒せぬ相手ではなかった。


 尖塔から翼を広げて空中に躍り出た魔族の少女は、黒い革製の編み上げコルセットとビキニボトム、同じく黒革の長手袋とオーバー二ーブーツという、いかにもサキュバスらしい服装を身に着けている。

 種族の特性から豊満な身体つきの多いサキュバスにしてはスラリとした体型で、乳房の膨らみもやや控えめではあったが、それでもウェストはキュッとくびれ、胸や腰のラインは柔らかい丸みを帯びているため、十二分に魅力的だった。


 しかし──。

 『ハッ! よもや一年足らずで、この顔を見忘れたか?』

 「! き、貴様は!?」

 急降下するサキュバスの両手には、どこから取り出したのか漆黒の短剣が握られている。

 咄嗟に腰に下げた長剣を抜き放ってそれを迎え撃つ勇者。


 ──カン! ギィン! ギリリッ……


 二本の黒刃と一筋の銀光がめまぐるしく交叉する。


 『ハハハハハ! 逢いたかったぞ、我が勝利を盗んだ者よ!』

 「まさか生きていたとは……とっくに魔界の片隅で塵芥にまみれて命を散らしていると思ったよ」

 『死ねるわけがないだろう! すべてをお前に奪われたままで!!』


 * * * 


 魔王を討ち果たした“勇者”が王都に凱旋する、その半年余り前、勇者モーガンとその仲間たちは人間界に侵攻してきた魔王軍の四天王のうち3人までを倒し、そのまま冥宮を潜り抜けて、魔族の本拠地──“魔界”へと足を踏み入れていた。

 一般に魔界は、“瘴気に満ちた禍々しい世界”と誤解されているが、実際に足を踏み入れてみれば、それほど悲惨な土地と言うわけではない。

 ただ、人間界ちじょうと異なり太陽が昇らず、その代わりに、地上よりも大きく、また幾分明るめの“月(地上のそれとは異なる人工天体だ)”が、満ち欠けすることなくずっと世界中を照らしているのだ。

 その分植物の生育状況は芳しくないが、それでも相応の生物相は出来あがっている。とは言え、やはり緑豊かとは言い難く、魔族が人間界を侵略する理由の一端は、地上でしか手に入らない一部の資材や太陽の下の領土を欲するから……という部分もあった。

 ちなみに、“魔族”とは、魔界生まれで言葉を解し、一定の知性ある存在、“魔物”とはそれ以外の魔界産の生物を指す。地上における、人間と動物にほぼ対応する言葉だと言えるだろう。


 素性を偽り、人間であることを誤魔化しつつ、魔界で旅を続ける勇者一行。ひと口に魔族と言ってもその姿形は千差万別で、人間に非常に近い容姿の種族も少なからず存在する。

 適当に角やトンガリ耳をつけ、肌の色を青や赤に塗って変装しておけば、さして怪しまれることなく、点在する魔族の集落で食糧を補給しつつ旅することができた。

 目指すは魔王の首。

 実力主義かつ血の気が多く、人間に比べて統制がとれているとは言いがたい魔王軍は、力をもって君臨する魔王が斃れれば大混乱の内に瓦解するだろう。

 実際、人間界への侵攻軍も、指揮する四天王を倒しただけで散り散りになったのだから。


 だが、魔王城に赴く前に、どうしてもこのワイマール城塞の主──四天王の最後のひとりであり、魔王軍の参謀格とも言える女将フェイを倒しておかねばならない。

 さもなければ、これまでも散々その智謀で彼らを苦しめたフェイのことだ。どんな罠を仕掛けてくるかわからないし、何より最強の敵である魔王と対峙した際に、彼女が魔王を援護すれば明らかに不利になることが目に見えている。

 少数精鋭による頭トップの各個撃破。これが勇者パーティーの基本方針であった。


 ただ、今回ばかりはその方針が裏目に出た。いや、フェイに読まれていた、と言うべきか。

 城塞の各部に仕掛けられたトラップで4人の仲間達は分断され、モーガンはフェイと一対一で戦うことを余儀なくされたのだ。


 あるいは、純粋に剣技や魔術などを総合した“武力”に限れば、モーガンの方が秀でていたかもしれない。

 しかしながら、若く──人間で言えば20歳そこそこに見えても、フェイは100歳近い歳を重ねた女怪だ。心理戦や揺さぶりにかけては一日の長、いや文字通り大人と子供ほどの差があった。

 一進一退の攻防が続く中、僅かな隙を突いて、ついにフェイの特技がモーガンを捕捉する。

 左右の手に持つレイピアとマンゴーシュで巧みにモーガンの聖剣を受け流すフェイと鍔迫り合い状態で睨み合いになった……と思った瞬間、モーガンはなぜか一瞬棒立ちになってしまったのだ。

 その隙を逃さず、フェイの右掌が、スピード勝負のために兜を捨てていたモーガンの頬に伸ばされる。

 触れられたのはほんの刹那。しかし……。

 「くっ……力が抜ける……」

 「あはは、ご愁傷さまだねぇ、勇者の坊や」

 サキュバスである彼女の視線による魅了チャームから吸精エナジードレインの洗礼を受けたモーガンは弱体化し、ついに敗北したのだった。


 全身の精気を抜かれ意識を失った少年勇者を、しかし淫魔は殺そうとはしなかった。聖属性封じのかかった布をかけ、むしろ優しいとさえ言える手つきで抱き上げると、そのまま城の隠し部屋へと運ぶ。

 やや苦心しつつも武装解除し、丈夫なシャツとズボンだけの格好にしてから、きっちり縛り上げ、部屋の床に描かれた魔方陣の中央に安置する。

 「くくく……いよいよ、私の悲願が叶う!」

 抑えきれない哄笑をもらしたのち、フェイはゆっくりと禍々しい呪文を詠唱し始めるのだった。


 * * * 


 「うっ……ここは……」

 意識を取り戻したとき、モーガンは一瞬自分の状況がわからなかった。

 だが、薄暗い部屋に両手を後ろ手に縛られている──いや、手枷を付けられているらしい状況から、どうやら敵に捕らえられたようだと理解する。

 (落ち着け。殺されていないということは、まだ望みはある。僕を捕らえた者が交渉を持ちかけてくるかもしれないし、仲間が助けに来てくれるかもしれない)

 焦る気持ちを抑えて、極力平静を保とうとするモーガン。


 と、その時。

 「おやおや、囚われのお姫様は、ようやくお目覚めかな」

 芝居がかった物言いとともに、何者かが部屋の入り口に姿を現す。

 暗い部屋の中から逆光になっているので、はっきり姿は見えないが、そのよく響くアルトボイスには聞き覚えがあった。

 「くっ、フェイ……か?」

 モーガンの言葉尻が疑問形になったのは、目の前の人物がいつも──と言っても、実際に顔を合わせたのはこれが3度目だったが──の、いかにも女魔族らしい露出の高い衣装コスチュームではなく、武骨な鎧に身を固めているようだったからだ。

 「ああ、その通りだが……ふむ、こう暗くてはどうにも見づらいな。”光り在れ”!」

 フェイが【灯り《ライト》】の呪文を詠唱したため、部屋の中が一気に明るくなる。

 一瞬その眩しさが瞳に突き刺さるように感じたモーガンだったが、しばし瞼を閉じたのち、恐る恐る開いたところで、己が目を疑うハメになった。


 何故かと言えば。

 いつの間にか彼の前に歩み寄っていたフェイらしき人物は、白銀色に輝く甲冑プレートメイルを着込んだうえ、左腰に長剣を佩き、右脇に羽飾りのついた兜を抱えた、いかにも戦士然とした格好をしていたからだ。

 いや、それだけなら奇異に思うことはあっても言葉を失うほどではない。

 フェイの格好は他ならぬモーガン自身の装備をそっくり模していたのだ。

 「お前、何でそんな格好を……。

 ! もしかして、僕に化けて仲間に合流して、パーティを内側から葬り去るつもりか!?」

 魔族の中には、擬態能力や変身魔法を心得ている者もいると耳にしたことがある。サキュバスという種族自体、角と翼を消せば容易に人間に化けられるのだし、淫魔の中でも最上位に位置するフェイが変身の術を心得ていてもおかしくない。

 慌てて立ちあがろうとしたモーガンは……しかし、後ろ手の手枷に鎖が繋がれていたせいで果たせず、ガクリと膝まづくハメになった。


 「ふふっ、なかなか鋭いねぇ。でも、40点ってトコロかな」

 ニマニマと嫌な笑顔を浮かべたフェイが、モーガンの前に片膝ついてしゃがみ込む。

 「ほら、よく見てみな。この甲冑と剣に見覚えはないかい?」

 「何を言って……」

 モーガンの言葉が途切れる。

 「そ、そんな……バカな!?」

 目の前の女魔族が装備しているのは、外見を真似た紛い物などではなく、間違いなく“選ばれし勇者”だけが身に着けることができる聖鎧と聖剣──つまりいつも彼が着用しているはずの勇者用の装備だった。

 「なぜだ? それは勇者である僕以外の誰にも装備できないのに! まして、邪悪な魔族なら触れただけで、多大なる苦痛とダメージを受けるはずだ!!」

 レプリカなどではないことは、そのふたつが発する清浄なオーラのようなもので分かる。


 「ほほぅ。それじゃあ、つまり今は私が聖なる“勇者様”なんだろうさ」

 「何を戯言を……」

 「くくく……まだ気付かないのかい? 哀れな捕らわれの“女淫魔サキュバス”モーガンちゃん?」

 「──は?」

 このサキュバスはいったい何を言っているのだろう?

 「ほら、自分の身体をよく見てみりゃ、わかるさ」

 あざけるようなその言葉に、反射的に視線を落としたモーガンは、再度自分の目を疑う。

 彼の体は、先刻まで眼前の淫魔が着用していたはずの、下着と見まがうほど露出の高い真っ赤なレザーコスチュームに包まれていたからだ。

 「な、何だコレは? さてはお前の仕業だな! 僕を恥ずかしめようという魂胆か!?」

 女装というのもおぞましい格好をさせられ、羞恥と怒りのあまり、拘束された不自由な身体を懸命によじるモーガン。

 もっとも、半年近くも太陽の昇らぬ魔界を旅してきたせいか随分生白くなってしまった肌もあいまって、発育途上の小柄でスラリと引き締まった少年の体躯には、サキュバスの露出過多な衣装も存外マッチしていたのだが。


 「あはははは! よく似合ってるじゃないか、セクシーだよ♪」

 「クッ……」

 視線だけで相手を殺せたらという程の憎悪を込めて睨むモーガンを、フェイはどうどうとなだめる。

 「言っとくけど、私が着替えさせたわけじゃないよ。術の結果、あるべき格好に変わっただけさ──アンタも、私もね」

 至極上機嫌に笑うフェイの姿に、先程までの怒りも忘れて、嫌な予感を覚えるモーガン。

 「? ど、どういうコトだ?」

 「ふふふ……もちろん、説明してあげるよ」

 篭手をはめた手で、グイとモーガンの顎を持ちあげ、顔を覗き込むフェイ。

 「さっき、アンタが気を失ってるあいだにね、私とアンタの間にある禁術をかけたのさ。

 【因果交換チャンゲクス】──対象ふたりの身分や立場その他を入れ換える、失われた儀式魔術をね。そして見事に成功した」

 「え? え?」

 「つまりね、今は私が“精霊の祝福を受けし勇者”で、アンタが“魔王軍四天王の紅一点のサキュバス”なんだよ」


 目の前の女魔族フェイのその言葉は、モーガンには到底信じられなかった。

 確かに服装・装備こそ取り違えてはいるものの、依然として目の前のフェイは(角と翼は仕舞っているようだが)妖艶な若い女性の姿をしていたし、自分も淫魔らしいボンテージ衣装を着せられているとは言え、きちんと人間の男の身体のままなのだ。

 そのことは真紅に染めた革のビスチェで締めつけられたペタンコの胸や、股間にキュッと食い込むビキニショーツの下の窮屈な“息子”の感触からも明らかだ。

 「ハンッ! 何をバカな……」

 もしこれが、たとえばふたりの魂を入れ換えた──つまり、フェイの意識がモーガンの身体に宿り、モーガンの魂が女淫魔の身に移されたとか言う状況なら、彼もまだしも納得しただろう。

 しかし、今は単に衣装を取り替えた着せ替えごっこをしているようにしか見えないのだから。


 「ふふっ、疑ってる──いや、信じてないようだねぇ。でも、よく考えればわかるんじゃないかい? そもそも、私とアンタを比べて見れば、随分と身長体格も違うはずだろう?」

 ちなみに、体格はともかく身長に関してはモーガンの方が頭半分ほどフェイより低い。伸び悩んでいる背丈のことは少年の密かな悩みの種だ。

 「……何が言いたい?」

 「あはは、背が低いコトを気にしてるのかい? でももう心配無用さ。女淫魔としては、そのくらいの方が可愛いよ」

 「戯れ言を……」

 「くくっ、まぁ、聞きなよ。そんな風に身長差があるはずなのに、私がこの勇者の鎧をピッタリ着こなせているのはなぜだと思う?」

 「!!」

 そうだ。本来なら、(遺憾ながら)体格で劣るモーガンの鎧を、女にしては長身かつグラマラスなフェイが着ればパツパツになるはずなのだが……そんな様子はまったく見えない。

 「な……どうして?」

 「無論、私がこの聖鎧の主──“勇者様”だからさ。それと同じ理屈で、アンタもその服がピッタリ身体にあってるだろう?」

 確かに、女淫魔の装束は余ったり余分に締めつけたりすることもなく、モーガンの身体を包み込んでいる。


 「だいたい、さっきアンタも言ってただろう。魔族であるはずの私が聖なる装備を身に着けるなんてコト、普通ならできるはずがないのさ」

 理に適ったフェイの言葉が、少しずつモーガンを追い詰めていく。

 「こ、これは何かの間違いだ! そうだ! お前が何らかの秘術で聖鎧や聖剣の力を無理矢理封じ込めて……」

 「往生際が悪いコだねぇ。じゃあ、コレを見な」

 スラリと腰の聖剣を抜き放つフェイ。

 「ヒッ!!」

 思わず小さく悲鳴をあげてしまうモーガン。

 頼もしい愛剣の刃も、いざ自分に向けられるとなると一転不安をもたらす。

 いや、それだけではない。見慣れたはずのその白銀の聖なる輝きが目に入った途端、なぜかモーガンの胸中に抑えきれない恐怖と不快の念が湧き起こったのだ。

 「あはは、心配しなくとても切りつけたりしないよ。単にアンタの肌に軽く当てるだけさ」

 その言葉通り、剣の腹の部分を剥き出しのモーガンの肩の部分に、ペトリと触れさせるフェイ。

 ──しかし、その反応は劇的なものだった。

 「ギィヤぁぁァーーーーーッ!!!」

 灼熱の焼け火箸を押し付けられたような、圧倒的な熱と痛みがモーガンを襲う。苦悶のあまり、手枷の鎖が許す範囲でのたうち回る少年の姿を、フェイは愉快そうに見守っている。


 「ど、どうして……」

 ようやく苦痛の呻きをかみ殺すことに成功したモーガンに投げられた言葉は非情だった。

 「これでわかったろう? 今のアンタの立場は魔界の片隅を這いずり回る薄汚い淫魔に過ぎないのさ」

 告げられた“事実”をようやく実感したのか、茫然とするモーガンを前に、フェイは積年の想いを吐き出し始めた。


 能力だけなら上級にも手が届くはずのサキュバスという種族が、魔界の階梯で中の下程度に留まっているその理由──すなわち、男の精を摂取せずにはいられない淫蕩なさがのこと。

 サキュバス風情と見下されるのが嫌で、必死に実力をつけ、ついには魔王軍の四天王にまで昇りつめたこと。

 それほどの地位を得ても、口さがない魔族には未だ色眼鏡で見られること。

 旧態然とした魔界への嫌悪と、光に満ちた地上への憧れ。

 そして……。


 「! そうだ。成り立てほやほやの淫魔のアンタに、元先輩としていいことを教えてあげるよ」

 不自然なほど優しい口調で、フェイはモーガンの耳元に囁く。

 「実はね、単に生きてくだけなら、サキュバスも絶対に男の精が必要ってワケじゃないのさ。ただ──サキュバスは精をすする以外に、自力で魔力を回復することができない。それが弱肉強食の魔界でどれだけ致命的なコトか、わかるだろう?」

 「………」

 無論、聡明なモーガンには、その意味は十分理解できた。

 「それとね。サキュバスは、初めてすすった精気の持ち主に絶対服従──と言うか精神的に逆らうことができないのさ。どんなに屈辱的な命令にも、ね」

 「……!」

 さらに明かされた秘密にモーガンは動揺を隠しきれない。その表情をフェイは間近で楽しそうに見守っていた。


 「……たとえ、お前の言った事が事実だとしても、僕の仲間たちが、きっとお前の謀事を見抜いてくれるさ!」

 確信はないが、それでも残った気力をかき集めて虚勢を張るモーガン。

 「ふむふむ。確かに、いくら私が演技達者でも、普通ならそれほど接点のなかったアンタになりすますことは難しいだろうね。

 でも──今の私には、“勇者として王都を立って以来の旅の記憶”がキチンとあるんだよ」

 「え?」

 「当然だろう。今の私は“カザルス王国の希望の星たる勇者様”なんだから。

 それはアンタもおんなじことさ。意識を集中すれば、さっき私が語ったようなサキュバスとしての半生の記憶を思い出せるはずさ」

 (もっとも、それをすればする程、勇者だった時の記憶は曖昧に揺らいでいくだろうけどね)

 と、その部分は胸の内で呟くに留めるフェイ。明らかに悪意の確信犯であった。


 「さて、“親愛なる後輩”へのレクチャーも終わったことだし、そろそろ私は行くとするよ。

 “城の中ではぐれた仲間”と合流して、魔王を倒しに行かないと」

 「! 僕を殺さない、の?」

 「ああ。安心しな。四天王の最後のひとりは、私が倒して消滅したってみんなには言っておくよ。魔族といえど“抵抗する力もない女性”を殺すのは、“勇者”としては、少々いただけないからねぇ」

 ニヤリと笑うフェイだが、無論モーガンとしては感謝する気にはなれない。

 「そうそう。その手枷の鎖もいい加減錆ついてるから、根気良く引っ張ってれば、そのうち千切れるかもしれないよ。まぁ、半日やそこらじゃ無理だろうけど。飢え死にする前に、外れたらいいね。

 それと、魔術を使うのはオススメしないよ。今のアンタの体には魔力がほとんど残ってないから。

 そんな状態で残りの魔力を使い果たしたら……本能的に身体が精気を求めて、麻薬クスリの切れたジャンキーの如く、男の精をすすることしか考えられない正真正銘の淫乱痴女ビッチになっちまうだろうね」


 身を翻し、隠し部屋の扉から出て行きながらフェイは言葉を続ける。

 「ああ、サービスでこの扉は特別に開けたままにしといてあげよう。城のほとんどの者は避難させたけど、下働きの下級魔族くらいはまだ何人か残ってるはずだから、そいつらの誰かが見つけてくれるかもしれないね」

 一見親切に聞こえる申し出だが、無論裏がある。フェイは、助け出されたモーガンが、サキュバスとしての本能に負けて、それらの下級魔族の精を口にすることを期待しているのだ。

 もし衝動に流されてそんなコトをしてしまえば、モーガンは初めて精をもらった者に一生隷属するハメになる。

 かといって、精気吸収それをしなければ、精霊の加護を無くした華奢な少年の剣の腕前程度では、そもそもこの魔界で生き抜くことすら難しかろう。

 汚辱に塗れた性奴として生きるか、痩せ我慢してボロ雑巾のように行き倒れるか。

 どこまでも悪意に満ちたフェイの姦計だった。


 * * * 


 そのあとの事は世間一般に知られている通りだ。

 “勇者フェイ”とその仲間たちは(フェイが魔王の弱点や隠し技なども熟知していたこともあって)、激戦の末に魔王を倒して凱旋し、カザルス王国に“平和”を取り戻した。

 “魔王を討ち倒した勇者”の立場と、魔王軍参謀であった頃の知略を十全に活かして、フェイは巧みにカザルスの宮廷を立ち回り、ついに王女の許婚という地位を手にする。

 明日の婚礼が終われば、間接的にではあるが王位継承権すら手に入るし、そうでなくともオーガスト姫は“勇者様”にメロメロなので、女王として即位した彼女を操ることはたやすいだろう。

 ただし……。

 「まさか生きていたとは……とっくに魔界の片隅で塵芥にまみれて命を散らしていると思ったよ」

 その前にこの過去のしがらみを断ち切る必要があるだろうが。


 『死ねるわけがないだろう! すべてをお前に奪われたままで!!』

 憎悪と憤怒の入り混じった表情に端整な顔を歪めて、フェイに襲いかかるモーガン。

 角と翼を生やしたその姿はまさにサキュバスそのものだ。ややボリュームに欠けるものの、一年前に別れた時と異なり胸元も女らしく膨らみを帯びている。

 もっとも、その点はフェイの方も同様で、この一年のあいだに随分と筋肉質でゴツゴツした身体つきになっているのだが。

 下半身──性器に関しては、元々サキュバスは疑似的男根を生やす術を心得ている(主に女性を相手にする時に使うのだ)ので、“生えた”状態で立場交換したから問題はなかった。

 女体のツボを心得たフェイの性戯で、王女はもちろん、元旅の仲間で現在は王族剣技指南役の地位についている女剣士も骨抜きにしてある。

 さらにはこっそり男色の嗜好を隠し持っていた僧侶(現在は城付きの司祭となっている)も籠絡してあると言うのだから、その悪辣さは、流石元魔軍参謀と言うべきか。

 (唯一、王都に戻って早々に旅に出た女魔法使いだけは落とせなかったんだが……まぁ、貧相な体つきだったから、さして惜しくはないか)

 戦いのさなかに、そこはかとなく失礼なことを考える余裕すら、フェイにはあった。


 ふたりの戦いは一見膠着状態のようにも見えた。

 それは、ある種、1年前の魔界での戦いの再現とも言えた──もっとも、両者が採る戦術そのものはまるっきり逆になってはいたが。

 絶対的な膂力と剣技ではフェイの方に分があり、対してモーガンはその身軽さと飛行状態も含めた3次元的な動きでフェイを翻弄している。

 だが……フェイには勝算があった。

 第一に、戦いが長引けば城の第三者による介入が見込めること、そしてサキュバスは決してスタミナ面で優秀とは言い難いこと。さらに、淫魔が得意とする精神系・暗黒系の魔法に対し、自分は耐性があること、だ。

 あの戦いでフェイが勝てたのは、あくまでモーガンに魅了の視線でほんの一瞬の隙を作って、そこに畳みかけたからだ。当然、自分が同じことをされぬよう十分警戒している。

 だから、その勝利を確実なものとすべく、淫魔化した少年に揺さぶりをかけることにした。


 「ふふふ、それにしても可愛いオッパイだねぇ。まさか、そこまで立派にサキュバスとして成長するとは……」

 嘲るようなフェイの言葉に、モーガンの視線が一層キツくなる。

 「てっきり、キミは淫魔に堕ちるくらいなら死を選ぶと思ってたんだけど。それとも、自害を躊躇っているうちに、城に残された下級魔族達に助けられたのかな?」

 「──黙れ」

 「で、今のキミのマスターはどんなオスなんだい? 年中さかりのついた豚鬼オークかい? それとも、ちっぽけな小鬼ゴブリンかな? ああ、私が伝令にこき使っていた羽妖鬼インプと言う可能性もあるねぇ」

 ワザと最下級の魔物の名ばかり挙げるフェイ。実際には、もう少し上のオーガやバルログ辺りなのかもしれないが、それにしたってこうして淫魔化が進んでいる以上、純真で初心だった元少年勇者が、誰か男の精をすすり、その者に隷属しているコトは確かなのだ。


 しかし、意外なことに少年(今の姿を見るとそう呼んでよいか躊躇われるが)は逆上するでもなく、むしろかえって冷静になったかのように見えた。

 「ああ、そうだな。確かに、我はアレを──男の精を口にした。しかし、我は我だ。たとえこの身が闇の眷属へと堕ちようと、我以外の何者にも従うつもりはない!」

 高らかに宣言するモーガンの言葉に、困惑するフェイ。

 「それは……どういうコト?」

 考えられるケースとしては、マスターとなった男が不慮の事故などで死ねば、その者に隷属していたサキュバスは「一応」自由になれる。

 しかし、一度男の精の味を覚えたサキュバスに、ソレを我慢することなどできようはずもなく、結局は新たな主人を選ぶハメになるのが常だ。


 「あの時は、怒りと恥ずかしさと嫌悪感で狂いそうになったよ。

 ──よもや自分で自分のモノを口で慰めるハメになるなんて考えたコトもなかったからな」

 「!!」

 そう、禁断の術でフェイと因果を交換されたモーガンだったが、当時は未だ肉体自体はごく普通の人間の少年のソレだったのだ。

 幸か不幸か誰にも発見されないまま、あの隠し部屋で丸二日近い時間を鎖に繋がれて過ごしたモーガンは、すさまじい渇望と身体の疼きに苛まれながらも、それでもこの窮地を抜けだす方法を考え続けた結果、天啓の如く精気の補給源が身近にあることに気付いたのだ。

 躊躇はほんの一瞬だった。


 …………


 あの時、否応なしに口にするハメになったその液体の味を、モーガンは一生忘れることはないだろう。

 涙が出るほど屈辱的で、吐き気がするほど気持ちが悪く──なのに、うっとりするほど甘美だったのだから。


 両目から大粒の涙をこぼしながらも、夢中でソレを舐めすすり──何とかサキュバスとしてまともに活動するに足る精気(=魔力)を摂取したモーガンは、魔術で手枷を壊し、隠し部屋から脱出した。

 本来なら、すぐにでも偽勇者と仲間達の後を追いたかったが、自分のものとは言え精気をすすったせいか、急速にサキュバスとしての“立場”に馴染み始めた少年の身体は、勇者だった頃のような無理が利かなかった。

 焦る気持ちを無理矢理抑えつけ、城塞奥の私室に残されたフェイの財産──それは、魔道書だったり軍略書だったり、あるいはサキュバス用の武器防具だったりした──を検分する。

 フェイが言い残した通り、意識を集中すれば、“魔王軍四天王のひとりである淫魔の女将軍”の過去を思い出すことができた。もっとも、その行為の裏側に潜む危険性についても、すぐに気付いたので、以後は必要最低限のみ行うようになったのだが。


 モーガンが、ようやく今の自分の身体と闇の魔力の扱い方に慣れた頃、「魔王が勇者に討ち取られた」という噂を耳にすることになる。正確には、城塞に戻って来た元フェイの(そして今はモーガンの)部下である魔族が教えてくれたのだ。

 そして、魔王軍が瓦解し、勇者達が意気揚々と人間界に引き挙げたことも。

 彼らは──ある意味当然のなりゆきだが──モーガンを自分達の上司として扱い、今後の方針を問うてきた。

 「魔王を倒す」という目的を見失い、胸にポッカリ穴が空いたようになったモーガンは、周囲に流されるままに“四天王唯一の生き残り”として魔軍の残党をまとめ、混乱した魔界の治安維持に努めた。

 トップが知将タイプだったせいか、フェイの配下には比較的話のわかる(つまり脳筋ではない)タイプの魔族や魔物が多く、モーガンもさほど苦労することなく、彼らを掌握することができたのは幸運だった。


 こうなっては仕方がない。思うところは多々あるが、「魔王を倒して、人間界を救う」という目的は一応達成されたのだ。冥宮は埋め塞がれたが、幸い人間界からの逆侵攻もないようだし、とり残された自分は魔界ここの平和のために尽力しよう。

 今や“元魔界軍四天王の紅一点”という立場になったモーガンは、そう考え、忙しく行動することで、辛さを忘れようとしたのだ。

 元勇者の身で魔界の平和の為に尽力するというのは色々間違っている気がしないでもなかったが、いざ身近に接するようになると、魔族と言えど決して血も涙もない殺戮マシンではないことを、モーガンは理解するようになっていた。

 そして、立場こそフェイから受け継いだものの、陰謀家でSッ気の強いフェイと比較すると、(多少スレて屈折した部分は生じたにせよ)格段に素直で性格の良いモーガンは、自然と部下達からの人望(魔望?)も篤くなっていった。

 魔王軍崩壊の混乱に乗じたこともあって、わずか半年余りでモーガン配下の勢力は、かつての魔王軍の半分近くに匹敵する規模にまで成長していた。


 * * *


 新たな魔界の実力者として──かつて思い描いていた“幸福”とはまるで異なるとは言え──存外充実した第二の人生を歩み始めたモーガン。そのままであれば、おそらく“彼女”が再びカザルス王国に足を運ぶことはなかっただろう。


 「チッ、そのまま薄暗い魔界の女王を気取っていればよかったものを」

 一騎討ちの合い間にモーガンの身の上話を聞かされたフェイが吐き捨てる。

 「それほどまでに、私に対する憎しみを捨てられなかったのか?」

 問いかけながら、僅かに違和感を感じる。

 (おかしい。そろそろ誰かが戦いの気配に気づいてもよいはずだが)


 「ふむ。そういう気持ちが無かったと言えば嘘になるであろうな。現に、今貴様と顔を合わせた途端、感情の昂りが抑えきれなかったのだから。しかし……」


 ──疾風よ光輝と共に解放されん《ティル・ウェイ》


 モーガンとの会話に気取られていたぶん、その呪文に気づくのが遅れたフェイの背中に白銀に輝く光球が叩きつけられる。

 いかに光属性に強い勇者と言えど、本来は広範囲殲滅用の呪文である【核光撃メギド】の魔術を対個人用に集束してぶつけられては、さすがに軽くないダメージを受ける。

 思わぬ痛みに顔をしかめ、フェイの動きが止まる。

 ふた振りの黒刃を携えたモーガンの前で、それはあまりに大きな隙だった。

 「それ以上に、お前のやろうとしていることが許せなかった」

 淡々と述べるモーガンの左刃がフェイの頸動脈を、右の刃が脇腹から心臓にかけてを、ズブリと切り裂く。

 「ガハッ……」

 それだけで、“紛い物の勇者”は呆気なく斃れた。


 「協…力者が……いたのか……」

 かろうじてまだ息はあるようだ。

 「さもなくば、お前が言ったとおり我がこの城に入れるワケがなかろう? ついでに、隠密結界もその者が張ってくれたので、当分誰にも気取られることはないぞ」

 「ったく、勇者を廃業しても、相変わらず人使いが荒いんだから」

 モーガンの背中からひょっこり顔を出したのは、トンガリ帽子に黒ローブという、童話から抜け出して来たような魔女ルック姿の、辺境を放浪しているはずの魔法使いだった。

 「なる…ほど………お主は……私が本物の勇者でないことに……気づいてたのだな」

 「ま~ね。これでも、あたしはコイツがペーペーの冒険者見習だった頃からの知り合いだし」

 そう。他のふたりの仲間と異なり、女魔法使いのジルレインだけは、“勇者になる前のモーガン”を知っているのだ。それ故、彼から“勇者”の立場を奪ったフェイに対する違和感を抱き続けることができた。

 “彼”の変貌の原因が魔界のあの城塞にあると感じた彼女は王都を離れ、少なからぬ苦難の末、別の冥宮から魔界へと渡り、ついには「夢魔姫モーガン」との面会を実現させたのだ。

 その席で、ジルレインは事の真相を知り、対してモーガンは(ジルレインの推測ではあるが)フェイの野心を知る。

 “彼”が本気で王女を愛しているなら、まだいい。だが、王国を私物化したいだけなら……。

 しばし悩んだ後、モーガンはジルレインに再び王都に戻って、改めて情報収集してくれるよう依頼した。

 やがて、数ヵ月にわたる丹念な調査の結果の報告書が、モーガンのもとにもたらされ──その結果が、今宵の襲撃というワケだ。


 「ははっ……ぬかったわ。我ながら、ぶざま、ね。しかし……私が…このまま死ねば……【因果交換】の術は……解け、な……」

 最期の捨て台詞を言い終える前に、フェイの命が尽きる。

 肉体の構成要素が物質より精気エネルギーに偏っているサキュバスは、通常、命を落とすとそのまま身体が溶けるように崩れ去るのだが、フェイの亡き骸はキチンと残った。

 即ちそれは、“彼”がすでに“人間ゆうしゃ”という立場に完全に固定されていることを意味する。


 ──つまり、同様の事柄はモーガンの方にも当てはまるワケで……。

 「……わかっている。覚悟の上さ」

 ポツリと呟くと、モーガンは背の黒翼を広げて飛び立った。


 満月に照らされて夜空に舞い上がりながら、淫魔族の戦装束に包まれた肢体、その下半身が急速に変化しつつあるのを“彼女”は感じていた。

 腰の奥に子を孕むための器官が生まれ、下腹部にそれに連なる空洞──膣が生じる。小さめの睾丸の付け根と後孔の間にもうひとつ襞に埋もれた孔が開き、胎内の洞と合流する。

 今、モーガンは真の意味で両性具有の「夢魔之姫君サキュバスプリンセス」となったのだ。


 「わわっ、ちょっと待ちなさいよ!」

 慌てて手にした魔法の杖にまたがって、飛び去る彼女を追いかけるジルレイン。

 ふたつの黒影はそのまま闇夜の中へと消えて行った。


  * * * 


 大陸暦982年七の月朔日、カザルス国王女の婚約者である勇者フェイは、婚礼の日の朝、変死体として自室のバルコニーで発見される。

 彼の者の死は、魔王を殺された魔族の報復だったとも、平民出身の彼の台頭を疎む国内勢力の暗殺によるものであったとも言われるが、真偽のほどは定かではない。

 傷心のオーガスト姫はそのまま修道院に出家し、王位は5歳違いの彼女の異母弟であるワイール王子が継ぐこととなった。


 そしてそれからおよそ10年近い歳月が流れた大陸暦991年、魔界を統一した美しき女王から、国交樹立を申し出る親書が若き新王のもとに届くことになるのだが……それは、また別の話である。

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