第35話

 シミュレイテッドリアリティ実行が、無数に連続していると仮定するならば、その時間線は常に、希望的観測をも内包している。

 それは幻想、まぼろし、あるいは、………エヴェレットの多世界解釈みたいなもの? 

 違うか? まあ、何だっていい。


 あったはずの過去。

 あったはずの今。

 そして、………あると希望する未来。


 夢で、逢いましょう。







 夏空。

 群青と白のコントラスト。


 川沿いの舗装路から陽炎が湧き立つ。


 麦わら帽子の子供たちが、赤い釣り竿を下げて川遊びに興じている。

 曲がったガードレールに、立て掛けた捕虫網。緑の虫籠。

 ピンクのポリバケツ。


 この道を辿ると三差路にぶつかり、しばらく行って踏み切りを越えた辺りに一軒の家がある。記憶に残る、あれは旅の情景。

 九州に来たのはそれが初めてだった。彼女との帰省。実家の挨拶回り。大所帯の彼女の家族は、廻るだけで三日掛った。


 風鈴。

 スイカ。

 ブタの蚊取り線香。


 古い一軒家の、赤い寄せ棟造りの屋根にはテラスがあって、真っ白な洗濯物がまばゆくはためいている。

 下げられたシーツの隙間から細い女の足首が覗いている。

 オレンジ色のサンダル。


 男は目深に被ったコンバースのアポロキャップの鍔の下から、女に声を掛けた。


(すいません、ここらに美味いかき氷の店があるって聞いたんですが)


 呼び掛けられ、ふと手を止めて女が振り向く。

 アポロキャップの男の姿が目に入った。


(ええ。この先の川を左に少し行ったところに。大きなのぼりが出てますよ)


 男は顔を上げなかった。

 女は帽子に隠れた男の無精髭を見ていた。見覚えのある顎、………いや、その声を忘れるはずがない。


(そうですか)


 言葉少なに立ち去ろうとする男に、言い知れぬ焦燥を掻きたてられ、女は思い切って切り出した。


(何でしたら、ご案内しましょうか?)

(………いいんですか?)

(私も、喉が渇いたので)


 階段を降りる軽い足取りがして、エプロン姿の女が戸口に現われた。

 美しい女。男の記憶は間違っていなかった。


 二人は並んで、川沿いのアスファルトを歩いた。………黙ったまま。

 それで全てを了解していた。一年の空白。交わさなかった言葉。

 悔いの残る、………最後の記憶。


 彼は幽霊じゃない。


(この辺りは、初めてなんですか?)

(どうだったかな、随分前に一度………来たような気も)

(勘違いかもしれませんよ。田舎はどこも似てますからね)


 微笑んだ女と、男の目が出会う。

 いっぱいの涙を浮かべた、女の笑顔。

 帽子の影で光る、男の瞳。


 川沿いの幟のある氷屋へ、二人は黙って歩いて行った。

 それは知らない同士の、恋の始まりだった。


 暑い夏の日。





                                     終

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ジグムント・ボックス 梶原祐二 @kajiyuji2019

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