第5話

 加賀はリビングの広い硝子テーブルの上に、そのケースを載せた。

 小さな取っ手の付いたケースは黒く染めたクロコダイルの革張りで、全体がアクリル製の透明なカバーで覆われていた。四隅の角がメタルで補強され、いかにも強靭そうに見える。


 加賀はソファの上にコートを投げ、キッチンからグラスと百八十ミリのミニボトルを取り出した。何かつまむより、今は飲みたい気分だった。加賀はグラスに安物のウイスキーを注ぎながら、部屋をあらためた。

 締め切ったカーテン、32V型のテレビとキャビネット。テーブルの上には雑誌。組み立て式のステンレスラックにはお気に入りの映画ソフトのコレクションが並んでいる。その前で光電池を活動電源とする首振りキャラクター人形が、戸惑う子ヒツジのように揺れている。

 妻がいなくなったとはいえ、それで部屋が荒れ荒むというものでもない。加賀は物を動かさず、そして変化を好まなかった。適当な間隔で掃除をし、洗濯をし、ゴミを出す。生活の基本とは、その程度のことである。

 これによって全てが安定し、維持される。

 加賀はグラスを傾けながら、リモコンでオーディオ・セットのスイッチを入れた。mp3でダウンロードした音楽データが自動再生を始める。流れ出したのは、キース・ジャレットの『パリ・コンサート』の二曲目、『The Wind』。

 好きな曲だった。

 『The Wind』は、チェット・ベイカーの『Chet Baker & Strings』が有名だか、感傷的で甘美過ぎる弦楽が加賀には馴染めなかった。それで、キースのピアノ・ソロの方をお気に入りに入れている。時にチェットのトランペットが聴きたい日もあるが、………ここのところ、そうした気分になることは少ない。


 加賀はグラスを置くと、テーブル上のケースを忌々しげに睨んだ。

 クリーブ株式会社の桐原正則。あの男の口車に載せられ、まんまとケースを押し付けられてしまった。ジグムント何とかという、あの薄気味悪い機械装置だ。

 しかしながら、随分と奇妙な商品開発をしている会社もあるものだ。正直、加賀にはついて行けない発想である。AIに心理カウンセリングをさせるだと? それにどのくらいの市場価値が見込めるだろうか? 皆はこれを、欲しがるだろうか? 

 加賀は灰皿を引き寄せると、煙草に火を点けた。

 桐原にも、家電バイヤーの西島にも、自分の悩みを打ち明けた覚えはない。にもかかわらず、あの勧められようはどうだろう。社外モニターとして是非感想を聞かせてくれないか、そう持ち掛けられたのである。果たして自分は、世間様にどんな顔をさらしていたのだろう。

 妻に逃げられた、惨めな夫の顔? 

 何とも情けない話ではないか。

 結局のところ、受け取ったのは自分である。どこかでちらりと、試してみたい気持ちがあったかもしれない。………いや、間違いなくあったのだ。

 心配事は誰の心にもある。

 相談したいのは山々だが、人に知られるのは恥ずかしい。医者に行くのは気が重い。誰にも知られずこっそりと自分自身を評価出来たら? そう言う気分。

 なるほど。確かに。

 自分探しは、人類共通の関心事だということか。


 加賀はしばらくの間、音楽に耳を傾けていたが、ついにグラスを置いてケースに手を伸ばした。

 新しいおもちゃを前に、お預けをくらっている子供のようだな。

 そう思い、加賀は苦笑した。元来、家電好きな加賀である。関心がないはずがなかった。誘惑に負けると、あっさりケースの留め金を外した。アタッシュ・ケース然とした上蓋を上げると、カッティングされた黒スポンジの間仕切りの間に、きちんと装置が収まっていた。

 加賀は慎重に、そのサテンブラック仕上げの黒い箱を取り出した。昼間見た、あの奇怪な作動を思い出すと、ついつい手付きが慎重になる。ケースの上蓋が二重のポケットになっていて、開けてみるとアルミ光沢を放つ薄いプレートが収まっていた。それは説明仕様書だった。プレートは伸縮性のあるしなやかな素材で出来ていて、内容構成はいたってシンプルな箇条書きである。

 こうあった。


【ジグムント・ボックス <KURB-X001>】


 最初の説明は図解入りで記されている。


【パネル右側面の主電源を入れて下さい】


 加賀はくわえ煙草のまま装置を持ち上げると、くるりと一回転させて右隅の小さな丸い電源マークを発見した。指で触れるとピッというクリック音が鳴り、スイッチ中央にグリーンのランプが点った。

 加賀はマニュアルに視線を戻した。


【緑色のランプが点るのをお待ちください。数秒でパネル表面にモニタが浮かびます】


 加賀の目の前で黒いケースの一部が透き通り、小さな表示モニタが現れた。ディスプレイには(welcome!)の文字。まずはユーザー登録。名前とIDを入力する。それからマニュアルを読み進めると、セットアップの方法が記されていた。


【応対人格を選択してください】


 対応人格? この装置はキャラクター設定が出来るということか。高度なAIシステム搭載というだけのことはありそうだ。

 性格付けのパターンは基本五種類らしい。


【1・信頼の置ける年長の男性分析医タイプ】

【2・優しい女性医師タイプ】

【3・親しい友人(男/女)タイプ】

【4・仲の良い兄妹(男/女)タイプ】

【5・機械的呼応タイプ】


 加賀は眉をひそめた。

 何だか、風俗店のご指名メニューのようで胡散臭い。しかしながら詳しく読んでみると、被験者の年齢、性別などの変数に応じて、きめ細かく制御系が対応するとあった。オプション(別売キット)のインストールで、オリジナルのキャラクター設定も出来るらしい。優れた設計意匠である。

 加賀は最初の態度とは裏腹に、にわかに面白くなっていた。しばし考えた後、最初はとりあえずデフォルトの(信頼の置ける年長の男性分析医タイプ)を選択することにした。タッチパネルで1を選ぶ。

 装置は一旦沈黙すると、小さな唸りを漏らして再起動した。

 ネットワークから設定を読み込んでいるらしい。再起動が完了すると再び表示モニタが浮かび上がって画面にはこう記された。


【主電源をもう一度押すとスタートします。以後の操作は内蔵AIの判断で自律制御されます。自動処理にお任せ下さい。※終了は主電源を長押しすると完了します】


 加賀は煙草を揉み消し、グラスを二口ほど飲み下してから主電源に指を伸ばした。


【スタート】


 装置の奇怪な起動形態は展示会のブースで見た通りである。

 虫の翅のような上蓋の展開、軟体動物の触手のようなくねり、細く尖った八本足の台座。改めてその不気味さを再確認した。

 小さな箱が息を吹き返すと、加賀の目前のテーブル上で身じろぎした。臆病な節足動物のような振舞いだった。加賀は心中で確信を固めていた。

 この起動動作は一般受けしない。絶対に改善すべき点である。

 加賀は怪訝な表情のままソファに沈み込むと、避けるように上体を引いた。

 装置は探査部で加賀を認識すると、赤いライトを明滅させた。鎌首をもたげ、しばし考え込む。どうやらネットワークから加賀の個人情報をダウンロードしているらしい。極一般的な限定開示情報である。

 装置は思い立ったようにぎくしゃくすると、一つ咳払いをした。

「加賀洋輔さん、だね?」

 落ち着きのある声だった。

 低く深みのある中年男性の声音。

 あまりのリアルさに加賀は部屋の中を見回したほどだ。ヴァーチャル・オーディオによる三次元立体音響である。言葉は機械装置から響いていた。

「昼間、展示会で会った」

 加賀は両手が汗ばむのを感じた。言葉が見付からず、グラスを握り締める。

 何てことだ。この箱と話をするだと? 

 彼にはそれが急に馬鹿げたことのように思えてきた。加賀が黙っていると装置は覗き込むように探査部を動かした。

「少々、戸惑っているかね。………わかるよ、何故、自分はこんな箱に話し掛けられているのか? そうだろ?」

「……」

 装置は含み笑いを漏らした。

「まず、第一声を返すと楽になる。とりあえず挨拶しよう。私はジグムント・ボックス<KURB-X001>だ。ケルビム・メンタル・リサーチで開発された自律型臨床心理機材で、君に対し、モニター・カウンセリングを行う。よろしく」

 加賀は必死に言葉を絞り出した。枯れて上ずった声が飛び出した。

「……俺は加賀、……加賀洋輔だ」

 装置は納得したように声のトーンを上げた。

「いいね。上出来だ。その調子だよ。少しは楽になったかね?」

 加賀は強い喉の渇きを感じ、グラスを一気に空けた。ウイスキーの刺激が喉元を伝って落ちて行く。

「……ああ」

 そう答え、幾らか落ち着いた。しばらくの間、考えをまとめると、加賀は装置に問うた。

「俺のことは、………ネットワークからか?」

「そうだ。君は(レンズ)を頻繁に使っているだろう?」

「ああ」

「ユーザー登録と顔認証とで特定し、エアタグ閲覧した。私も登録情報までは接近出来る」

「そうか」

 加賀は同意し、そして後が続かなかった。気まずい沈黙が流れる。

 装置はやや皮肉めいた口調で呟いた。

「やはり、機械相手だと話が弾まないか?」

「そういうわけでは、………いや、まあ、そうだな」

 加賀は顔を歪めると、無精髭の伸びた顎を擦った。

装置はたずねた。

「しかし、うちの営業マンに強く勧められたにせよ、何かきっかけはあるんだろう?」

「きっかけ?」

「君は私を持ち帰った」

「ああ、そうだな」

「無意識にでも私を試してみたいと思う、何か理由があったのでは?」

「……」

 返事がないので装置は勝手に解釈した。

「当たったか?」

 加賀はゆっくりと首を縦に振った。

「そうだな、図星だよ。図星だが、………今は気分じゃない」

「気分じゃない?」

 装置はオウム返しに繰り返した。そしてこう付け加える。

「それは、こう捉えていいのかな。君は問題を抱えているが、今、この機械装置に話すべきか迷っている、と?」

 加賀は装置の言葉を吟味し、渋々うなずいた。

「そういうこと、だな」

 装置は鼻を鳴らすと、続けた。

「君の気質はさておき、現実に問題は抱えているというわけだ」

「そうだ」

「となれば私の出番だ。少し時間は掛るかもしれないが、二人でその問題の解決策を探って行こうじゃないか」

 加賀は無言で装置を見詰めた。

「不満かね?」と、装置。

「いや、………しかし、実に典型的なカウンセリングの導入だな、と思って」

 装置は加賀の言葉を冷静に受け止めた。

「なるほど。君のように冷静な知性の持ち主ともなれば、ある程度自分の状況は自分なりに判断しているというわけだな?」

「そう。多分ね」

「心理カウンセリングの概要なんかは、読んでみた?」

「数冊ほど。………試しにね。不安の解消くらいにはなったよ」

「そうか。そうなると話が早いな。私がこれから君と始めようとしていることは大体予想が付くかね?」

 加賀は少し考え、自分の付け焼刃な知識を紐解いた。

「………まずはリレーションの確立かな?」

「いい線だね。正解だ。カウンセリングは、まず来談者との信頼関係を築くことに始まる」

「来談者? それは?」

「クライアント、つまり君だな」

「そうか。わかった」

 装置は硝子テーブルの上で八本の設置脚を鳴らした。

 そして短く咳払い。

「私が思うに君が私を選んだのは、私が機械装置だからではないかな?」

「機械?」

「そう。人じゃないって意味でね。君が抱えている問題は、誰かに話せば片付くような簡単なことかもしれない。あるいは精神科医に頼るとか」

 加賀はかぶりを振った。

「それが出来れば……」

「ウム、そういうことだね。君は他人との感情交流に、少なからず壁を作っているのかもしれない」

「感情交流っていうと?」

「それがリレーション、自他の融合感のことだ。構えのない感情交流が信頼関係を築く。どこかに書いてあっただろう?」

 加賀は、はっとして記憶を探った。

「ああ、そうだ。いや、………そうだった気がする」

 装置はそこで、小さく笑い声を立てた。

「奇妙なことだが君の場合、人間らしい感情交流そのものが、リレーションの妨げになっているのかもしれないね」

「俺が?」

 装置は品定めするように少し間を取った。

「そう。君との信頼関係は、いかに私が機械的な存在であるか、知らしめることから始めるべきかもな」

 加賀は、曖昧に首を捻った。

「俺は、……変わったケースなのか?」

「いや、私としては興味深いがね。さて………」

 装置はそこで言葉を切ると、筺体内で何かを作動させた。再び表示モニタに明滅が起きる。

「先ほどの起動の際、君に応対人格の選択をしてもらったが、君はデフォルトの(信頼の置ける年長の男性分析医タイプ)を選んだね。何か意図はある?」

「意識はしてないよ。とりあえず最初はデフォルトかなと思っただけで」

 装置は一度唸ると続けた。

「フム。何だったらデモ版を見せようか。今日は初めてだし、そう急ぐこともない。こういった治療は直ぐに始められるものでもないんだ。君が最適と思うテンプレートでスタートした方がいいと思うがね?」

「あー、そうか。……そうだな」

 そこで加賀は、空になったグラスを振って見せた。

「今日は少し、酒も入ってることだしな」

「わかった。ならばそうしよう」

 装置は同意すると、身震いした。

「まず初めに、君は今(レンズ)を装着しているかね?」

「ああ」

 そう答えた途端、加賀の視野に無数の色彩の斑点が現れ、片方向へスライドした。像のコントラストを利用した立方座標の検出である。

 ちらちらと瞬く斑点が消えると、目の前のソファに、スーツ姿の初老の紳士が現れた。

 禿げ上がった額、白いものがまばらに混ざった顎髭、スポークフレームの小振りな眼鏡。紳士は口を開いた。

「こうしてAR(拡張現実)で、君の(レンズ)に直接、シミュレーションを描画することも出来る。もちろん、君の趣向に応じてチェンジも可能」

 ARの品のいい老紳士は、スイッチを切り替えたように、白衣姿の美人女医に変わった。続いて逞しい二十代の看護師、ラフな出で立ちの同僚風四十代の男、可愛い子ちゃんタイプの看護婦と入れ替わり、最後にセクシーな水着姿の金髪女が笑い掛けた。

 ゆっくりと足を組み替え、挑発的な笑顔を見せる。

「最後のは、おまけだ」と、装置。

「だと思ったよ」 

 加賀は苦笑いだ。

 装置は問うた。

「どうかな? シミュレーション・キャラクターは?」

 加賀は首を振った。

「かえって気が散るな。必要ないよ」

 装置は、(レンズ)に映し込まれた水着の女をカットした。

「では視覚情報はなしで。………それでは次に音声情報のデモを流そう。五つのパターンで例文を読み上げるから、好きなところで右手を上げてくれたまえ」

「わかった」

「始めるよ」

 装置はあらかじめ用意された堅い例文を、五つの言い回しで読み上げた。

「カウンセリングの定義。カウンセリングとは、言語的および非言語的コミュニケーションを通して行動の変容を試みる人間関係である。一定時間、一定場所で料金をとって行うプロフェッショナルな面接を手段とする。相手に共感し、あるいは理解的態度を示すことにより、来談者を助けること。非審判的・許容的雰囲気を作ることは、行動変容の条件として不可欠である」

 言葉は五度読み上げられることはなく、五箇所に区切られ、五つの声色で発音された。その様子は、ぞっとするほど機械的で、不快な体験だった。

 装置は最初のデフォルト状態に戻り、温かみのある口振りで呟いた。

「一定時間、一定場所で料金をとって、というくだりは、今回はなしだ。君は社外モニターだからね。ロハにしとくよ」

 加賀は無言で引き攣った笑みを浮かべた。

「で? どうする?」と、装置。

 加賀は目をすがめ、鼻の頭を擦ると答えた。

「今のままでいい。あんたの声でな」

「そうか。じゃ、やはりデフォルトだな」

「ああ」

 加賀は何故だか、ほっと胸を撫で下ろしていた。装置は、その様子を見逃さなかった。

装置は言った。

「私が機械的な存在で安心したかね?」

「まあ、……そうだ」

「これが君と私の、最初のリレーションだよ」

 加賀は硝子テーブルの上で満足そうに深呼吸する装置を、じっと見詰めた。


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