第4話

 東京臨海新交通臨海線は芝浦ふ頭駅を過ぎ、レインボープロムナードに差し掛かった。

 大きく緩い螺旋の傾斜路を登り詰め、車両はブリッジの中央レーンへ。金属の枠組みで仕切られた防護ネットが高速で車窓を流れ去り、そのスリット効果が、景色をコマ落としで表示し始める。

 低く垂れ込める雲の下、東京湾の漣は、鋼色のグレーだった。


 加賀は新橋からの車中で吊革につかまったまま、十数年の月日を遡っていた。たちまち憂鬱な気分が圧し掛かり、加賀の表情を曇らせる。理由はわかりやすいものだった。妻との馴れ初めの数多くが、この場所に点在しているからである。

幸福な思い出は、時に自身を責め苛む重荷ともなる。

これから向かおうとしている、お台場の国際展示場。そこで二人は出会った。かれこれ十数年も前の話である。あの時の展示は何だったか。確かパソコンの商業ソフトの新作発表だったと思う。その頃の加賀は広告関連の仕事を、妻の清美はパッケージデザイナーであった。

互いに同じ目当てのブースに付き、説明を聞き、使えない代物だとわかって落胆したところだった。

「どう思います、これ?」

 隣りの席から押し殺した声で話し掛けて来たのは清美だった。

「ええ? ああ、………期待してたんですけどね」

 加賀は膝の上で左右の人差し指を交差させて、×印を作って見せた。清美は目を丸くして、にっこり微笑んだ。それは何処か陽が差したような、穏やかな一瞬だった。

 加賀は慌てて言葉を探した。

「同業の方ですか?」

「恐らく」

 そのまま二人は客船ターミナルから水上バスに乗って、自己紹介をした。話が弾んだ。清美は聡明で、そして美しい女だった。

 いわゆる加賀の一目惚れである。

 日の出桟橋で降りる頃にはもう、加賀はすっかり夢中になっていて、半ば強引に清美を食事に誘っていた。レストランウェディングで人気の、創作フレンチの店だった。

 海面に映り込む高層ビルの夜景が今も記憶に新しい。

 二年の交際。

 加賀洋輔二十七歳、妻、清美二十五歳の結婚。

 蜜月が流れた。

 中睦まじい夫婦生活も三十代半ばに差し掛かり、蔭りが差した。

これが六年前のローレライの倒産、煽りをくらっての連鎖倒産である。この時、日進堂では大幅なリストラが敢行されて、加賀も多分に漏れず解雇となった。

 それを期に、五か月ほどではあるが加賀は紳士服量販の販促室に在籍していたことがある。古い先輩からの口利きだった。社長室付の販促デザイン室と言うと、何だか聞こえがいいが、つまるところ、その実情は同族会社のワンマン経営であり、労働組合すらないという有様だった。サラリーマンとして、会社の主要売り上げの業務に携わることは重要なことである。しかし、ここではあくまで小売販売が主力であり、社の求める最重要は販売員に他ならない。そういった会社で社長室付デザイン室の存在は、言うにおよばずである。 

 結局、加賀は仕事が性に合わず、僅か五ヶ月での退職となった。

 これは後に人づてに聞いた話だが、このデザイン室は数年前に業績不振に伴い解散となったらしい。今ではメンバー全員が販売に回されている。社長室付デザイン室が、聞いて呆れる末路である。

 この期間に東京を離れたことで、妻の清美は仕事を失うはめになった。

加賀が多額の報酬を約束されていたこともある。しかしながらその結果は、報酬を手にすることもないまま辞めることとなった。最初の転職は誰しも、こういった結末が多いと聞く。が、しかし理由はともあれ、この失敗は多分に加賀の身勝手な性格によるところが大きい。

 清美の夫への不信は、ここから始まったと言えるだろう。

 加賀は数か月間、やることもなくぶらぶらと過ごした。

 そんなある日、日進堂の元上司から連絡が届いた。民事再生で会社を再出発させたが、ヴァーチャル・モール連続体の仕事を受け、GMSの経験のある人間を集めているという。元々量販広告が専門だった加賀には、願ったり叶ったりの申し出である。二つ返事でオッケーし、再雇用となった。

 その後は順風満帆、………とまでは行かないまでも、普通に稼ぎ、まずまずの業績も上げてきたつもりだ。


 加賀は元々生真面目な性分で、浮気やその手の野心など考えたこともなく、週末のほとんどを家で過ごしていた。ゴルフや車といった金のかかる趣味もない。清美の家族とも上手くやっていた。妻がはまっているNPОの慈善活動も黙認しているし、むしろ協力的なくらいだった。まずまず模範的で献身的な夫ではなかったろうか。

 それでも二人の間は確実に、冷え込んで行ったのである。

 音もなく忍び寄る、影のように。

 女という生き物はある意味、不合理な存在である。

 一番の問題は、子供だった。

 二人は子宝に恵まれなかった。最初はそれほど気にも留めていなかった。二人でいる方が気楽だったし、その生活を満喫さえしていた。三十代の清美が子育てに懐疑的な意見を表明していたことは事実である。その言葉を加賀は鵜呑みに、単純に信じ込んでいた。

 それがここに来て、不妊治療だの、夫の協力だのという話題に大きく方向転換したのである。

 同じ女から発せられた言葉とも思えない。実際これは、女性の内分泌の成せる技なのであろうか? 

 過分に加賀の態度にも問題はあった。実際協力的とは言えないもので、不妊に関するカウンセリングには一度も参加しなかった。夫としての言い分は、………現在の会社の経営状態から推して測る我が家の家計では、医療保健の範疇を越える治療は不可能………であるからだ。

 やがて清美の関心は夫から離れ、ぬいぐるみからペットへ、そして地域の子育て支援プログラムへと移って行った。


 いつだったか、ふと目にした雑誌記事で読んだことがある。

 四十を過ぎての夫婦の幸福度をリサーチすると、かなりの確率で夫は満足、妻は不満という統計が出ているらしい。自分もまた世間に漏れず、その範疇であったということだ。

 加賀は仕事をして妻を愛していれば、それで全て上手く行くと勝手に思い込んでいた。それは大きな誤解だったようだ。三行半を突き付けられたのは加賀の方であった、という次第。

 静かな日々が終わりを告げ、そして清美は出て行った。

 九州の実家だった。

 何度か電話を掛けたが、清美は、今は冷却期間が必要と言って、加賀が迎えにいくことを拒んだ。

 あれから二ヶ月が経つ。未だ進展はなかった。


 加賀は国際展示場正門でモノレールを降りると、中央ターミナルを抜け、西展示棟に向かった。

 中央部が吹き抜けになった二層構造の展示棟である。外光の降り注ぐアトリウム、幾何形体のパターンが描かれた広いフロアを横切ると、西1ホール前に出た。

 加賀はジャケットの内ポケットから、西島から貰ったチケットを取り出した。

 会場の入口には複数枚の偏光ガラスが組み合わさった、特殊看板がぶら下がっていた。一枚ずつのガラスは透き通った無色のものだが、重なり合うと海の深みのウルトラマリンに映った。中央には、水中に浮かんだように(ウィンター・リラクゼーションフェスタ)の文字が揺らいでいる。看板に視線を預けたまま左右にずれると、金色の波頭のような漣が、浮き出したり消えたりした。

 加賀はチケットと看板を、代わる代わるに眺めた。

 なるほど。同じコンセプトだな。

 それぞれが違う技術で、似通った効果を上げている。しかも電気仕掛けでない、連続する量変化(アナログ)のハイテクってところがイカしている。

 加賀は納得した様子でうなずいた。

 受付で名刺二枚と招待券を渡し、(Visitor)の名札をもらった。

 入って数メートルほど薄暗がりが続き、開催者の能書きが掲示されていた。(財)日本家電製品協会と(社)日本医師会の代表者の言葉。一見関係なさそうな組織だか、どこかで密接な繋がりがあるのだろう。

 会場には川のせせらぎと、小鳥の鳴き声が、立体サラウンドで流されていた。マイナスイオン的な何かも働いているのだろう。空気に潤いが溢れて清々しい。お題目のリラクゼーションに相応しい導入だった。

 加賀は特に目的もなく、会場をぶらついた。

 別にリラクゼーションに関心があるわけでなく、これで自分の悩みが解消されるなど、考えもしなかったが、また次の月曜日、西島に会った時に、話題に詰まるとまずいと思ったまでだ。

 展示会の雰囲気というのは、大体どれも似たようなものだが、ここは少しばかりムードが大人っぽい。見たところ、客の年齢層が高かった。刺激を求めている若者に、リラクゼーションはまだ早かろう。

 この手のヒーリングイメージは大体において、海や森、郊外といったナチュラルテイストのものが多いのだが、ま、さすがは家電の元締めが金を出しているだけはある。ブースや会場全体のデザイン趣向は未来的にまとめられていた。

 近未来のリラクゼーションである。

 すっきりとしたモダニズム的な直線と曲線、黒と青の煌めき。闇の中に滲むように溢れ出す、クールなブルーライトが都会的だ。都市生活者が求める癒し、そんな感じだろうか。

 タイポグラフはサンセリフでまとめられていて、ほとんどがフーツラ書体だった。バウハウスのデザイン意匠を汲むフーツラ、まさしくラテン語でいうところの(未来)である。加賀は当たり前すぎるアプローチに、若干拍子抜けがしていた。この設計立案者の意図は、殊の外わかりやすい。ブースの什器やショーケース類の持つ、角度やカーブは、書体のいずれかから抽出されたものらしかった。

 耳を澄ませると、小さく抑えられた街の喧騒に、ブライアン・イーノの『ミュージック・フォー・エアポート』が被っている。加賀は自分の好きな曲だったせいか、幾分気持ちが高揚した。

 とりあえず加賀は端の方から順に、冷やかすことにした。いわゆるマッサージ機から始まり、低周波治療器、空気清浄器、アロマポット、等々。これらは身体に直接及ぶ、昔ながらの治療機だ。

 目新しいものでは、ARによる仮想環境を使った体感システムもあった。

 スイッチ一つでハワイのビーチにも、グランドキャニオンにも行ける。これは治療器というよりも物見遊山の先端技術だろう。一、二度驚いて後は慣れてしまう。大衆のそんなのあったら? という要望にメーカーが応えたというに過ぎない。一般見識の想定内のテクノロジーだ。こうした技術が、決定的な医療の未来を切り開くとは思えない。


 ブースには何人もの美しいイベントコンパニオンが、扇情的なコスチュームを纏い、微笑んでいた。少しセクシー過ぎる? そんな気もした。この辺りも言わば、大人向けなのだろう。

 加賀が間抜け面でぼおーっと眺めていると、ブルー・マスカラのコンパニオンと目が合った。即座に、どきっとする意味深な笑顔が返って来る。加賀はぎこちなく笑い返し、ブースの前を通り過ぎた。手のひらに微かに汗が浮くのを感じた。

 これは、リラックスどころじゃないな。

 彼女たちはどこで集められてくるのだろう? 単に綺麗な娘なら、モデルクラブに頼めば幾らでも見つかるだろうが、理科系で最新テクノロジーを理解し、立て板に水で説明が出来る若い美人となると、ぐっと範囲が狭まるはず。それでもこれだけの数が集まるわけだ。

 女は底が知れない。

 昔、SNSの中で、システム・エンジニアの仕事をしながらSF小説を書き、副業にレースクイーンをやっているという女性と出会ったことがある。サイトにはたくさんの画像がアップされていた。触れ込み通りの美人だった。まあ、彼女が物理世界において実在で、何処かの変態男の悪戯じゃないとしたら、そうした人材の一人と言えるだろう。

 もちろん、実際に会ってみたわけではないが。

 ネットワーク上の匿名の存在。だが彼女の存在は、仮想的には十分なリアリティを持っていた。そう思う。


 加賀は小一時間ばかり歩き回ると休憩所に立ち寄り、これまた魅惑的なコンパニオンからミネラルウォーターのサービスを受けた。氷なしの常温だが、ミントの葉が浮かべてあって爽やかだった。

 革張りの黒いスツールでプラスチックのカップから、ちびちびやっていると、背後から呼び掛けられた。

「加賀………洋輔さん?」

「はい?」

 呼ばれて振り返り、加賀は濃紺のスーツの男を見付けた。

 薄いブリーフケースを膝の前に下げた痩せた男だった。少し薄くなりかけた頭に、整髪料でぴったりと撫で付けた前髪。細い顎。そして貼り付いたように強張った、仮面の作り笑い。血色の悪いくすんだ肌に、奇怪なほど、きらきら輝いている二つの目玉。

 奇妙なことだが、この男に関するエアタグが何一つ(レンズ)に浮かんでこなかった。受付で名刺を渡しているなら、登録されてしかるべきである。

「ああ。やっぱり」

 五十代手前のセールスマン風の男は、慇懃な身振りで加賀に近付いた。加賀はカップを置いて慌てて立ち上がると会釈した。

「どうも。加賀です」

「やっと、お会いできましたな」

 男は握手を求めた。加賀は反射的に握り返しながら、たずねた。

「こちらこそ。しかし、………多分、はじめまして、ですよね?」

 相手の顔をそっと覗き込み、首を傾げる加賀に、男は営業スマイルで返した。

「突然で申し訳ないです。ローレライの西島バイヤーにご紹介頂きましてね。今日辺り、こちらに入られると聞いたものでして」

「ああ、西島SVですか」

 加賀はちらりとチケットをポケットから引き出して見せた。男は確認し、うなずいた。

「私、クリーブ社の桐原と申します」

 桐原と名乗る男は名刺を差し出した。加賀も思い出したように鞄を探り、名刺交換を果たした。

 クリーブ株式会社・第三営業部、桐原正則。役席表記はなし。聞いたことのない会社である。加賀は眉をひそめると、名刺をあらためた。

「失礼ですが、御社を存じ上げませんね。西島さんからは何も」

 桐原は訳知り顔で同意すると、

「そうでしょうな。………ローレライの西島さんとは、ここ二、三年の付き合いになります。うちは元々設備の方の卸をやってましてね。その繋がりでして」

「なるほど」

「ローレライさんには随分お世話になってますよ。加賀さんのところ、日進堂さんは随分付き合いが古いんでしたね?」

 加賀は頭を掻きながら言い訳がましく答えた。

「まあ、そうですね。広告媒体での取引ですけど。前身のセイレンさんのころからになりますから、創業以来ということですか?」

 桐原は感服といった調子で、両手を広げてみせた。

「そいつは凄い。それはもう、硬い絆で結ばれた同志みたいなものですね」

 加賀は先日の西島との話を思い出し、苦笑いを浮かべた。

「さあて、どうですか。いつまでもそうありたい、………ものですけどね」

「同感です」

 そこで桐原は言葉を切り、話題を変えた。

「加賀さん、中はもう見て回られましたか?」

「ええ。ざっとですがね」

「そうですか。左奥の方は?」

 固めた前髪を指で撫で付けながら、慎重に投げかける桐原の問いに、加賀はピンと来た。

「もしかして、御社のブースですか?」

 桐原はきらきらした眼で、芝居掛った表情を見せ、小声で呟いた。

「最近、うちも新しい事業に手を付けましてね。卸だけだと何かと先行きが不透明ですから。それで新興のベンチャー企業と提携を」

「ほう?」

 桐原は奥を指さすと、誘うような仕草で言った。

「良かったら、観て行って下さい」

 

 加賀は桐原に連れられるまま、会場の奥へと歩を進めた。

 桐原の話によると、クリーブ株式会社はAR対応の家庭用高速無線接続機を量販に卸して業績を伸ばしたらしい。つまりここ四、五年の勝ち組ということになる。

 一つ一つ大げさな身振りで話すこの男、加賀の目には、何だか手品師の振舞いを見ているようだった。

 ブースは、あまり目立たないところにあった。大手家電メーカーに比べると、少々見劣りするブースである。

 二人が近付くと、白いプラスチックスーツのコンパニオンがカウンター・スツールから立ち上がり、笑顔で出迎えてくれた。加賀はすらりと背の高い、そのグラマラスな肢体についつい視線が釘付けになった。

白いスーツに白い髪のカツラ。その中にバーガンディの口紅と青紫の瞳が浮かび上がっている。マヌカンの言葉通りの、動くマネキンである。

 ブースに掲げた深紅の看板には、(ケルビム・メンタル・リサーチ)とあった。

 開口一番、加賀は看板を指さし、たずねた。

「どう言った商品を?」

 桐原は加賀にスツールをすすめながら言った。

「簡単に言うと医療機器ですな」

「医療機器?」

「正確にはまだ、なんですが。今のところ、認可の下りていない新技術なんです」

 加賀は桐原の未認可、という言葉が気になった。敏感に察したのか、桐原はしなやかな指使いで加賀の肩を叩き、安心させるような笑顔を作った。それからコンパニオンに合図を送る。彼女はカウンターの下から、DVDのトールケースほどの平べったい箱を取り出した。白いカウンターの上にサテンブラックの物体が鎮座する様は、何処か意味深で、否応なく興味をそそられる。

「私たちが目指しているのは臨床心理学の応用研究なんです」

 桐原が言った。

「臨床心理学、臨床心理士と言えば、カウンセリングの範疇ですか?」

 桐原はご明察とばかりに片方の眉を持ち上げた。

「なかなかお詳しいですな。失礼ですが、何かその方面に関心が?」

 見透かされた言葉に加賀はどきりとして、口ごもった。

「いえ、………ただの聞きかじりですよ」

 桐原は気付かぬ風に静かにうなずくと、加賀に問うた。

「臨床心理学と精神医学の違いってわかりますか?」

「さて、どうですかね?」

 桐原は、サテンブラックのケースを指でなぞった。

「援助か治療かという問題なんですがね。ここにはそれぞれの法的な成り立ちにも違いがあって、医師が国家資格であるのに対し、臨床心理士は文部科学省の認定する資格で、この二つには領域の区別があるんですよ」

「ほう?」

 桐原は続けた。

「一つにその資格制度の違いから、医師は投薬による治療が可能だが、臨床心理士にはそれが出来ない。そのため、臨床心理士は医療保険からの収入は得られず、相談料という形で個別に設定されているのが現状です。つまり薬理学に踏み込まず、心理アセスメントと心理療法の施術、という観点に立ってみると、臨床心理士の相談援助行為は、高度な対話型AIにも代替えが可能だと考えられます」

 加賀が聞き返した。

「AIがカウンセリングを?」

 桐原は大きくうなずいた。

「そうです。可能なんです。言うなれば、高度に自律したマークシート型の心理テストみたいな」

「そんな簡単なもんですか?」

「ま、これは例え話ですがね。………しかしながら基本的にカウンセラーの施術は、対話によって引き起こされる錯覚なのです。受容と支持、繰り返し、明確化、質問を来談者とのコミュニケーションに影響させ、それによって自身の中に行動の変容を発現させる行為。………つまり、答えを出すのはいつも当事者本人だということです」

 加賀は首を捻った。

「ウーン、そう言われてみると、確かにそうかもしれませんね。もっと複雑な、人間特有の何かがあると思ってましたが?」

「もちろん複雑なものではありますよ。だが、解析出来ないほどのものでもない。人間の心理もまた、錯覚の集成した産物と言える。………現実的な金銭面を捉えても、カウンセリングの料金というのは保険が効かない分、長期化すると結構な額になるものです。この一台で代替えが出来るとすれば、経済的だと思いませんか?」

 桐原は自信あり気に腕組みすると、テーブルの上の装置を顎で指した。

 短い沈黙。そして加賀がたずねた。

「これ、ですか?」

 桐原はにやりと笑った。

「これですよ」

 加賀は、桐原、コンパニオン、そしてテーブルの上の機械装置の順に視線を巡らせた。

 コンパニオンは、吸い込まれそうな青紫の瞳で加賀に笑いかけると、すらりと長い、形の良い腕を伸ばし、おもむろにスイッチを入れた。

 サテンブラックの平たい機械装置のパイロットランプがグリーンに点ると、小さな唸りを漏らした。

 装置が作動した。

 目の前で箱の上蓋に亀裂が入り、それが左右に開いて、複数の自在可動式の探査部がせり出した。それはまるで軟体動物の触手を思わせるものだった。何度か生物的なねじれ運動を繰り返すと、周囲を伺い、そして加賀の方へ注意を向けた。

 加賀は無意識に身が引けるのを感じた。

 展開したパネルは甲虫の翅の如く折りたたまれ、装置の呼吸に合わせ脈動している。台座は細く繊細な八本の脚によって持ち上げられ、高さを調節するようにうごめいた。

 探査部の先に光る赤いライトが、じっと加賀に照準を定めるのがわかった。

「な、何ですか、これは?」

 加賀は不気味な機械装置の作動に、露骨な嫌悪を表した。

驚きを隠せない加賀が二人の方を向くと、桐原とコンパニオンは興味津々な表情で、その一部始終を見守っていた。

 その意外なまでの熱心さに言葉を失い、加賀は黙り込んでしまう。

 桐原は固めた前髪に指を這わせながら微笑み、穏やかに答えた。

「ジグムント・ボックス。我々はそう呼んでいます。………恐らく、今あなたに一番必要なものですよ」

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