第29話
架線を擦るトロリーポール。敷設軌道を走るトラムの振動。
赤い車両は、連結された軌道全体に蔽いかぶさるように引き延ばされている。
つまり、始まりもなく、終わりもない。
無限反復のループである。
全体で一つになったトラムは、メビウスの環のねじれによって二次元的に閉鎖している。表を通り裏側へ。そして、その全体をもって、前へと律動を繰り返す。
前へ。前へ。前へ。
停滞の一コマが、次へと送られる逐次変化。
その違いは?
不明。
到達しない進行。
ウロボロス。………死と再生。
加賀とレインは、起動ОSが描き出す、連続する路面電車の幻想の中を彷徨っていた。脈絡もなく終わりもない内的ヴィジョンは、いよいよ常軌を逸してきている。ショッピング・モールであったARの様相は歪められ、委縮し、奇怪なユーリ・エフレーモフの記憶の中で刷新された。
合成された、いびつな我欲によって。
「変態の頭の中、って感じね」
レインは食傷気味に、ため息を吐いた。
指先でライムグリーンの内壁に触れると、微かに柔らかい起伏がある。合わせて、しっとりした湿り気。目を凝らせば表面に無数の産毛が生えていて、ところどころに静脈の青い筋が浮かんでいる。データグラブの温度表現が入っていたならば、三十七度前後の体温すら感じ取れたに違いない。
レインは嫌悪も露わに顔をしかめると、右手を引っ込め、ズボンの尻で拭った。
「見てよ、これ。………あいつの体毛かしら?」
「シートの方はもっと凄いことになってるぜ。白髪混じりの荒い毛並み、あれは顎髭だな」
加賀も俄かに、呆れた口振りになる。油を引いたラワン材の床板が、ゆっくりと蠕動運動する様を横目に見ながら呟いた。
「大丈夫。とりあえず座標は正常に作動しているから」
「そうでしょうとも」
オルガは、浸食されたセールデータの中で、守護天使のように振舞っていた。神出鬼没、至る所に遍在している。
立て続けに啓示が届き、加賀とレインは分割パケットを獲得していった。
三つ目の啓示は【話しなさい】。書籍売り場で見付けたのは[マザー・テレサの言葉]だった。
四つ目は【動きなさい】。スポーツ用品コーナーでナイキの[スニーカー]を。
五つ目は【思いやりなさい】で、見付けたのは介護用品コーナーの[歩行器]である。
(完全なる調和)
(完全なる美)
加賀はトラムの窓から、遠方を眺めた。覗いた景色は田舎びて、それでいて寒そうな、何処か遠い異国の風景だった。北ヨーロッパのどこか、石造りの歴史の古そうな街並みである。
歩道の隅には、取りこぼした残雪が汚らしく残っていた。狭い歩道を厚手の防寒着を着込んだ歩行者が行き交っている。街路の要所要所に立つ、アサルトライフルを構えた歩哨の姿。
トラムは川に差し掛かり、ソリッドリブ2ヒンジアーチ橋を渡った。渡り切った東詰の街路の片隅に、小さな人だかりが目立っている。数人の若い少年グループが、路上で老人を袋叩きにしていた。老人が取り落とした紙袋が石畳に弾け、砕けたガラス片とジンの滴りに変わる。
(砕けたガラス片が逆行し、ジンの滴りがボトルへと回収される)
可逆。
時間反転操作。
(老人が立ち上がり、少年たちを八つ裂きにする)
原子の飛行時間測定と位置検出。
それは合金中元素の、三次元アトムプローブによる、解析された三次元トモグラフィーと良く似ている。
そこまで来て、加賀は心中に小さなざわめきを覚えた。
胸の奥に発露した微かなしこり。どきっとする不快な差し込みに、加賀は解せないわだかまりを感じていた。
(ちょっと、待てよ)
加賀は気付いたのである。
どこかおかしい。
この啓示には、連続した別の意味がある。直感的にそう感じたのだ。何か、最近の出来事だったような? だが記憶は遠く、霞んで良く見えない。
言葉の連続性。ニュアンス。どこかで聞いたことがあるという、意味の連係。この言葉には確かに聞き覚えがある。
(霜に凍り付いた小窓)
(半エーカー裏庭)
(黒い森)
(軍用犬の遠い鳴き声が聞こえる)
音は潰され、引き延ばされて、叩きつけられたトマトの滲みのごとく滴る。
赤黒い木霊。
影が影に重なり、憂鬱な司法執行官を産み落とす。
生まれたばかりの皺の寄った黒い赤子は、まだ湯気を立てる右手で証書を取り出し、告発声明文を読み上げる。
(あなたの申し立てには、32Bの書面が必要です。次の方、どうぞ………)
指の付いた吊革が、手のひらに爪を立てる。
閃きは突然、音の記憶と共に蘇った。
君が………
……読書とは…
珍しい。………
ふいに加賀はそれを、………ジグムント・ボックスの声音を思い出したのだ。
(君が、読書とは珍しい)
それは数週間前、ジグムント・ボックスと語った、他愛無い雑談の中にあった。 幸福に至る道筋についての論議である。
(人は幸福だと自然と笑顔が出るだろう。仏教には和顔施(わがんせ)という考えがあって、その時の当人の状態がどうあれ、他人に笑顔を見せること自体が一種の布施行となる………)
ジグムントが語ったのは、そのくだりだった。無財の七施。そう呼ばれている。他人に向ける、日々の行いに問われる無償の善行。これは金も物も名誉も地位もない人間でも、布施しようという心掛けがあれば、七つの施しができるという、ことわりである。眼施・和顔施・言辞施・身施・心施………。加賀は残る二つも覚えていた。房舎施と床座施である。
【見なさい】
【笑いなさい】
【話しなさい】
【動きなさい】
【思いやりなさい】
送られてきたヒントは全て、この行鍛練実践の意味になぞらえてある。
「先生、このヒントに気付いているか?」
加賀は静かに、何処ともなく問うた。
「ああ、(無財の七施)だな」と、ジグムント。
「もしかして、先生が関わってるのかい?」
「私は関与していない。恐らくは起動ОSも、この意味付けには関係ないだろう。美島美登里がゲームソフトで行った、分割パケットの埋め込み出現確率はランダムだ。起動ОSがこの一致を導き出すことは、………数学的にあり得ない」
(長くなると縮まるもの。………それはロウソク)
じゃ、何故だ? 誰の企みだ?
これは、偶然の一致か?
わからない。
ひょっとして、起動ОSが神のようであるのか?
否。
加賀はにべもなく、そう思った。奴に神聖などない。
あるのは我欲のみである。
では、そのさらなる高みから、目に見えぬ手引きをする存在があるというのか? 自分を、答えに導くもの?
それは何だ?
(オオイナルソンザイ)
加賀はその言葉が浮かんだ途端、心臓を掴まれたように息が詰まった。
目に見えないの巨大な手のひらの上で、一人、踊らされている自分を感じる。
(長くなると縮まるもの。………それは人生だな)
「どうしたのよ、ぼんやりして?」
レインが吊革につかまり、加賀の顔を覗き込む。
「いや、………何でもない」
加賀は頭を振い、集中に努めた。
今は、そんなことにかまけている暇はない。分割パケットの回収には、美島美登里の命が掛っているのだ。自分を導いているものが何であれ、信じて行うしかない。
そう、信じて行う、のだ。
迷わずに。
(メビウスの環を模ったウロボロスが、自らを食い尽す)
特異点。
オルガはこう導いていた。
【人を迎えなさい】と。
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