第2話
茅場町の始発電車は、早朝の五時二十二分である。
加賀は痺れて朦朧とする脳髄に拍車を掛け、ホームのベンチでビタミン飲料を飲んだ。単なる気休め。これで何がどうなるわけでもない。十分ほどぼんやりしていると、到着を示す電光表示とともに、研ぎ出しステンレスとスカイブルーの2トーンの車両がホームに滑り込んだ。加賀の接続中の(レンズ)にエアタグが飛び込んでくる。
【東西線/am5:22・東葉勝田台行】
加賀は五つ目の西葛西で列車を降りた。パビリオンのようなジオデシック構造の庇付きエスカレータを下ると、まだ辺りは少し薄暗かった。東の空に朝焼けが見える。ブルーとオレンジの鈍い光線がビルの合間をすり抜け、その輪郭を曖昧に滲ませていた。加賀は終夜営業のファミレスとドーナツ屋を過ぎ、葛西方向に歩き始めた。
十一月末だというのに、風が生ぬるい。世界は確実に温暖化へ傾いているらしい。新聞の特集記事で今世紀が氷河期の終いの方だという学説を読んだが、ここのところ少しは信じる気になってきた。
加賀は環七から一つ内側に入り込んだ比較的広い通りを南に進みながら、煙草に火を点けた。
全く、………やってられん。
吐き出した煙が風に煽られ、目に沁みる。
昨晩、営業の緊急メールから騒動が始まり、この明け方に至った。加賀の勤め先である日進堂の仕事は、インターネット上にある仮想ショッピング・モールの管理運営をする制作会社である。
新世紀を迎えてこの方、相変わらず不景気を続けている日本経済は、物理的な巨大商業施設を維持することが困難になっていた。デパートやショッピング・モール、大型スーパーが軒並み、好条件の不動産から撤退を始めている。
高度に進化を遂げた通販ネットと宅配システムは、購買メソッドそのものを書き換えてしまった。日用買いの生活必需品を揃えるコンビニエンス・ストア以上のGMS(General Merchandise store:大規模小売業)の存在は無意味となった。
足を運び、手に取って選ぶ。経験を積んだ店員の、気持ちの良い接客サービス。
これこそがGMSの存在意義そのものであったわけだが、そうした消費の概念はAR(Augmented Reality:拡張現実)媒体の登場と共に陳腐化してしまった。
正確な位置座標情報によるARの表現力は、仮想現実上に(手に取る)ことを可能にしたのである。座標マーカー付き媒体を開き、データグラスで眺めると、たちまち目の前に実物大の、現物と見紛う正確な製品情報が飛び出してくる。3D映画など比較にならない、リアルな実体感だ。さらには触原色原理に基く感触情報が付加され、物理的な手ごたえまで表現可能となった。
そしてそれを後押しするように登場した、コンタクトレンズタイプの網膜走査型ディスプレイ(RSD: Retinal Scanning Display)、通称(レンズ)の普及が、現実と仮想現実の境目を限りなく曖昧にしてきた。
機材の装着感や操作ストレスを限界まで取り払うと、テクノロジーによって人間の感覚に描き込まれた疑似的な事象もまた、(現実の一部)と成り得る。我々は既に(レンズ)越しに眺める、エアタグを含めるあらゆる出来事を現実として受け止めている。
(レンズ)には表示部が存在せず、直接網膜に投射するするため、極度の弱視や視覚障害者にも有効だった。網膜の一部に損傷がある場合にも正常な部位に結像させることで、しばらくすると脳が学習して視野全体が見えるようになる。(レンズ)は水晶体調節の問題、遠視、近視、乱視、老眼によらずクリアな画像を提示可能という、画期的な特性を有していた。それは世界中の多くの視覚障害者への福音ともなった。ワールドシェア七十パーセント以上の普及率。もう後戻りは出来ない。人類の新しい知覚と認識の世界が始まったのである。
さて、そんな世の中で、営業拡大の手段を失ったGMSが、黙って手をこまねいているはずはなかった。
彼らはまず、手当り次第に店舗の売却を始めた。旗艦店舗を含む数か所を除き、大半の不動産を手放した。ついに商売そのものの鞍替えかという勢いだった。
スーパーマーケットの無くなる日が来る。誰もが、それを想像した。幼い日、両親に手を引かれ、おもちゃ売り場を歩いた、あの懐かしい思い出までもが全て消えてしまうのか。
否。
彼らは消費者の心配をよそに、さらにその先を見据えていたのである。
彼らには優れたマーチャンダイジングのノウハウがあった。さらには接客販売の長い経験と実績を持っている。
不動産が経費を圧迫するならば、店舗を無くそう。
足を運ばなくとも買い物が出来る、家族みんなで出掛けられるネットワーク・システムを作ればいいではないか。名だたる大手量販ホールディングスはGMS連合を作り、共同出資による潤沢な資金を投じてシステム開発に臨んだ。
ヴァーチャル・モール連続体。
ネットワーク中にプログラムされた、システムとしてのショッピング・モールだ。直営店にテナントを組み合わせた複合型モールを、ヴァーチャル・リアリティで再現している。
ネットからアクセスし、ARの位置座標認識技術を利用して(レンズ)に表示させる。遠く離れた場所にいるユーザーをリンクし、同一の場所に表示することも可能である。
これで出張中のお父さんも、家族サービスに参加出来るというわけだ。
それぞれが別の場所に居ながらにして、家族全員でショッピングに出掛けられる、夢のテクノロジーである。
少々、メカニカルで薄ら寒いところもあるが、人間の適応力はそれを遥かに凌駕していた。市場に現れ、僅か数年で一般化した。立ちどころに通販業界に肩を並べ、業績躍進を見せつけている。
このヴァーチャル・モール連続体の興味深い点は、ネット通販とは異なる(店舗)という概念を持つことだ。商品購入、という合理的な意味合いから見れば、全く不可解なコンセプトだが、実際にこれが有効に機能している。
システムにはネットへのアクセス経路のパターン毎に商品構成の違う、複数の組み合わせが準備されている。それを称して(店舗)と呼んでいるのである。
例えば、二十代・独身女性が単独でアクセスするとしよう。
彼女が極一般的な消費ユーザーだとすると、まず立ち上げた検索エンジンのショッピング・オプションから入るのが普通であろう。
売れ筋ランキング? あるいはカテゴリーから探す?
検索がヴァーチャル・モール連続体の一部にでも接触すると、即座に登録ユーザーの個人情報からカテゴリーが絞り込まれ、関連の強い(店舗)へ転送される。もし、ユーザーの関心事項が違えば、(店舗)選択パレットが現れるので、改めてユーザーが選択すれば良い。
個人ではなく、複数人の家族アクセスが確認されれば、今度はファミリープラン(店舗)へと接続が展開する。
半ば、やんわりとした矯正システムである。
裏を返せば、秋葉系ユーザーのアクセスを確認しながら、サブカルやゲームが省かれた、ファミリープラン(店舗)に接続するなど愚の骨頂ではないか、という見解である。
経路と個人情報。それが絞り込みの鍵となっている。ユーザーに無駄な迂回をさせず、確実に購買フィールドへ誘導する。
ヴァーチャル・モール連続体の(店舗)概念は、ネット通販とは確実に一線を画した、(効果的な無駄)として、右肩上がりを示している。
家族サービスとしてのショッピングとは、年代、性別の違う、複数人が共有する楽しみを提供することである。個人の欲望を探求する単純な趣味性ではない。つまり良い意味での標準化が功を奏したシステムと言えよう。
現在、大手量販グループによって立ち上げられたGMS連合は、友好的な連携を保ちながら、個別に独立した商品計画を元に、独自の経営展開をしている。
加賀の会社が取引先とするローレライモールでは、三十二のパターンで店舗展開がなされている。
もちろん三十二店舗分の全く異なるプログラムが存在するというわけではない。年間、月度毎の商品計画に基き、ファッション、住関連、食に至る全ての商材が(店舗)有向線分に沿って構成され、表示される仕組みなのである。(さすがは、GMS。総花だ)店舗特性を明確にする特別商材が日々追加され、複雑な細分化が進んでいる。
商材パターンは、(JAN(Japanese Article Number)ツリー)と呼ばれ、数千万のアイテム群の枝葉によって構成されたディレクトリだ。一見すると、それは(生命の樹)に良く似ていた。
(アダムとイブが食べなかった方の樹、である)
セール毎の管理は個々の制作会社が入札で割り当てられ、各々に請け負っている。
加賀の会社では直営店の総合商材管理を行っている。専門店はデベロッパー事業部管轄のため、加賀たちには手が出せない。セールのイメージPVや店舗VMD設計などもそうだ。大手の代理店が入り込んで、別の制作会社が絡んでいる。
当初は加賀の会社でもそうしたところまで踏み込んで、設計の端くれに関わっていたのだが、現在は割り切って商材管理のみに特化していた。それでも再生会社の現在の人数では、手が回らないくらいなのだ。
営業の松田が事業部で聞いて来た校正内容は、その根幹を揺るがす変更で、全(店舗)に追加される五十二アイテムの住生活商品群だった。駄目押しタイミングの導入の上、更に個別組み合わせと変動パターンときた。納品直前のディレクトリには、厳しい変更である。
内容は掃除用具だった。クリスマス商戦とは言え、年末大掃除特集の第一弾でもある。業種MDとしては、こいつは外せない、そういう理由だった。
徹夜したからと言って、仕事が完了したわけではなかった。
今日は昨晩のデータ直しのチェックがある。シャワーを浴び、一時間くらい仮眠したら会社に戻ろう。
セールの立ち日は十一月三十日(月)。最終納品は二十七日(金)である。それがサイトアップ業者の締め切り日だった。
加賀は通りを進み、煙草を丁度一本吸い終えたところで、白いL字型のマンションに辿りついた。一ブロックを占拠する大きな建物である。築二十五年の老朽物件。しかしながら元々UR都市機構の所有だったためか、しっかりした作りだ。何より部屋の平米数が四十八あって、月額十万七千円は魅力である。
加賀は四機付いているエレベータの一番西側の箱に乗り込むと、八階を押した。
エレベータホールを出て、北西に面した通路を歩く。都心部の方角が良く見通せた。川を挟んだ押上方向に、朝靄を透かして東京スカイツリーが見える。
加賀は802号室の扉の前で、コートのポケットをまさぐった。ストラップに吊るした、今時分珍しいディンプルキーが見つかる。鍵穴に通そうと左手で掴み出したところ、薬指の付け根に金属的な接触を感じた。加賀はじっと、自分の薬指を見つめた。
シルバーのそっけない指輪が、もの言いたげにカチリと音を立てる。
仕事が何より。………だが目下のところ、加賀の一番の悩みは他にあった。
「ただいま……」
放った言葉は、カーテンを閉め切った薄暗い空間へ踊り、吸収された。
返事は返って来ない。
妻が出て行ったのは九月の末、まだ残暑の厳しい折だった。
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