ジグムント・ボックス
梶原祐二
第1話
はじめに。
この小説は「月の王冠」のすぐ後に書き始めたんですが、会社で色々あって、うつ病になって、リストラされたり、新しい会社に移ったり、そこを辞めてついにフリーランスになったりした時期に書いてました。
だから、ちょっと間が空いたりして、意見も変わったりして………。そういう筆者の実生活のごたごたが色濃く表れた内容になってしまいました。
そういう人の不幸ってのは、どう描いたところでコメディにしかなりません。(自分事とは言えどもね(笑))
で、結局、心理カウンセリングを行う人工知能をとっかかりに、拡張現実を扱った、お買い物ネットワークで展開する国際スパイアクション、という、ちょっと荒唐無稽なお話になっちゃいました。
「ニューロマンサー」が世に出て三十数年。ネットワーク環境もすっかり整備された現代では、サイバーパンクもないかな、と考え、極々当たり前な広告媒体として、普通に代理店とかが仕事している、限りなく現実に近い近未来を設定してみました。
なので、かっこいいところはありません(笑)。AR(拡張現実)の部分がわずかに進んでるかな? 数年後には当たり前になっているような世界観です。
主人公は中年の危機を迎えた、離婚寸前の崖っぷち男。巻き込まれ型サスペンスの定石を踏みつつ、幸福とは何かを、手探りしていきます。
SFの要素は、やや少なめになってますが、四十五歳以上の元SFファン、みたいなすれっからしの中年読者に読んでいただきたい、アクション・エンタテインメントとして描きました(笑)。
そうそう、この小説もまたいつもの、私の得意とする、架空の近過去を背景にした、別の現在が舞台の空想小説です。
深読み禁止。他愛ないアクション・スリラーをお楽しみください。
2016 10月 梶原 祐二
カウンセリングとは、言語的および非言語的コミュニケーションを通して行動の変容を試みる人間関係である。………………………………國分康孝
大勢の人間が共有する、ぐっと来る恋物語ってものがある。それは最大公約数の共通言語で少々古めかしく、ぬくもりがあって感傷的なものだ。付け加えるならば、現実世界の何分の一か、スローモーションが掛っていたりする。
アナクロ的な抒情表現?
いやいや、そうじゃない。錯誤はしてない。どちらかといえばマッチしているのだろう。普遍的で極めて常識的な価値観は、………言うなれば、シナトラやビング・クロスビーの歌声みたいなものだ。
【視野の選択:暗室モード】
【AR:3D立体視/[強調変数1.2]】
【エアタグの表示:なし】
【動画をスタートしますか [はい]/いいえ】
enter.
暗闇。
(パーティクルとホワイトノイズ)
光が現れた。
(視界が広がって)
場所はターミナル駅のコンコース。行き交う人の、目と目が交錯する。
突如、見上げるようなクリスマス・ツリーが浮かんだ。
(めまいを引き起こす、強制的な遠近感)
優に八メートルはあろうドイツトウヒの黒々とした巨木に、思い付く限りありったけの装飾が施されている。金銀のオーナメント、イルミネーション、そしてクリスタルのトップスター。辺りは少し煙っていて、天からの恩寵の如く、美しい光のフレアが広がっている。
ツリーの意味するところを、ことさらに考える者はいまい。これは旧約聖書に出てくる(知恵の樹)のことである。禁断の果実を実らせた、ヒトの原罪のシンボル。蛇にそそのかされたイブが最初に、続いてアダムが口にした。それ以来、我々はエデンの園を追われ、死ぬことを運命付けられ、この世知辛い現世に身を置くはめになったのである。我々の毎日が辛く険しいのは、そもそもこのバカップルの悪行のせい、というわけだ。
云われは、ともかく。
コンコースの高い丸天井には、風格のある鏝絵装飾が施されており、二人の天使像が下界を見下ろしている。
視線の先には、着飾った若い女の姿が。
深みのあるバーガンディのショールカラーコートに、揃いのフェルトダービーハット。
年齢にそぐわぬ大人びた化粧が、彼女の心持ちを伺わせている。完全武装した勝負服の女は、愛する恋人の到着を待っているのだ。
十二月二十四日、クリスマス・イブ。
プレゼントを携え、穏やかな微笑みを湛えたまま、女は期待を胸に改札口へと視線を向ける。
何人もの昇降客が現れた。それぞれがそれぞれの人生を、再会の場面を演じていく。
息子の帰りを待ちわびる、何睦まじい老夫婦。
帰郷に湧きかえる若者たち。
小さな子連れの、暗い顔の中年女。
潮の満ち引きのように人波が通路に溢れては引いて行く。
複数のイメージがディゾルブされ、経過時間を表す短いトランジッションが挿入される。
センチメンタルなモンタージュ・シークェンス。まるで、五十年代の恋愛映画の風情である。
女の顔が寂しそうに曇る。
俯く横顔。揺れる星型のピアス。
女は、もう一度改札に目をやった。やはり恋人は現れない。外では灰色の空から粉雪が舞い始めている。
女は肩を落とし、ツリーを離れると、人波に紛れ、ゆっくりと歩き出した。
後ろ髪を引かれ、未練が募る。
落胆の表情をドリーショットがつぶさに捉える。
間仕切りの大きな硝子扉に、映り込んだクリスマス・ツリー。
そこでふと女は気付いた。屈折する硝子の陰影からゆっくりと現れたのは、若い男の姿だった。
微笑んだ男の口元。
女の表情がほころぶ。
目元に光る宝石のような涙。
滑り込んだ音楽はアーヴィング・バーリンの『ホワイト・クリスマス』だった。
場面は都市の喧騒を抜け、夜空へ。優雅に降りしきる雪の静寂。
何もない空間から、湧き立つように集まり、複数の文字列が構成された。
言葉は、こう繋がった。
『冬の恋人たちへ。………ローレライモールのクリスマスセール』
【接続が中断されました】
「何、ぼんやりしてるんですか、加賀さん?」
誰かに肩を叩かれたように唐突に映像が途切れた。
ツッ、ツッ、ツー、ツッ、ツッ、ツー、ジィー、………
三拍子クリックのリフレイン。
最後に挿入される、雪の結晶がモーフィングでロゴタイプに成長していく、美しいCGIが不本意に中断されたのである。デジタルパターンが行く宛てを失い、視界にランダムに明滅している。側頭骨に添えた骨伝導音響装置には不快なデジタルノイズが唸っていた。
ゆっくりと明るさが戻ると、広さおよそ百平米の事務所が目に入った。
いつもの場所。生業の拠り所。
代り映えしない光景だった。そこには中途半端に洗練されたオフィス什器が並び、暗い窓を背にデスクと端末が四列。ほとんどが中古品の寄せ集めで、まとまりのないちぐはぐさが人間臭い、これぞ再生会社という佇まいだ。ここは中央区日本橋のオフィスビルに居を構える、DTP制作会社のフロアである。
午後八時を回っていたが、フロアには十数人ほどの社員が残っていた。そのうちの半分は鋭意稼働中。残りは、まあ、いわゆる残業代稼ぎだろう。会社の経営状態がもうひとつわかっていない能天気な連中である。
制作係長の加賀洋輔は、後ろ首を擦りながらフラッシュバックのように追いかけてくる軽い頭痛に身構えつつ、声の主を睨んだ。
「 (レンズ)で接続中だよ。勝手に停止しない」
加賀は後ろ頭を掻きながら、あからさまに不満の声を漏らした。
革の肘当て付きのコーデュロイジャケットを着た、ノーネクタイの男である。アイロンを当てていないカジュアルシャツの裾はオーバーに羽織ったまま。レイヤードな着こなし術と言えば聞こえがいいが、単にだらしない、おざなりな風采ともとれる体たらくである。
長身の四十男は無精髭を擦ると、仏頂面で腕組みした。
「何か用? 美島さん?」
デスクトップ端末のモニタを挟んで、小柄な女がマウスでプログラム停止ボタンを押していた。少年のように華奢な体つきが、ぴったりしたカットソーで余計に強調されている。ショートボブに黒ぶち眼鏡(恐らくは伊達)を掛け、手にはタブレット端末を抱えている。
美島美登里。彼女は今年三年目になる、第一営業部のプランナーだ。
美島は青白い顔の口元に薄笑いを浮かべると、加賀の傍らに近付き、胡散臭そうに覗き込んだ。
「加賀さん、(暗室モード)なんかで何見てたんです? 怪しいなあ。ひょっとしてエッチなサイト、ですか?」
加賀は眉をひそめると口をへの字に曲げた。
「何、馬鹿言ってんだ。制作会社から納品されたローレライモール・クリスマスのPV」
美島はハハンと鼻を鳴らし、つまらなそうに肩をすくめた。
「なーんだ、AR?」
「そうだよ。だから(レンズ)で、確認してんでしょうが」
美島はぺろりと舌を出した。
「ごめんなさーい。……それで? どうです、出来映えの方は?」
加賀は小さくうなずくと、情報共有のため、端末のモニタに切り替えた。
「ま、いいんじゃないの。ネット広告と、そんな違わないけどね」
「別バージョンですか?」
「ちょっとだけ。見てみる?」
「ええ。是非」
二人して腕組みすると、三十秒ほどのプロモーション映像を小さなフラットモニタで確認した。美島は率直な感想を述べた。
「これって何か、昔の………なんちゃらエクスプレス、のCFそっくりじゃありません?」
加賀は美島の返答に少し驚いて、眉を持ち上げた。
「おー? その歳で知っとるかね?」
「ええ。学校の授業で。教材として」
「そっか」
「多分、曲は違ってますよね?」
「ご名答」
あのCMソングは当時、指折りのヒット曲となったのを覚えている。自分もまだ随分小さい頃の話だ。小学生くらいだったろうか。その後、何年間かシリーズ化され、好評を博した。某鉄道会社のクリスマスキャンペーン広告である。
加賀は口の端を歪めると、椅子の背にもたれ、モニタを軽く指で叩いた。
「いわゆる王道パターンだな。テンプレートってやつ。君くらいの歳の
美島は少しだけ考える素振りをした。
「ロマンチックだと思いますよ。クリスマスのシーズンの広告としてはいいんじゃないですか。気持ちがほっこりするし」
「さすがは王道だ」
「繋がらない二人の距離ってのが、いいんですよね。………でもケータイ端末だらけの現代じゃ、こんなシュチエーションあり得ないですけど」
そこで美島は、電話を掛ける仕草で小芝居を始めた。
「もしもし、あたし。今、どこ? ………ああ、俺。今、品川だから、もうすぐ着くよ。………そう、じゃあ、GPS送るわね、って感じかな」
加賀は小さく肩をすくめた。
「恋愛の風情も消えたね」
「加賀さん、こういうの、経験ありの世代ですか?」
「うーん、ぎりかな」
「へえ。………それで?」
「俺は、あくまで合理主義」
「つまんない」
そこで美島は悪戯っぽく笑った。
「加賀さん、知ってます? 女の子にはみんな、シンデレラ願望があるんですよ」 「ハハハン。それって、良く聞く話だよな。あんまりありきたりだから、俺はてっきりリサーチ会社の捏造かと思ってた」
「そうなんですか?」
「調べちゃいないけどさ。………しかし、これには需要と供給のバランスがあるはずだろ。俺も長いこと男やってきたけど、王子になりたがってる野郎ってのに出会った試しがないね」
皮肉めいた表情で指を振る加賀に、美島は即座に切り返した。
「当たり前ですよ。王子にするしないは、こっちの都合ですから。………様は女子力の問題」
加賀は苦笑いし、首を捻った。
「主導権は相変わらずですか? そこは変わらないんだよな。……しっかし君、(女子力)なんて、どこで仕込んで来た? それって、0年代だっけ?」
美島は自慢げに頭を逸らして見せた。
「私、大学ではゼミで、ロストワード類型を選んだんですよ」
加賀はペーパー書類の散乱したデスクを探り、煙草のパッケージを探り当てた。 この無意味な会話を続けるには気つけ薬が必要である。
「そいつは何、……君の趣味かい?」
加賀の問いに美島は小首を傾げ、にっこり微笑んだ。
「ええ。そうです。学生時代の私のあだ名、知ってます?」
加賀は眉をひそめ、煙草に火を点けながら首を横に振った。
「いいよ。聞きたくない。大体、想像つくし」
美島は加賀の制止などお構いなしで、楽しそうに続けた。
「人呼んで、死語ハンター」
「……んなところだと思ったよ」
美島はタブレット端末をいじりながら、くるりと目を回して見せた。
「今は仕事でも役立ってるから実益も兼ねてますよね。趣味と実益、これって仕事の理想形だと思いません?」
加賀はため息まじりにうなずくと、ゆっくりと煙を吐き出した。
「その調子でナイスな企画書よろしく」
「まかせて下さい」
会話が途切れたところで加賀は両手を広げ、疑問を呈した。
「それで? 本題は何だったわけ? まさか俺の気を惹くために、わざわざ停止ボタン押しにやって来たわけじゃあるまい?」
美島は無表情に人差し指を持ち上げた。否定するでもなく、そのままよどみなく黒ぶち眼鏡を押し上げる。
「そうそう。さっき営業の松田さんから連絡あって。ちょっと内容が複雑そうだから加賀さんの(レンズ)に飛ばそうかなって思いまして」
そう言うと、彼女が二回、一回と瞬きした。ハンズフリーの(レンズ)の起動コマンドである。この瞬きは特に決まったものでなく、ユーザーの好みでカスタマイズ出来る。中には派手に変わった瞬き設定をする女子高生などもいるらしいが、美島は年相応に常識的な範疇と言えた。要するに、彼女も(レンズ)を装着しているということなのだ。ただし、骨伝導音響装置はなし。側頭部に付けるヘッドセットのデザインがダサいからである。若い女の子の間では割と一般的な傾向らしい。通話には可愛らしいアンティーク端末を使う。電磁誘導で(レンズ)に充電出来ないのが難点だが、そこは、それ。おしゃれレディたちには些細なことだ。
じゃ、何のためのタブレット端末なんだ? 眼鏡と同じく、伊達物なのか?
着信を感知すると、即座に加賀の視界にフレームワークが展開した。コンタクトレンズタイプの網膜走査型ディスプレイ(RSD: Retinal Scanning Display)。加賀はこの便利なハイテク装置(レンズ)に、ほぼ常時接続していた。理屈は良くわからないが、低出力の光学素子で直接網膜に投射する、ハードウェアとしてのディスプレイの存在しない視覚装置らしい。
そう言われても、ピンとこない? まあ、そうだろう。
いつの時代もハイテク装置ってのは、そうしたものだ。使ってナンボ。ユーザーに作動原理がわかる必要はない。
位置座標情報によるエアタグのダウンロード閲覧、ならびに通信機能。クラウド・コンピューティング・サービスへのアクセスが自在になる。
起動したフレーム越しに美島を眺めると、即座に社員情報のエアタグが開き、空中に揺れる漫画の吹き出しのようなウィンドウが現れた。彼女に付き纏い、姿を追い駆け始める。吹き出しには、彼女にまつわる個人情報(限定開示)がつらつらと流れていた。社内、あるいはビジネスシーンにおけるエアタグ表示は、オンが一般的である。無論、若い女が、こんな個人情報をぶら下げて外回りをするはずはないので、彼女も一歩外に出れば、たちどころに非表示設定だろうけど。
別段、この娘の私生活になど興味はない。
ちょっと可愛い子、ではあるがね……。
可愛くて若いのか。若いから可愛いのか。その二つは似て非なるものだ。病院と美容院、緒方 拳と大型犬、そのくらい違う。
公正なジャッジは、如何に? ………ま、微妙なところだな。
加賀は下らぬオヤジ妄想を巡らせつつ、自動読み上げ項目から、瞬きでメール機能を選択した。続いて受信トレイの開示。美島から転送された、営業、松田のメールを開く。
「何々……?」
文面は至ってシンプルなものだった。
---------- 転送メッセージ ----------
From: nobuhiko matuda <n_matuda_@nissindo.co.jp>
日付:20xx/11/25(x)19:52
件名: Fwd:緊急連絡
To: midori mishima <m_mishima_@nissindo.co.jp>
第一営業部・美島様。
ローレライモール・クリスマス号に追加原稿発生。 ディレクトリに大幅影響あり、です!
加賀係長に転送願います。
加賀は一読すると、低い唸り声を洩らした。
「松田……、やらかしたか?」
松田が今時分、東日本事業部で校正を受けたとなると、住生活部でやられたってことを意味している。
美島は伺うような表情で、加賀を覗いた。
「何でした?」
加賀は後ろ手に頭を支えると、薄く眼を伏せ、銜え煙草の口元に諦めたような笑みを浮かべた。
「あ………、いわゆる、なんだな。今夜は、………徹夜だってことさ」
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