第15話
ターゲットと合言葉、そしてSD‐RAM。
ターゲットと合言葉、そしてSD‐RAM。
加賀の取り組んだ治療は数週間におよんだ。ジグムント・ボックスの言うところの、学習理論を基礎原理とするアサーション訓練。オペラント条件付けを導く、トークン・エコノミー法に根差したゲームは様々に条件を変えつつ、繰り返されていった。
地下鉄構内での出逢いがしらに。
時に誘拐まがいの車の中で。
ホテルのエントランス、コンビニエンス・ストア、バス停、……
様々なシチュエーションが用意されていた。この獲得ゲームの繰り返しがアサーション(適切な自己主張)訓練になるとされているのだが、実際のところどうなのだろう?
状況が変化して行く一方で、変わらないものもある。獲得報酬だ。
繰り返しゲームを行って来たが、その際自分に手渡されるものは、決まって64GBのSD‐RAMだった。それが変わったことは一度もない。加賀は手に入れたSD‐RAMをジグムント・ボックスに渡すことで、一ゲームの終了となった。ジグムント・ボックスはそれを、サテンブラックのボディにある専用スロットに挿入し、データを記録した。
加賀は一度だけ、ジグムント・ボックスには内緒で、渡す前に自分でプログラムを開いてみたことがあった。しかし、データは一般的でないソフトで書かれているらしく、判読は叶わなかった。
装置が、そのことに気付かなかったはずはない。しかしながら装置は、一度もそのことに触れていない。
加賀は具体的に、たずねたことがあった。
「なあ、あのRAM、………俺が受け取るSD‐RAMだけど」
「何かね?」
「あれには何が記録されてるんだ?」
「ああ、それは、君が受け渡しまでに掛った時間と、その行動の詳細だな」
装置はよどみなく答えたが、それは少しおかしい。
ターゲットと自分が接触するまで、RAMはターゲットのポケットにあるはずだ。その間の自分の行動を詳細に記録するなんて、物理的に無理じゃないだろうか。
いや、しかし以前、装置はこうも言ったのだ。 (少なくとも監視カメラ全般と、君の(レンズ)には常時アクセス出来る)
そうだ。体制は万全なのだ。何らかの方法でRAMに書き込む方法はあるのかもしれない。
でも、何のために?
俺みたいな、つまらない一般市民を、………それも幾分神経の参っているこの俺を、詳細に記録してどうしようっていうんだ?
加賀はため息を吐き、頭を振った。何もかもが陰謀のように思えてくる。
これって既に、初期の神経症じゃないのか? 心理カウンセリングの段階はとうに過ぎて、お次は薬物治療?
うつ、パニック障害、それとも解離性同一性障害か?
イカれている。イカれた人間の考えだ。
俺は本当に治っているのか? いや、俺はそもそも病気なんだろうか? 病気だとほのめかしたのは、結局のところ、………ジグムント・ボックスだけじゃないのか?
加賀は塞ぎこんだ表情で、ベッドの端に腰を降ろした。良く冷えた三五〇ミリの缶ビールを開ける。
落ち着け。何を焦っている? お前は大丈夫さ。
横目に鏡に写った自分の姿を眺める。無精髭を生やした疲れた顔の男。頬が落ちくぼみ、瞼に隈が出来ている。加賀は無意識に眼を擦り、その姿を脳裏から消し去ろうとした。
このことは、会社には秘密にしとかなきゃだめだ。
それでなくとも、この不景気で縮小傾向にある業界である。病気とわかれば、たちまちリストラ対象だ。今時の四十過ぎのサラリーマンの中途採用は、正直厳しい。
中堅サラリーマンの心の病いによる解雇。良くある話である。
(こんな時、清美がいてくれればな)
ふと頭に言葉が浮かび、加賀は一人苦笑いした。
馬鹿な。
問題は、そこなんだよ。何も解決していない。
何一つ。
加賀は一気にビールを煽った。心臓が高鳴り、こめかみの辺りが脈打つのがわかる。加賀はそのままベッドに仰向けに倒れた。
天井の片隅を、一匹の小さな甲虫が這いまわるのが見えた。
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