第16話

 地下鉄東西線の大手町駅からJR東京駅への接続通路は、およそ四百メートルある。

 左右に並ぶサイネージ広告の列を横目に(動輪の広場)と喫煙所が見えてくると、その先が地下北口改札となる。加賀には通り慣れた道筋であった。

 数年間ではあったが神奈川に居を構えたことがあり、横須賀線からの乗り継ぎで毎日この場所を通っていた。ここから地上に繋がる丸の内の高層ビルの名が二度ほど変わり、今ではかつてのきらびやかな商業施設が官庁買い上げの末、落ち着いた佇まいに様変わりしている。

 一九一四年(大正三年)二月竣工となる東京駅だが、長きにわたり、地下水上昇問題という、構造上条件の予期せぬ不具合を抱えたターミナル駅でもある。

 そもそも海に近い立地もあり、地下水位が相対的に高く、水位上昇によるホームの浮上が危惧されていた。かつての相次ぐ地盤沈下により、地下水の汲み上げが都の条例により禁止されたことも大きく影響しているらしい。

 東京地下駅は地下二十七メートル、最大幅四十二メートルに及ぶ巨大な構造物である。建設当初、この付近の地下水位は地下三十五メートルであったが、その後、汲み上げ規制の効果が現れて、二〇〇〇年(平成一二年)には地下十五メートルまで上昇、地下四階部分までが完全に水中に沈んだ状態となった。これは言い換えれば (地下水の海に沈んだ巨大な船)と同じことであり、当然地下駅底面には強大な浮力が作用し、あと七十センチ水位が上昇すれば床が壊れる、あるいは地下駅全体が浮き上がると予測された。

 まさに、埋設された方舟、さながらである。

 一九九九年九月には、浮上防止策としてホーム階に鉄製重りを置いたり、アンカーを打ち込む工事が行われた。

 その後、当駅から品川区の立会川まで、排水のための導水管が敷設されることとなった。結果、下水道料金負担がなくなり、同時に立会川の水量の増加と悪臭の発生防止が図れるという仕組みである。導水管の工事費用三十億円は、全額JR東日本の負担となったが、この一回の投資で年間三億円に及んでいた下水道費が削減できたのである。

 それからわずか半年後、立会川に劇的な変化が訪れた。ボラの遡上である。その様子は瞬く間にマスコミの話題となり、前年、多摩川に出現したアゴヒゲアザラシ(タマちゃん)をもじって(ボラちゃん)騒動として全国に知れ渡ることとなった。

 トンネル管理を悩ませていた地下水が、首都圏河川の恵みに変わったという、ちょっといい話である。


 加賀は通路に賑やかに展開した、週替わりの特設販売ブースをすり抜けた。胸ポケットから首都圏ICカードを取り出し、JR構内に進む。地下通路から繋がる長いエスカレータを上り、一つ上の中央通路に出た。

 ホーム階下となる乗り継ぎアクセスのための通路は、いつものように、ごったがえしていた。左右に中央本線高尾方面の一、二番線。奥に向かうに連れ、順を追って、プラットホームへ繋がるエスカレータが並んでいる。

 加賀は人波をよけ、神経質に辺りを伺うと、指定された場所へと移動した。

 そこは、往来中程にある銘品館であった。

 関東の土産物を、一手にさばく出店ブースである。白色有機ELの照明が、太い額縁のように入口を囲い、周囲を明るく照らしている。

 若い女性店員が、商品名を大きく刷り込んだプラカードを振り上げ、売り口上を叫んでいる。毎度のことながら、興醒めする光景であった。黄色いフルーツを模った、カスタードクリーム入りスポンジケーキ。東京を訪れる人間の実に何パーセントがこれを買っただろうか? 恐らくは………いや、相当数に上るに違いない。それでも尚、買え、と娘は声を張り上げる。その声色には、ある意味脅迫めいた、凄味すらあるやもしれない。

 加賀は場所を確保するように支柱に寄り掛かり、コートの前を合わせた。そして昇降客を目で追いながら、頭の中では、いつもの決まり文句を反芻していた。

(さて、今日のターゲットは? 何だっけ?)

 加賀は装置の発する落ちついた声音を思い出していた。

 ジグムント・ボックスによると、本日の目標は(以前、出会ったことのある人物)らしい。顔覚えには、比較的自信のある加賀だったが、どこまでの交際範囲なのか、くくりの広すぎるお題目である。

 加賀は、ふと考えた。

 ジグムント・ボックスと始めたこのアサーション訓練、数週間前から始めて、今日で何度目となるだろう。日本橋の美人女子高生に始まり、指折り数えて、………丁度、十二回目になる。

 加賀は閃いた。

 ジグムント・ボックスは確かこう言ったはずである。

(これから数週間の間に、私は君に十二の課題を出す)

 そうである。

 となると、今日はその最終試験ということになるのだろうか? さて? 特に事前の説明はなかったが。そう考えると、何だか急に落ちつかない気分になってくる。

 だめだ、だめだ。

 加賀はかぶりを振った。

 また、何とかしよう、の先走り根性が出ているぞ。今は、目の前のことに集中して。後の事は、まだ先の話である。

 

 しばらくして、通路の向かい側、三、四番線のプラットホームの下りエスカレータに、見覚えのある姿が現れた。

 濃紺のスーツ。薄いブリーフケースを下げたビジネスマン風の男である。歳の頃は五十の手前。少し薄くなりかけた頭に整髪料でぴったり撫で付けた前髪。それに細い顎が特徴的である。先日の国際展示場で出会った男だった。

 クリーブ株式会社・第三営業部、桐原正則。

 どうやらジグムント・ボックスの仕掛人、張本人の登場らしい。

 ま、意外と言えば以外な人選ではある。

 最終試験は案外簡単だったかな。サービス問題、とか? 

 加賀は自分の確かな記憶力に満足した。

 加賀が小さめに右手を上げ、合図を送ると、桐原はすぐさま気付いて仮面のような作り笑いを浮かべた。微笑みながら小走りに近付き、血色の悪い右手を差し出した。

「やあ、どうも。加賀さん。お久しぶりです。お変わりございませんか?」

 桐原は前回と変わらぬ、慇懃な態度で切り出した。

 加賀もそれに応えて、

「いえいえ、こちらこそ。ご無沙汰しております。その節は、色々とお世話に」   と、言い終える前に加賀は微かな違和感を覚えた。

 桐原の目線が泳ぎ、集中力を欠いたのである。

 営業マンの手本のような桐原の、こうした態度は意外であった。握った手が微かに汗ばんでいる。作り笑いがこわばり不自然に固まった。

 桐原は何か、言葉を探しているようだった。加賀はその態度が気になり、疑問を返した。

「どうかされましたか?」と、加賀。

「い、いや、別に………」と、桐原。

 加賀は握った手を離さず、桐原の胸中を探った。

 そこに被さるようにもう一人、別の人影が現れた。こちらもまた、加賀には見覚えのある、印象深い人物である。

 加賀は眉をひそめた。

(………えっ? どうして?)

 ロングヘアのボサボサ頭、無精髭、悪趣味な四角い黒ぶち眼鏡。分厚いレンズで拡大された眼球は、ある映画のキャラクターを彷彿させた。そう、『ウィニングショット』の(ハンソン兄弟)である。

 その痩せた男は、田町の待ち合わせで現れた人物だった。加賀は黒塗りの車中で交わした、マニアックな映画談義を思い出していた。

 (ハンソン兄弟)は視線も合わせぬまま、こちらに向かって近付いてくる。加賀は不思議そうな顔で、桐原と(ハンソン兄弟)を、代わる代わる見比べた。

 (以前、出会ったことのある人物)

 ジグムント・ボックスの言葉が脳裏で木霊する。どちらも同様に、以前、出会ったことのある、かなりトピックな人物である。

 加賀は首を傾げた。 ターゲットは、どっちだ? 

 ひょっとして、これって、引っかけ問題か? そう考えた矢先だった。

(パシャッ!)

 近くで何か金属的な破裂音が立った。

 同時に銘品館前の、売り向上を叫んでいた娘のプラカードが砕け散った。商品名の(東京)の部分に大穴が空いている。娘の甲高い呼びが、はたと止み、じっとプラカードを見上げている。

 加賀が視線を戻すと、桐原の背後で(ハンソン兄弟)が後ずさるのが見えた。眼鏡と髭のせいで、表情は判別出来ないが、笑っていないことは確かである。加賀の肩越しに何かを凝視していた。ごくりと生唾を呑み込んだか、喉仏が上下した。加賀は恐る恐る振り返り、銘品館の奥を見やった。

 足早に歩いてくる男が二人。

 頭を短く刈った黒スエットの二人組である。いずれも黄色いサングラスを掛けている。手前の一人が右手に持った何かを突き出した。細長いシリンダー状の器具、黒っぽい機械装置が見える。

 それは九ミリの自動拳銃だった。

(パシャッ! パシャッ!)

 消音器付きの銃口から二発。

 加賀は反射的に身を伏せた。弾丸の一発が、加賀の背にした有機ELの支柱に命中し、粉微塵に粉砕した。

「うぐっ!」

 うめき声に振り返ると、桐原の側頭部を弾丸が削り取る様が見えた。ぴったりと撫で付けた前髪がにわかに乱れた瞬間、衝突によるホローポイントのマッシュルーミングが弾道エネルギーを伝導した。裂傷面積を拡大しながら、桐原の頭蓋に致命的な損壊を与える。眼窩を貫徹した九ミリ弾は蝶形骨縁全体を破壊し、動脈溝をダメージした。

 桐原の身体は一度びくりと震え、残された右半面に引き攣った笑顔を浮かべたまま声も無く崩れた。噴水のように吹き上がる赤黒い血流が、桐原の清潔なシャツを汚し、床面に重く広がっていく。

 左の半面が吹き飛ばされる際に、背後を通る若いグレースーツの女に脳漿が降り掛かった。咄嗟にわからず、頬を撫でた右手に血痕を確認すると、女が狂ったように悲鳴を上げた。

 辺りは騒然となった。泣き叫ぶ者、大声を張り上げる者、助けを求める者。一瞬で通路は蜘蛛の子を散らすような恐慌状態となった。

 加賀が我に返った時、既に(ハンソン兄弟)の姿はなかった。

(どうなってる? これはゲームのはずだろ?)

 わけがわからず、しゃがんだまま狼狽する加賀の耳に、小さな舌打ちの音が聞こえた。顔を上げると黒スエットの二人組が目の前にいる。右手の拳銃がゆっくりと持ち上がり、加賀の頭に狙いを点けた。

 加賀は混乱していたが、一つだけ理解出来た。

(俺は、ここで死ぬのか?)

 男の指が、引き金に力を込めた。

 死を確信した瞬間、後方に白い影が接近した。何かが勢い良く振り上げられ、構えた拳銃を腕ごと薙ぎ払う。マズルフラッシュが瞬き、弾丸が天井を打ち抜いた。振り上げられたのは女性用のハンドバッグだった。長い肩紐付きの白い鞄。だが一般の女性用バッグとは明らかに異なる質量運動で加速していた。

 鞣し革の白いインバネスが丸く広がる。後ろにまとめたポニーテールが肩口で踊る。黒の大きめのサングラスにバーガンディの唇。

 加賀の窮地に飛び込んで来たのは、一人の女だった。

 バッグはそのまま外側に軌跡を描いて円運動し、その回転重力とバランスを取る向心力で身体を傾けると、女は左の爪先を軸に低い体勢から足払いを見舞った。   手前のスエットの男が、どうと倒れる。

 女はそのままの勢いでバッグを上に回すと、運動エネルギーに引っ張られ、その場に立ち直った。バッグは止まることなく女の頭上を一周し、倒れた男の胸ぐらに打ち下ろされた。

「うげっ!」

 加賀の耳にも、奥の方で砕ける鈍い音が聞こえた。回転モーメントで加速を得たバッグが男の右胸部、第九から第十一肋骨を陥没させたのである。

 一瞬の出来事にまごついた、もう一人の黒スエットが我に返った。

 咄嗟に女を自動拳銃で狙うが、だが先手を仕掛けた女の反射神経の方が、わずかに上回った。背後から繰り出される転身脚が男の右手を薙ぎ払う。赤いヒールシューズがしたたか手首を強打した。落下した拳銃が、よく磨き込まれたリノリウムの床面を滑る。女はバックスピンの体勢から身体を捻り、袖口から小さな金属片を取り出した。回転するインバネスの裾に、キラリと光るシースナイフの刃先が現れる。男は反り返るように身をのけぞらせ、寸前で刃先をかわした。わずかに遅れた顎先に、タングステン鋼が数ミリ食い込んで血飛沫が飛んだ。

「チッ!」

 仕留めそこねた女は舌打ちして身を翻した。

 腰を抜かしたまま床に座り込んでいる加賀に駆け寄ると、女は襟首を掴んだ。 「立って」

 有無を言わせぬ詰問口調。加賀は一言もなく従った。

「走る」

 二人は手を取ると中央通路に走り出た。

 駈け出すと同時に、通行人の何人かが向きを変えるのがわかった。ショルダー・バッグを担いだ学生風の男と買い物袋を下げた主婦。学生風の男はショルダーから、小太りの主婦はポリ袋から、取り出したのは消音器付の拳銃である。二人の暗殺者は立射体勢で構えると、前方を走る加賀と女に向かって発砲を始めた。

(パシャッ! パシャッ! パシャッ!)

 弾丸があちこちに跳弾した。四方から悲鳴が上がる。

「おい! 一体、何人いるんだ?」

 加賀の声が裏返った。

「黙って。さあ走る、走る!」

 女は加賀の手を引き、通路中央に位置した階下に繋がるエスカレータに飛び込んだ。身を屈めた瞬間、弾が手すりを掠め、オレンジ色の火花が散った。転がるように駆け下り、飲食店街を走り抜けた。たちまち追手の銃弾が耳元で空気を切り裂き始める。店先の支柱や看板が粉微塵に飛び散った。

 女はある程度追手を引き離したところで、柱に身を隠すと、脇のカイデックス製ホルスターから銀色の大型自動拳銃を引き抜いた。女はサングラスの奥で目を細めると、加賀に下がっていろと合図した。女は脇を締め、膝射で銃を構えた。サングラスの中ほどに緑色の光点が現れる。どうやらこのグラスには、射撃管制が仕込まれているらしい。

 エスカレータの下に、暗殺者二人の影が降り立った。

 女は呼吸を整え、二十メートルほど先のターゲットに三点バーストを見舞った。二度の反撃が轟き、通路奥のガラスケース入り(銀の鈴)オブジェが跡形もなく粉砕される。

 十数秒の攻防の末、はたと銃撃が止んだ。

 女は加賀に目配せし、サンドイッチパーラーの奥にあるバックヤードを指し示した。

 女は発煙手榴弾のプラグを抜くと、通路に転がした。オリーブ色の小さな筒が、硝子片の上をチリチリと音を立て転がって行く。七、八メートルほど離れたところでTA発煙混合物の白煙がどっと噴き出した。と同時に女に肩を叩かれ、それを合図に二人はバックヤードへ飛び込んだ。

 銃弾が煙を貫き、顔を掠める。


 どこをどう走ったか、幾つもの階段と鉄の扉を抜け、ふと気付くと地上にいた。

夕闇迫る、丸の内界隈だった。

 申し合わせたように脇道から黒塗りのバンが滑り込んで来る。女は加賀の頭を押さえ、後部座席に押し込んだ。

「出して。GО、GО、GО!」

 バンは急発進すると、都道四〇二号線を目指し、都市の暗がりに紛れた。

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