第17話

 監禁。

 加賀は椅子に縛られた状態で放置されていた。後ろ手に固定され、両足を左右の脚部に縛りつけられている。次第に食い込んでくるナイロン製フレックスカフが四肢の血の気を奪っていた。

 これが丸の内で車に載せられ、都内を延々走り回った挙句に、加賀が受けた仕打ちである。

 場所は皆目不明。

 頭にはつい最近経験したばかりの目隠しが被せられていた。残念なことに今回のは通気性が悪く、さらっともしていない。鼻を刺す、いがらっぽい悪臭が加賀の喉を詰まらせている。

(こいつは勘弁だ)

 加賀は首を捻じ曲げ、新鮮な空気を求め、もがいた。

 しばらくして、遠くから木霊する複数の足音が聞こえてきた。擦れ軋む重い金属音が響き、扉がゆっくり開くのがわかった。

「お待たせ」

  低めの、艶っぽい女の声。

  加賀は乱暴に頭を掴まれると、突然目隠しを取られた。ぎょっとして目を瞬くと、目前に筋骨逞しい大男が立っていた。自分の太腿ほどもあろう上腕から、男の体臭がぷんと漂ってくる。

 加賀は反射的に周囲を伺った。狭い暗がりである。(レンズ)は、………残念ながら【圏外】表示だ。

 光に目が慣れるにつれ、辺りの様子がわかってきた。そこは窓のない倉庫のような場所で、加賀の座った頭上にのみ、古ぼけたシェード付きの白熱灯が揺れている。影になった奥には、横積みされた四角い紙束(恐らくは書籍であろうと思われる)が、幾列も並んでいて、カビ臭いすえた臭いを放っていた。

 戸口にはもう一人、背丈の低いスーツ姿の男が立っていた。逆光のせいで表情は読み取れなかったが、そのシルエットから少々肥満気味の小男だとわかる。

 加賀の目隠しを外した、個性のないブロンドの筋肉マンは、意外にもその袋の端を整え、几帳面にたたみ始めた。無骨な上腕筋が繊細な作業をする様は、見ていて実に微笑ましい。

 ひとしきりして男が脇に退くと、そこにサングラスの女を見付けた。先ほどの東京駅での騒動の中、加賀の窮地を救ったインバネスの女である。

微かに甘い、柑橘の香気も届いたようだ。

 かなり上背のある女である。目測で一七五、六はあろう。ストレートの黒髪は後ろでポニーテールにまとめてあった。色白で小顔。引き締まった顎のラインが喉首から繋がり、形の良い鎖骨の交差の上に落ちついている。

 やや大きめのサングラスは良く良く見ると濃い深紅で、唇を彩るバーガンディと調和している。身に付けているのは鞣し革の白いインバネスである。裾と袖口に微かな茶色の飛沫が付着している。恐らくあの格闘で受けた手負いの相手のものであろう。

 女は縛られた加賀に近付くと、サングラスのまま覗き込み、バーガンディの唇に薄笑いを浮かべた。

「どう? 見た感じ無事みたいね」

 加賀は擦れた声を絞り出した。

「ああ、……はい」

 そして短く咳き込む。

 女は腰に手を当てると、小刻みにヒールを踏み鳴らした。

「生きてて良かった、でしょ? 何でもそうだけど、実感するって大事なことなのよ。そうすればあなたも平凡な毎日に、もっと感謝出来るはず。………そうじゃない?」

 上から降り注いでくる頭ごなしの女の声に、加賀は黙ったまま小さくうなずいた。

 女はさして面白くもなさそうに続けた。

「あなたについて、おおまかには調査済み。あなたがこれから口にするであろうコメント、自分は全くの無関係で、何に巻き込まれたのか皆目見当もつかない、とか何とか。………まあ、その辺りは、はぶいちゃって構わないわ」

 加賀は女のサングラスに小さく映る、自分のみじめな姿を見付けた。女は椅子の周りをゆっくりと巡りながら、思い付くまま記憶を辿った。

「あなたの名前は加賀洋輔。DTP制作会社勤務、制作係長、四十三歳。既婚者。奥様の名前は清美。あなたとは二つ違い。子供なし。過去に一度転職して、また同じ会社に再雇用されている。なるほど、スーツの会社は性に合わなかったみたいね。あなたに物売りの才能はないわ。夫婦仲は良くも悪くもなかったけど、でも最近は………。それであの展示会に行ったわけね。ローレライの家電バイヤーにチケットを貰って」

 そこで加賀は顔を上げ、うめき声を洩らした。

「ちょっと……」

「ン?」

「ちょっと待って。………どうなってる? この状態、俺の状況は? 頭が混乱してるんだ。少しゆっくりで、頼むよ」

 女は腕組みすると、加賀を値踏みするように見降ろした。

「私たちに説明の義務はないのよ」

 そこで別の方向から男の声が届いた。

「おい、あまりいじめるな」

 そう口を挟んだのは、戸口に立っていたスーツの小男だった。

「大変な経験をしたばかりなんだしな」

 光の中に進み出ると、のっぺりした極めてアジア的な顔立ちが浮かび上がった。細く小さな眼、それでいて目尻の下がった仮面のような顔だった。歳の頃は五十代半ばといったところか。しまりのなくなった身体がスーツの中で収まりわるそうに緩んでいる。

「彼に選択肢は、残されてないでしょ?」

 と、女。小男は刈り上げた後ろ頭を擦った。

「それはまあ、ね」

 小男はゆっくり近付くと加賀を見詰め、小さくため息を吐いた。

「信じる信じないはともかく。………加賀さん、残念だけど、あんたは今、国際的な諜報戦の真っ只中にいるんだよ」

「はあ?」

 加賀は呆れるほどの間抜け面で、あんぐりと口を開いた。その様子を見て、女が小男をたしなめた。

「この馬鹿に話すつもり?」

「彼の選択肢は少ないが、知る権利はあるんだぞ。君も国連憲章くらい、そらんじてるんだろ?」

「七章の四十二条だけじゃ足りないかしら?」

「武力制裁か。………穏やかじゃないね」

「穏やかな部署なら、他にいくらもあるでしょ」

 二人はしばし沈黙し、傍らの筋肉マンは興味なさそうに突っ立ったままだった。

 加賀は三人の様子を代わる代わる伺った。

 しばらくして女が口火を切った。

「いいわ。ここのリーダーはあなただし。任せる」

 小男は愛想笑いを浮かべながら、加賀の方を向いた。

「君の政治観は置いとこう。………世界は複雑なものだが、大きく捉えるなら二つの勢力に分ける事が出来る。我々は、いつもそう考えるようにしているんだ。つまり国連とそれに相対する敵対勢力だ」

 加賀は上目がちに視線を合わせると、小声でたずねた。

「どっちなんだ? あんたたちは?」

「我々は国連側だ。専門機関、関連の末端部署。小さなところさ」

「てことは、いいものの側なんだな?」

 小男は首を捻った。

「それはまあ、………どうかな? 北アフリカの近くだと、その答えは命取りだよ。善悪は相対的なものだし、多くの場合、多数決で決まっている。それが民主的な方法らしくてね」

「あんたはリベラルなのか? それとも単なる皮肉屋?」

 加賀の返しに、小男は細い眼を一層細めた。

「私の政治傾向も今は関係ない。私は国連の仕事をしている。その意味では彼らの代弁者であるわけだが、それが私の主張ってものでもない。単なる公務員だし、しがないサラリーマンだ」

「わかった。………黙って聞く。だから、わかるように説明してくれ」

 加賀は急いで付け加えた。

「特に、この状況とかね」

 小男は腕組みすると、うなずいた。

「いいだろう。………加賀さん、君はレザビア共和国って聞いたことあるかね?」

 加賀は眉間に縦皺を作り、黙って首を横に振った。

「北ヨーロッパの新しい独立国の一つだ。解放軍の起こした実力行動により、隣国の自治州から格上げとなったレザビアは、未だ不安定な暫定行政で、多くの諸外国では国家承認に至っていない。コソボやソマリアみたいな感じだな。我々の側からするといわゆる敵国となる」

 そこで小男は人差し指を持ち上げた。

「しかしまあ、敵国扱いは単に暫定行政だからというわけでもないんだ。この国の実情は政府機関と犯罪組織の間に癒着が起きて、既にマフィア国家と化している。超国家的犯罪ネットワークのスピードとフレキシビリティを、国家のみが享受する法的保護や外交官特権と結合させているんだ。北アフリカの一連の紛争に武器供与していたのは、この国の政府筋だ。大掛かりな違法薬物の密輸ビジネスに、マネーロンダリング、企業買収……とまあ、何でもありの汚職国家だ」

 加賀は不快感を示した。

「そんな国が何の様だよ? 俺はただの広告屋だぞ」

 小男は乾いた声で笑った。

「大した様じゃないさ。君は、ある都合にぴったりだった。ただそれだけ。利用されたわけだね」

 加賀は再び黙り込んだ。小男は少し間を置き、出っ張った腹を擦りながら続けた。

「お台場の展示会で近付いてきたクリーブ社の桐原正則。覚えてるだろ?」

 言われて加賀は、東京駅でついさっき起きた惨劇を思い返した。左顔面をそぎ落とされた桐原の引き攣った笑顔が、まざまざと脳裏に浮かんでくる。

「あれは、……無残だな」

「自業自得だよ。奴はケルビム・メンタル・リサーチに、レザビアからある技術の密輸入を目論んでいたんだ。現場に現れた黒ぶち眼鏡の男。あいつがその、代理人だ」

「あの(ハンソン兄弟)か?」と、加賀。

小男は聞き返した。

「何だね?」

「………いや、何でもない」

 そいつは俺が付けたあだ名だよ、と加賀は一人胸中でごちる。

「そうか。まあいい。君が田町で受け渡しした時に現れた、長髪の眼鏡男のことだ」

「わかるよ。東京駅でも見掛けた」

「やつはドサクサに紛れて上手く逃げたようだ。………そうでないとこっちも都合が悪いんだがね」

 小男は、急に思い出したように付け加えた。

「そうそう。東京駅でもそうだが、田町の時も彼女が護衛に付いていたのがわかったかね? 車の運転手だよ」

 そう言って小男は、女の方を顎で指した。

女は冷たく微笑むと、加賀の顔を覗き込み、サングラスを降ろして見せた。見覚えのある青紫の(レンズ)が覗く。加賀は即座に白いカツラとプラスチックのスーツを思い浮かべた。その扇情的な容姿を。

「リラクゼーションフェスタにいた、コンパニオン……」

 加賀が思わず声を上げると、女は面白そうに呟いた。

「やっと思い出してくれた? 反応が悪くて、がっかりね」

 加賀は無理矢理、女から視線を逸らすと、小さく咳払いした。小男は続けた。

「我々は数カ月前から、クリーブ社の不審な動きに注目していた。中堅の設備会社が外の同業他社と提携するのは良くある話だが、桐原の動きは端から怪しかった。知的財産の国外への持ち出しは、国ごとに厳しい法規制があるものなんだ」

「レザビア共和国も漏れなく?」と、加賀。

「もちろん」

「武器は何でも売ってくれるんだろう?」

「武器より儲かる話だったら、どうだ?」

「……なるほどね」

「あの眼鏡の男、(ハンソン兄弟)か。通り名はカトーだ」

「かとう、何がし?」

「ただのカトーだよ。カトーたちのグループは北欧にコネクションを持つ、いわゆる(輸入業者)で、手広く取り扱い品目を広げた故買屋だ。レザビアとは、経営不振だが可能性のある企業をバーゲン・プライスで買い取る仲介で、ちょくちょく顔を出していた。それが数年前から逆ルートにも手を染めるようになったんだ。つまり、レザビア国内の優れた研究実績を海外投資に売り込む。最近は個人の研究家と直接取引して、最新のハイテク分野にも及んでいたようだ。ベンチャーへの投資を始めていたクリーブ社は、何か業界の革新となる技術を探していたんだろう。無名の研究家の実績を安く買い叩いて、その応用技術を下請けに開発させる。そんな腹積もりだったらしい」

「でもケルビム・メンタル・リサーチには、あのジグムント・ボックスがあるじゃないか?」

 小男は曖昧な表情で首を縦に振った。

「まあ、あの技術も面白いとは思うがね。………AIの応用研究はどこもが、しのぎを削る先端技術だ。競争が激しいのは言うまでもないだろ。旨味の少ないフィールドだよ。………だからこそ、カトーたちが何かを売り込んだんだ。何か、画期的な先端技術をね」

「それは、何なんだ?」

 小男は臆面もなく肩をすくめた。

「さあ。それはわからない。わかっているのは、君がジグムント・ボックスと一緒に治療と称しておこなった十一回の取引だ。行動療法だとか、トークン・エコノミー法だとか言って、まんまと乗せられた君の取引さ」

 加賀は即座にあのSD-RAMのことを思い浮かべた。その様子を見て、小男が小さくうなずいた。

「あのチップだよ。あの中に恐らく分割暗号化されたプログラムが入っていて、その回収作業のためにジグムント・ボックスが君のカウンセリングをやっていたというわけだ。君は知らぬ間に運び屋にされていたのさ。桐原は直接取引の危険を冒したくなかったんだろう。国外から密輸品を持ち込むカトーたちとの接触は、全て君に代行させた」

「でも、……どうして? あんなことに?」

 小男はため息を吐いた。

「途中までは問題なかったんだろう。我々もこの監視ミッションは、さほど重要視していなかったしね。だがレザビアの情報部が動き出した。国内の無名の研究家から流出した情報は、実は故買屋が取引出来るような安い買い物ではなかったらしい。それにレザビア側が気付き、回収に乗り出してきたということ。我々はそう見ている」

「それがあの、銃撃戦なのか?」と、加賀。

 小男はうんざりした様子で同意した。

「情報局員とはいえ、下請けはマフィアだからね。即断実行の連中だよ」

「まるでコーザ・ノストラだ」

「そいつは映画の見過ぎだな。しかしまあ、………五十歩百歩かも」

 加賀は声を潜めて小男にたずねた。

「日本の警察は、どうなってる?」

「公安の外事情報部とは連携している。だが、主導権は我々に委ねられた。メディアは遮断で、極秘捜査を進めよ、との通達だ。彼らは情報収集に徹するらしい。何か後ろ暗いことでもあるのかもしれんが、実働部隊の我々としてはそこまで。これ以上は内政干渉になるしな」

 小男は思い付いたように付け足した。

「そうそう、君の部屋にいた、あの機械。ジグムント・ボックスは回収させてもらったよ。だが、もぬけの殻だった。筐体内は、ランダムデータが上書きされ消去されていた。オリジナルはネットワークの彼方さ」

「探し様がない?」

「現在、専門部署で調査中。もし君の(レンズ)に、アクセスしてきたら教えてくれよ」

 そこでサングラスの女が割って入るように言葉を足した。

「つまり、レザビア共和国は回収に血眼になってるし、その問題の先端技術の内容はわからず、一番把握をしているであろうAI、ジグムント・ボックスはネットワークの彼方に逃亡中」

「待ってよ、まだケルビム・メンタル・リサーチもクリーブ社にも、関係者はいるんじゃないのか?」

 そうたずねた加賀の言葉に、二人は意味ありげに顔を見合わせる。

 小男の方が言った。

「いいかい、君が東京駅で襲われた同時刻、都内では大規模な火災が起きたんだ。オフィスビルが三か所。二か所は想像付くよな。残り一か所は中央区。あんたの会社だ。報道関係は今、それで持ち切りだよ。そろそろ、テロの話になってきてる。(レンズ)の遮断を解いたら確認してみるといい」

「そんな……」

 加賀は言葉を失った。小男は続けた。

「それからもう一つ残念なお知らせだ。江戸川区でボヤ騒ぎがあった。こっちは大したニュースになってないけど。マンションの一室が全焼。………君の住まいだよ」

サングラス女は、笑み一つ見せずに付け加えた。

「だから加賀さん、あなたがこの場から私たちの護衛なしに一歩でも外に出れば、どうなるかわかるでしょ? ………たちまち、よ」

 小男は同意を示した。

「確かに選択肢などないな。………君は我々に協力する以外ないんだ」



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