第8話

 ジグムント・ボックスと始めた訓練は、実に奇妙なものだった。

 学習理論を基礎原理とするアサーション訓練。オペラント条件付けを導く、トークン・エコノミー法に根差したゲーム? らしい。

 と、言われたところで、さっぱりわからない。加賀はネット検索を掛け、言葉の意味を確かめた。

 ここで取り上げられている条件付けの理論というのは、ロシアの生理学者イワン・パブロフの発見した反射行動のことである。いわゆる(パブロフの犬)の実験だ。

 犬に食物(無条件刺激)を与えると、生理的唾液(無条件反射)が起こる。そこで食物を与える時に常にベルの音(条件刺激)を出すようにすると、そのうちにベルの音だけで唾液 (条件反射) が出るようになるらしい。これが古典的条件付け、レスポンデント条件付けというものだ。

 これをさらに進めた研究が、エドワード・L・ソーンダイク、バラス・フレデリック・スキナーによって提唱されているオペラント条件付けである。

 ソーンダイクは(猫の問題箱)で説明している。

(犬に続き、今度は猫である)

 空腹の猫を箱に入れ、箱の外に餌皿を置いた。猫は餌にありつくために、扉に付けられた機械仕掛けを操作し、偶然一つの紐を引いて外に出て餌を食べることが出来た。これを繰り返すうちに仕掛けを学習して、外に出て餌を食べられるようになったのである。これを思考錯誤学習という。

 自発された行動直後の環境の変化に応じて、その後の自発頻度が変化する学習。

 これがオペラント条件付けである。

 このようにオペラント条件付けとは、ある場面である行動をすれば報酬を与えるという操作を繰り返すことで、その場面で特定の行動が起きるようにすることである。この学習理論を用いた治療技法が、トークン・エコノミー法で、ジグムント・ボックスはこの訓練法をゲームとして実践するつもりらしい。

 何だか、実験動物にでもされた気分である。

 加賀に与えられた課題は、次の通りだった。

ジグムント・ボックスはこれからの数週間、十二回に渡って課題を用意しているらしい。ルールは簡単である。

 まずジグムント・ボックスが加賀に対し、ある指令を出す。何日の何時何分に、何処そこの場所へ行き、指定の人物を待て。相手は向こうからやって来ることもあれば、探し出す必要がある場合もある。(その難易度はその都度変化するらしい)指定の人物は、もちろんケルビム・メンタル・リサーチが準備した人間だが、加賀について詳しくは知らされていない。なので、うまく交渉して(荷物)を手に入れる必要がある。

 交渉の際に相手に伝える内容は、

(ドクター・ジグムントの依頼で来た)

(私は代理人である)

(荷物を預かりたい)

 この三点である。

 カウンセリング治療の件、クリーブ株式会社の件には、一切触れてはいけない。もちろん他言無用。これがルールである。

「まるで探偵稼業だな」

 加賀はそう感想を述べた。

「近い線だよ。どうせやるなら、面白い方がいいだろう?」

 と、装置は答えた。

 加賀が出会う人物から受け取る(荷物)がトークン、獲得報酬となる。それをジグムント・ボックスに渡せば一ゲームの終了。その都度の偶発状況から、手に入れるための行動を起こすこと。それがアサーション訓練へと繋がるらしい。

 本当にこれに治療効果があるのか、正直疑わしいが、ま、面白そうではある。

 何より加賀は密かに、この装置に親近感のようなものを感じ始めていた。二度目の面接で装置が発した、たった一つの言葉が、加賀の心にはいつまでも残っていたのである。

(夫婦の問題が、片方だけってことはないものだ)

 この数カ月、大勢から責め立てられてきた加賀が、久々に貰った支持の言葉だった。高度なAIのエリザ効果とわかっていても、今の加賀には滲みた。それは秘密を共有する相棒を得たような、そんな気分だったのである。

 

 東京メトロ・日本橋駅に到着した加賀は、B3Fよりエスカレータを登り、B5出口に向かう改札へ急いでいた。

 時刻は午後六時十五分。指定された刻限まであと十五分ある。

 会社の出がけに客からの電話に捉まり、少々手間取ってしまった。最寄り駅なのだが、あまり利用しない通路なので少々自信がない。

 加賀はハンズフリーの瞬き選択で(レンズ)に指示を出した。自動読み上げ項目からマップ検索を選び、(東京メトロ日本橋駅構内図)を選択する。即座に加賀の視界に3Dの透視図が差し込まれた。三層に並んだフロア構成。最下層の東西線のホームを中野方向に進み、二つ目の長いエスカレータを登る。銀座線フロアを通過。第一層・B1Fに出るとバリアフリー移動経路を左に曲がる。正面にエレベータが見えるはずだ。

 加賀が改札を抜けると、エレベータを挟んだ位置に、駅構内と接する形でコーヒーショップが見えた。付近に漂う芳しいエスプレッソの香りが鼻をくすぐる。


(コーヒーショップの改札内側の席で待て)


 ジグムント・ボックスはそう言った。

 初めてのゲームである。

 加賀はカフェ・アメリカーノのホットを頼み、早速、改札内に面した席に向かった。塗装されていない研ぎ出しステンレスのスツールとテーブル。銀色の手摺りを挟んで、内側がすぐ構内になっている。席は二つあり、そのうちの一つは、黒服の品のいい老婦人が陣取っていたので、その隣りを押さえる。

 加賀は薄いブラックコーヒーを啜りながら、エスカレータから流れて来る、昇降客に注意を向けた。

 夕方のラッシュ時にぶつかっているためか、二つの地下鉄から吐き出される乗客の波は途切れることがなかった。移動中、もしくは運が良ければ帰宅途上のサラリーマンたち。男も女も皆、疲れた顔をしている。自分もこの一員だと思うと気が滅入った。

だが、今日の自分は少し違うはずだ。

 ここにいるのは仕事のためではない。日常に付け加えられた新しい側面、臨床心理カウンセリングの治療である。トークン・エコノミー法によるアサーション訓練だったか。もうひとつピンと来ない話だが、変化があるのは好ましいことである。

 加賀はカップをテーブルに置くと、両手を擦り合わせた。

さて、ジグムント・ボックスが指定した人物は誰だったか? 

 学生。そうだ。


(美人女子高生を探せ)、である。


 機械にしては、なかなかに気の利いた提案ではないか。

 加賀は時間を確認した。(レンズ)の視界、右上方に浮かぶデジタル表示が、午後六時二十二分を示している。

 加賀は鞄から赤い革表紙を付けた文庫本を取り出し、時間潰しに開いた。コーヒーカップを傾け、さりげなく視線を落とす。別に読む風でもなく、手持無沙汰なので、ただそうしたまでだ。

 ジグムント・ボックスはこの件は他言無用と言った。自分だって、こんな治療を始めたなんて人に知られたくもない。しかし、現実とは皮肉なもので、こういう時に限って思わぬ知人に出くわしたりするものなである。まさしく今も、その時らしい。

目の前のエスカレータを、営業の松田信彦が登って来るのが見えたのである。

 加賀は僅かに文庫本を顔の方に持ち上げたが、時既に遅しだった。松田は笑顔で右手を振りながら、近付いて来た。

「加賀さーん」

 茶髪のツンツン頭の若い営業マンは、男前の日焼けした顔に、白過ぎる歯を光らせて笑った。絵に描いたような営業スマイルだ。これが業績に直結すれば、ホント言うことなしなのだが。

「おう。松田」

 加賀は眉を持ち上げ、作り笑いを浮かべた。

「どうも」

 松田は加賀の前で立ち止まると、手摺りにもたれた。

「加賀さん、今日はもう退けですか?」

「今週は大きな動きはなしだろ?」

 松田は苦笑いした。

「そうですね。それが問題なんですけどね」

「まあな。お前も休める時は休んどけよ」

「はい」

「今日は? 集合日じゃないよな?」

「ええ。ローレライじゃないですよ、今日は。新規に」

「ほう。新規か。そりゃ結構」

 加賀は相槌を打ちながら、松田の背後に目を配った。まだ学生は出てこない。

「何処だい?」

「外資系の製薬会社です。でも駄目でした」

「薬品のデータベースか? ウチじゃ無理だな。ノウハウがないし、薬事法管理者を雇う余裕もない」

「ええ、まあ。そういうことでしたよ」

「だろうな。そりゃ、良かった」

 松田はあからさまに顔を曇らせる。

「加賀さん、嫌だな。端からボツって良かったみたいな、そんな言い方やめて下さいよ」

「向かない仕事を無理にやっても破綻するだけだ。そういうの頑張ってるとは言わないよ」

「加賀さん、冷め冷めですね」

「俺が熱かったためしはないさ」

「昔はそうじゃなかった。でしょ? 聞いてますよ」

「誰の話?」

 加賀が眉をひそめると、松田は悪戯っぽく笑った。

「一部の支持者から。………内緒です」

 加賀はうっすらと目を細めると、松田の背後を伺った。女子学生が二人通り掛かったが、違うと判断した。主観的な意見だが、彼女らは(美人女子高生)の範疇にない。

一応、客観的にも、だ。

 松田は少し態度を和らげると、加賀にたずねた。

「それはそうと、加賀さん?」

 ええい、話の長い奴だ。加賀は痺れを切らし、思わず顔が引き攣った。

「何でございましょう?」

 松田は男らしい外見に似合わず、もじもじしている。何だか気色悪い。

「あの、加賀さんて、美島さんと親しいんですよね?」

「美島? 美島美登里? ああ、まあね。仕事でな」

「そうですか」

「で?」

「………いやいや」

 と、照れる松田に、加賀はピンと来た。

「ハハン、何? 関心あるの、松田? 美島さんに?」

 松田の顔が、にやけて崩れた。

「そう言われると元も子も。………ちょっとどんな娘かなー、と思ってまして」

 加賀は顔をしかめた。

「俺に聞くなよ」

「まあまあ、そう言わずに」

「彼女、彼氏いるよ」

「そりゃまあ、そうでしょうね」

「押しの一手か? どうかな、ツンだけ女だぞ」

「加賀さん、それを言うならツンデレ」

「いやー、俺にはデレは見せねーから。未確認情報だな」

 そこで加賀の目は、登りエスカレータに吸い寄せられた。

 現れた。

 ストレートロングの黒髪の美少女だった。グレーのダブルスーツに、タータンチェックのミニスカート。周囲を圧倒する、底知れぬアイドル・オーラが出ている。

 一瞬、ちらりと視線が合った。間違いない。

「加賀さん、彼女の好きそうなものとか、趣味とか知りません?」

 松田は相変わらずにやにやしながら駄弁っている。

 ああ、松田を、この邪魔な男を、どうにかしないと! 

 加賀は緊張を隠し、何とか話しを合わせた。

「そうだな、………彼女、ペネロペ好きだぞ」

「ペネロペ? 何です、それ?」

「フランスの絵本のキャラクターだよ」

「はあ」

 その時人ごみに紛れ、女子高生が近付いて来た。確実にこっちに向かって来る。

 くそっ、もう間に合わない。

「それと………」

 加賀は上の空で続けた。

「それと?」

「(死語ハンター)だ」

 咄嗟に加賀はコートのポケットに手を入れた。

 一か八かである。

 ライターを取り出す振りをして、上手い具合にハンカチを落とした。ハンカチはふわりと拡がって改札内に落下する。

「あの、すいません。落としましたよ」

 鈴の鳴るような軽やかな声音。

 すっと少女の小顔が、目の前に迫った。にっこりと微笑んだ桜色の唇が見える。手には加賀のハンカチを握っていた。横にいた松田の表情が、呆けたように虚ろになる。

「どうも」

 加賀がハンカチを受け取る瞬間、少女の手がコートのポケットに、何かを投げ込むのがわかった。

 少女は小さくお辞儀すると、さらさらの髪を揺らし、風のように通り過ぎた。シトラスの微かな残り香が後を引く。

「うひょー、可愛いー。足細―」

 松田は、露骨な口笛を鳴らした。

「世の中、あんな可愛い子もいるんですねー」

「そうだな」と、加賀。

 加賀は手のひらから汗が引いて行くのを感じた。

「それで? 何でしたっけ? (死語ハンター)?」

 どうやら松田の話は、まだ続いていたらしい。加賀は平板な言葉で繋げた。

「ああ。そうだ。彼女に会ったらビンテージ物のギャグとか、かましてみなよ。何か、そっち方面に興味あるらしいぜ」

「そっか、ちょっち不思議ちゃんなんすか? 彼女?」

「いやいや、作りじゃないか? 外見に騙されるなよ」

 松田は白い歯を見せて笑うと、爽やかに言った。

「加賀さん、アドバイスありがとうございます。早速、戦略考えてみますかねー」

「ま、頑張ってな」

 そこで松田は、きょろきょろと周りを見回した。

「ところで加賀さん、こんなところで、誰かと待ち合わせですか?」

 なんて間の悪い野郎だ。加賀は笑顔を崩さず、肩をすくめて見せる。

「まあ、待ち合わせというか、何というか、………あったんだが、もう終わったみたいだな」

「はい?」

 加賀はコーヒーカップを松田の手に押し付けた。

「飲み掛けで悪いけど。やるよ。………じゃ」

 加賀は立ち上がると松田の肩を叩き、そそくさと高島屋方向へと歩み去った。

 一人取り残された松田は、きょとんとして、コーヒーカップと加賀の後ろ姿を代わる代わる眺めた。

「ちょっと、加賀さーん」


 加賀はデパートのトイレで個室に籠った。

 急いでコートの右ポケットを探る。

 ハンカチに紛れて現れたのは、ブルーの平べったいメモリーカードだった。加賀はそれをつまみ上げ、しげしげと眺めた。64GBのSD‐RAM。

 獲得報酬はデータ? 

 加賀は首を傾げた。

 一体、何のデータだ?

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