第9話

 ユーリ・エフレーモフは、朝の身支度を済ませると、石炭ストーブの上で沸き立ったポットで、お茶の用意を始めた。

 角の丸い古風な冷蔵庫から、半分ほど空になったブラックベリー・ジャムの瓶を取り出す。毛むくじゃらの太い指が蓋を回し、中に落とし入れた短いステンレスのスプーンでペーストをたっぷりすくい取ると、紅茶の中に落とした。べたついた指を舐めながら芳しい香気を吸い込む。今日のフレーバーはアールグレイだ。

 近くの食料品購買所でまとめ買いした安物のティーバッグだった。ラベルもない工場直送のアウトレットものである。いわゆる理由あり商品なので、適当な種類が適当な数収まっている。確か一袋五〇束入りのお買い得品だった。果たしてアールグレイとブラックベリー・ジャムの相性が適切かどうか疑問の残るところだが、そうしたことが敏感にわかるほどユーリの舌は肥えていない。

 ユーリは書斎の一つきりの窓を開けた。寒気を防ぐ、厚い二重ガラスの窓枠が開くと、氷点下の外気が滑り込んだ。たちまちカップから立ち上る湯気が凍り付き、みるみる温度が下がっていく。ユーリは両手でカップを抱え、一口二口啜りながら、晴れ渡った青空を見上げた。朝の陽光が照らす半エーカーほどの裏庭は、音もなく霜に凍り付き、プラチナプリントのごとく静止している。

 ユーリは初老、五十代後半のがっしりした男だった。高い額は既に薄く、後頭部まで禿げ上がっている。ざっくりしたジャカート織のセーターに、ひざ抜けしたコーデュロイ・パンツ。足元は角の擦り切れたコンバースのバスケシューズを履いている。

 ユーリは眉間に皺を寄せると、ぶつぶつと何事か呟いた。

「長くなると縮まるもの。………それはロウソクだ」

 空気の入れ替えを終えると、ユーリは手早く窓を閉めた。差し込む光芒に埃が渦巻き、黄金色に輝いている。

 部屋の正面には黒板、そしてデスクとソファ。左右の壁面は古いスチール製キャビネットが覆っている。色とりどりのファイルの背表紙が乱雑に顔をのぞかせているのが伺えた。サイドテーブルには、かなり旧式のパーソナル・コンピュータがケーブル接続されており、無駄に大きい外付HDDも設置してあった。

 ユーリは白いものの混じった無精髭を擦りながら、デスクに散らばったレポート用紙を探った。数ページめくり、満足そうに指で叩く。ユーリは視線を上げると、空中を漂う、光る埃の振舞いをじっと眺めた。

 原子の飛行時間測定と位置検出。

 合金中元素の、三次元アトムプローブによる、解析された三次元トモグラフィーと良く似ている。

 それは電界蒸発現象を利用せずに多重検出させた、元素マップのことだ。

 

 世界の存在は、目に見えぬ小さな構成物の位置配列によって成立している。

 原子の位置と運動量。

 これが時間的な発展性をともなうことで、世界というものが存在しているということは、現在その瞬間の全ての物質の力学状態と力を知ることで、過去も未来も、永久的な状態を算出出来ることになる。

 これは十九世紀的な因果的決定論の言い分。古典物理学的世界観である。

 例えば、現実nの状態を理解するためには、(n-1)の結果を知れば良い。そこには因果性、順序性、連続性が成立するからだ。

 では、現実nの100ステップ先は、どうなるのか? (n+100)なのか? 

 否。

 そうはならない。(n-1)が現実nを導き出しても、その因果性が、100ステップ先まで繰り返されるということは不確定だからだ。因果関係がわからず、間違った順序で、不連続な状態と言える。(n+100)の状態を導くには、やはり(n+100)-1の結果を知る必要がある。

これが不確定性原理の支配する、量子力学的世界観である。


 これが現実。

 そうだ。

 現実は、少しも美しくない。

 

 ユーリは小さく顎を引いた。

 

 この世界に、ユーリは少しも魅力を感じなかった。曖昧で揺らぎ易い、複数の紐のようなものだから。

 まるで、あやとりのエッフェル塔である。

 ユーリが想定したものは、未来と過去を繋げる、長く堅牢な橋のようなものだ。

 ある瞬間を切り取れば、その前後が同一の因果律によって作動するシステム。完全なる決定論が支配する、原子の位置と運動量。

 その中では全てが、あらゆるものを包括する原子総体の、因果連続性の中で存在している。

 完全なる調和。

 完全なる美。

 

 ユーリはお茶を飲み干すと、カップの底に溜まったブラックベリーの果肉を指でこさいで舐め取った。えぐみのある甘みが口の中で後を引く。

 ユーリはもう一度、渦巻いている埃に目を向けた。

 

 決め手は、原子の飛行時間測定と位置検出、だ。

 

 世界の全てを測定することは出来ないが、パターン構築することは可能だろう。

 自分には、それが出来る。

 数学的に完全な、揺るぎない理想郷、エリュシオンである。神々に愛された英雄達の魂が暮らす世界だ。

 

 ユーリはソファに腰を下ろすと、セーターの裾で濡れた指を拭った。サイドテーブルのコンピュータに手を伸ばし、起動ボタンを押す。古臭いジングルが鳴り、相応の起動画面が立ち上がる。ユーリはメールソフトを立ち上げた。

数週間前に届いたメールだった。当局の監視を掻い潜る、特殊な偽装を施されたメールである。複数の囮を経由し、届けられたものであろう。

 一つはっきりしていることは、遠いアジアの島国に、共通の理想を求める同志がいるということだった。ユーリには、それが嬉しかった。

 同じ調和と美を信奉する、同志である。

 

 ユーリはCRT画面を見詰めながら、ため息を吐いた。

「長くなると縮まるもの。………それは人生だな」


 高く青い空の下、白く静止した裏庭は、ユーリの目に醜悪で不完全な構造物として映っていた。


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