第31話
雨。
土砂降りの雨。
赤黒く、どろっとした、………重たい滴り。
血の雨。
起動ОSからのメッセージ、【人を迎えなさい】は、四階フロアの婦人服飾、傘売り場で見つかった。小さな、三つ折りの折り畳み傘である。キーワードを確認し、分割パケットをオンラインストレージにアップする。
【人を迎えなさい】は、(無財の七施)の房舎施に相応している。房舎施(ぼうしゃせ)とは、自分の家や、自分の場所を無償で提供すること。温かく自分の家に迎えたり、雨宿りの場所を提供することを意味している。
加賀とレインは傘売り場のディスプレイの前に佇んでいた。
本来ネットワーク中のAR展開ならば、売り場にはVMDが起動していて、降りしきる拡張現実の雨の中を、カラフルな傘たちがワルツに乗って踊る、華麗なイリュージョンが展開するはずなのだが、今現在、加賀とレインが目にしているのは、この世の地獄絵図とも言えそうな光景だった。
二人の頭上には、数百リットルの血の雨が降り注いでいる。落下する血のシミュレーションに、実際に濡れる事はなかったが、お互いの姿は目を覆う惨劇の様相だった。
「あなたの格好、凄いことになってるわよ」
額から流れ落ちる流血に真っ赤に染まったレインが、血だるまの加賀に呟いた。
「そりぁ、お互い様だろ。知らぬが仏さ」と、加賀。
手のひらに落下する、滝のような圧力が重い。
「ほんとに成仏しちゃいそうな勢いね」
そう言ってレインは、頭上に浮かんだオルガの姿に目を向けた。オカルト映画さながらに空中浮遊を見せるオルガは、この赤黒い土砂降りの中でも涼しい顔をしていた。彼女を取り囲む、直径二メートルほどの同心円が、その滴りを遮っている。
まるで透明な球体の傘に守られているようにである。
オルガは灰色の眼を細めると、唐突に空間から姿を消した。
同時に深紅のスコールが止んだ。
初めから何事もなかったかのように、すっぱりと、綺麗に、跡形もなく。
表示映像に混乱を来たした傘売り場は、エラーしたままのマンデルブロ集合のフラクタルを投影していた。
ユーリ・エフレーモフの記憶が描き出す、地獄の遍路も、そろそろ終盤に差し掛かっている。メッセージに導かれる、埋め込まれた分割パケットの宝探しは、ついに六つ目の獲得に至っていた。
残るは、ただ一つである。
「よし、最後の一つだ。そろそろファイナル・アンサーと行きたいね」
レインが神妙な面持ちで加賀にささやいた。
「決着が着くかしら?」
「そう願いたい」
加賀はフロアマップを開いて、オルガの姿を検索した。
今現在、このセールデータ内で起動しているアバターは、我々二人とオルガのみである。システム検索に時間は掛らなかった。即座に五階フロアの中程に反応が現れた。
「いたいた」
加賀がそう呟いた途端、バチンと何かがはぜる音がして、拡張現実が闇に閉ざされた。
「またなの?」
レインの舌打ち。
闇。
闇。
闇。
闇。
再起動の唸りが響き、明かりが戻った。
加賀はレインの右手を掴んだ。
「五階に、飛ぶよ」
二人はアクセラレーターを使って、座標を跳躍した。マップ上、そこはインテリアの売り場である。
フロアに着地し、パーティクルが結像すると、視界に、いきなりオルガが飛び込んで来た。暗がりに祭壇のごとく積み上げられた応接セットの山に、青い花柄ワンピースが立っていた。オルガは天井から届くスポットライトの下で、祈るような仕草で跪いた。何とも舞台めいた、劇的シチュエーションである。
彼女は目を伏せると、ブルネットの艶髪を振わせた。
【人に譲りなさい】
加賀とレインの(レンズ)にメッセージが届いた。
あくまでこれが(無財の七施)になぞらえたものだとするならば、言葉の意味は、床座施(しょうざせ)である。
席を作って座っていただく。自ら席を譲って、座っていただく。他人のために気持ちよく座席や場所をゆずること。
「さあ、最後は何処なのよ、早く教えて頂戴、オルガちゃん」
レインは端からオルガの導きを当てにしているようだった。それに呼応するように、先刻からのパターン通り、オルガの姿がプツリと消えた。
「検索、掛けるぞ」加賀も今までの手順に倣い、マップを操作する。
ところが………
届いたのは、短めのビープ音とエラー表示であった。
「あれっ? どうした?」
加賀は(レンズ)でエラー表示の詳細をリクエストした。即座にセールデータのシステムから返答が戻る。
【指定されたアバターが見つかりません】
加賀は問うた。
(アバターの活動消失か?)
【活動はあり。ただし同一ではありません】
(説明せよ)
【類似アバターが存在します】
(許容値を設定。選択範囲を広げよ)
すると、今度はフロアマップに、複数の光点が広がり始めた。
「これは、どういうことだ?」
オルガとの近似値を持つアバターが光点となって無数に表れている。六層の各フロアに、まるでバクテリアが感染を広げるように繁殖して行く。
「ちょっとこれ、どう言うこと? どれが本当のオルガなのよ? ついにマップまでおかしくなっちゃった?」と、レイン。
「わからない。しかし、オルガと同一でない、と示してるってことは、システムと融合したユーリの記憶が、いよいよイカレてきたのかな」と、加賀。
「当てずっぽうの虱潰し作戦、だけは勘弁してね」
「まずは状況の確認だ」
加賀は五階のマップに映る、自分たちの現在位置を確認した。ちょうどインテリア売り場の中央付近。光点が湧くように迫って来る。
「来るぞ」
二人が積み上げられた応接セットの山に目を凝らしていると、暗がりの中、忽然と、青い花柄ワンピースが現れた。
いた。
だが留まることなく二人目のオルガが、デジタルノイズの瞬きと共に出現した。第三、第四が立て続けに現れ、五、六、七は数秒の間をおいて、床から生え出すように登場する。
二人は、あっという間に十四、五人のオルガの群れに囲まれた。
「どうなってる?」
加賀は、振り向いたオルガの群れに凝視され、言葉を失った。
「どこが類似なんだ。まるっきりクローンじゃないか」
そう言った加賀にレインが否定で返してきた。
「いいえ。違うわ。やっぱり彼女たちは同一じゃない」
「どこが?」
「良く見てよ。少しずつ年齢が若いわ」
そう言われて、あらためて注意してみると、確かに。それぞれのオルガは、先に六度見た、オリジナル・オルガよりを僅かに若い。体つきや背丈、顔の表情に微妙な食い違いがあった。
「鋭いね。………良く気付いたな」
「女の子のことは、結構良く分かるのよ。私も女の子だから」
加賀はレインの言葉を訂正した。
「………だったから?」
レインは口を尖らせた。
「何よ、失礼しちゃう」
加賀は、六層のフロアに脈々と増えていくオルガの類似アバターを、成長のアルゴリズムに照らして分類してみた。
「なるほど。出現の順序に沿って、彼女は若返っているようだな」
「どこまで戻るのかしら? ゆりかごまで? じゃあ、最終出現のオルガが、目的の座標ってことかな?」
「有り得る。………有り得るけど、何と言ってもユーリ・エフレーモフの頭を土台にしてるわけだからなあ。………起動ОSが正気かどうか、当てにはならんぜ」
「気まぐれ、天の邪鬼、他にも色々。………中年男の面倒なところは、大体持っていそう」
辛辣なレインの言葉に、加賀は顔をしかめた。
「まあ、そう悪く言うなよ」
「あら、随分と肩持つじゃない?」
「妄想オヤジの気持ちは、オヤジには良く分かるもんだ」
レインは声を上げて笑った。
「あなたもオヤジだって、自覚してるんだ?」
加賀は小さく肩をすくめ、口を尖らせた。
「全く、失礼しちゃうね」
加賀は成長アルゴリズムの群集分布を確認した。彼女たちは確かに無数に存在しているが、その集合は概ね、十二、三のグループに固まっていることが分かった。
「段階的なグループは十前後だな。それぞれが、オルガの成長の過程なんだろう。もしくはユーリの記憶に残る重大イベントかな」
「ふーん」
加賀はジグムントを呼び出した。
「先生、目的の座標は、オルガの最終出現箇所かもしれないけど、俺たちの方でも先回りして推測しとこう」
ジグムントは同意した。
「そうだな。今現在の起動ОSの安定性には疑問がある」
「何? 何を先回りするって言うの?」と、レイン。
「さっきのメッセージ、【人に譲りなさい】の意味を類推するのさ」
「わかるように教えてくれる?」
加賀は思い返すように説明した。
「最初に届いたオルガのメッセージ、覚えてるかい?」
レインは少し考えた。
「ええっと、確か………【見なさい】だっけ?」
「そう。その通り。それで実際のマップの座標上は、[(レンズ)と眼鏡の総合メンテナンス・オーバールック]だった」
「そうね。手に入れたのは、調整キットだったかしら」
「そうだ。………それで二つ目は【笑いなさい】で、[赤ちゃんスタジオ]のパンフレットだろ。三つ目が【話しなさい】で、 [マザー・テレサの言葉]。四つ目は【動きなさい】で、ナイキの[スニーカー]………わかるだろ?」
レインは理解を示した。
「そっか。言葉の意味になぞらえた商品に、分割パケットが埋め込まれてるってわけね。途中であなたたちが話してた、無財の………何とかって」
「(無財の七施)だ」
「そうそう。それに、言葉の意味が関わってるわけ?」
加賀はレインの顔を見てにやりと笑った。
「何だ。ちゃんと聞いてるじゃないか」
レインは頭を掻いた。
「ご免ね、私、………ちゃんと理解はしてないから」
「話せば長くなるぞ」
「じゃ、後回しで」
「興味ないんだろ?」
「その通り、です」
そこでジグムントが提案した。
「ネットワークのワード検索で、(人に譲る)に関連した項目を私が読み上げて行こう。判断は君たち二人に任せるよ」
「いいね。………引っ掛かるところがあれば、誰でもいい、速やかに手を上げて」と、加賀。
「わかりました、先生」と、レイン。
「俺たちはオルガの群集分布を、座標ごとに確認していく」
「同時進行ってことね」
「善は急げ、さ」
ジグムントの引用は、辞書検索から始まった。
ゆず・る〔ゆづる〕【譲る】
[他動詞・五段活用]
1 自分の物・地位・権利などを他人に与える。譲渡する。「財産を―・る」「後進に道を―・る」
2 欲しい人に売る。「安値で―・る」
3 へりくだって他人を先にする。「席を―・る」「順番を―・る」
4 自分の主張を抑えて他人の主張を通させる。譲歩する。「自説に固執して―・らない」
5 他の機会にする。「会見は後日に―・ろう」
加賀とレインは、まず四階のゲームコーナーに跳躍した。賑やかでカラフルなキャラクターを描いた壁面装飾に、古風なバロック様式の大邸宅のパティオが溶け込んでいる。恐らく、ユーリが幼少期を過ごした屋敷なのだろう。
不世出の天才科学者は、旧家生まれのお坊ちゃんだ。
密閉されたゲームセンターの上部に、木々が梢を伸ばし、もくもくとした緑の合間から青空が覗いている。
サテン織の光るクロスに銀食器。そして四、五十人分はありそうな豪華な食事。中庭の入り口には手作りの横断幕が掛けられており、馴染みのない言語でメッセージが謳われていた。それが(ハッピーバースデイ、オルガ)であることは読み取れる。地元の名士が集った、家族の誕生日会らしい。
善良そうな賓客たちが、微笑みを硬直させたまま、写真のように留まっている。
そこに十歳前後のオルガの姿が、ぼんやりと残像を描くように並んでいる。パーティの経過時間を区切るように、それぞれのシチュエーションに一人ずつ。十数人が確認出来た。服装はこの場にはそぐわない、あいかわらずの青い花柄ワンピースである。
クラッカーを鳴らすオルガ。
ロウソクを吹き消すオルガ。
ロバのくす玉を割るオルガ。
ケーキを頬張るオルガ。
「豪勢なお誕生日会だこと」と、レインが冷ややかなコメントを漏らした。
「どうやらユーリの家族は、地元の名士のようだな」と、加賀。
「子供の頃のオルガって、凄く可愛いわね。まるでフランス人形みたい。純粋無垢って感じかな。………あなたにも、あんな頃があった?」
「覚えてない」
「自慢じゃないけど、私は、可愛かったわよ」
「俺だって、最初からオヤジに生まれたわけじゃないさ」
「じゃあ、子供オヤジ?」
加賀は皮肉に眉を持ち上げると、黙って仕事に取りかかった。
蔽いかぶさる映像の、背後に隠されたゲームコーナーを仔細に検分する。しかし(レンズ)に、輪郭検出の黄色い明滅は起こらない。この場所に分割パケットはなさそうである。
「さ、次、行くぞ」
(好譲不争(こうじょうふそう)の精神)
(仕事とは、仕える事である)
(ボランティア活動の原則として挙げられる要素は一般に、自発性、無償性、利他性、先駆性の四つである)
跳躍。
パーティクルの結像。
夕暮れの迫る森の廃屋。一度ユーリの幻想の中で見掛けた場所だった。
記憶のエコーかと思ったが、東屋の影にオルガの姿が見える。紫色の淡い陽光の中、オルガは一糸まとわぬ姿でリラックスしていた。大人への変遷。二次性徴。その肉体は陶器のような素肌で、神々しい古典絵画すら彷彿させる。つまりエロスとは幾分、遠い関係だということ。
背後に、ぼんやりした影が動いた。
男の姿。
まだ若い、少年の輪郭が、震える指先で少女の肩に触れる。
おぼろげに見えるのは、彼自身の投影だからであろう。少年は若き日のユーリ・エフレーモフの表現形である。
オルガは少年に肩を預け、長い首筋を伸ばして接吻した。
抱擁。
情熱の発露。
そして、歓喜。
二人は心地良い疲れの中にまどろみ、深い群青の夜に眠る。その小さな東屋は二人にとって、僅か数日の楽園であった。
夜半過ぎ、男たちの複数の足音に目覚める。大人の荒い息遣いと、猟犬の唸り声。
二人は突然に引き離され、毛布を巻かれ、乱暴に車に押し込められた。
その後に続く、オルガの入水死のヴィジョンは、ユーリの想像の産物であろう。それが実際の記憶であったならば、あれほど甘美で、切なくはないだろうから。
驚愕。
悲しみ。
後悔。
そして、………怨念。
オルガとユーリの複数の残像が、多重露光された万華鏡のように固着し、透過する月明かりに、その姿を変えて行く。
加賀とレインは言葉もなく、黙ったまま作業を進めた。
この場所にも分割パケットは存在しない。
(ボランティア(volunteer)の語の原義は志願兵であり、歴史的には騎士団や十字軍などの宗教的意味を持つ団体にまで遡ることができる。十字軍の際には「神の意思(voluntas)に従うひと」を意味しいてた)
(マルコによる福音書・九章三十五節
イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」)
(誰よりも自分が未熟だと認識出来る者、そういう人間こそが、いち早く先に行ける人である)
ユーリの記憶の遍路は、多くの点で絶望に繋がっていた。オルガへの愛情さえ、歪められた衝動に根差している。口利かぬ妹への、兄の鬱積した我欲である。
冷静と情熱。
高潔と貪り。
相反する通奏低音が、ユーリの根底に流れている。その二つの気質がユーリを支え、時に引き裂き、矛盾した分裂へと誘っている。直感的だが計算高く、従順であり野蛮。
二極相反の本質である。
それは人が人であるという所以だ。
(ハミルトンは適応度に与える効果によって、行動を次の四つに分類した。
・利己的行動 行為者が利益を得、被行為者がコストを負担する(または被害を受ける)。
・利他的行動 行為者がコストを負担し、被行為者が利益を得る。
・相利行動 行為者と被行為者のどちらも同時に利益を受ける。
・いじわる行動 行為者がコストを負担し、被行為者が不利益を被る。)
真っ白な通路に、磨かれたリノリウムの床。消毒薬の鼻をつく臭気さえ、伝わってきそうだった。
見えたのは、病院のベッドの列である。
青い花柄の拘束着のオルガが、シーツにくるまれ、天井の扇風機を見上げている。もつれた黒髪。青ざめた顔。肌色の唇。目の隈は深く、やつれ、落ちくぼんでいる。
窓は十五センチ以上開かないよう、あらかじめかんぬきが掛けられていた。
閉鎖病棟。
歪んだ硝子越しに見えるのは、白樺の木立で、立ち枯れたような灰色の色彩に、西陽が差しこんでいる。病院の車止めの脇には、ぽつんと車椅子が置かれている。
乗り手のいない旧式の、スチールの車椅子。
(動物の利他的行動はさまざまな場面で見られる。代表的なのは、親が子を守る場合や、集団を作る動物の社会的な行動である)
悲鳴と痙攣。
両前頭葉上の皮膚に当てられた電極。
(人為的けいれん発作を誘発する)
オルガの目。焦点の合わない両目。
汗。
冷汗。
悪い汗。
リチウムは、脳内濃度が上昇する可能性があるので中止、抗てんかん薬は、けいれんを生じにくくするので中止、ベンゾジアゼピン系薬物も、けいれんを生じにくくさせるので減量、抗うつ薬は、術中不整脈を起こす危険性を高める可能性があるので中止。なお、抗精神病薬は、原則として中止する必要はない。
筋弛緩剤を投与。
修正型電気けいれん療法を施術。
(患者に対する、懲罰的側面を調査)
(親による子の保護。
利他行動の代表的な例が、親の投資と呼ばれる、親による子の保護や子育てである。雌親が子供に自分の体を食わせてしまう生物もいる。そこまで極端ではなくとも、親が子を保護する場合、それがほんのわずかであっても労力を割いているのは確実である)
(繁殖は、非常にコストのかかる行為である)
湖のほとりに人影が立っている。シャッタースピードの遅い、低感度の露光写真のような、ぶれた残像。
船着き小屋の赤い屋根の下、停泊した青いポートが揺れている。毛糸の帽子を被り、青い花柄のコートを着たオルガが見えた。五、六歳の頃で、母親に手を引かれている。若い母親の顔は憂鬱そうに沈み、もう一人の少年が自転車で桟橋を走る様子を見守っている。
母親の心気症は、子供たちの誕生と共に始まっていた。パーソナリティ障害を診断された長男と、精神疾患を抱えた妹。期待を託せるのは、次男坊のイワンだけである。
この先、この子たちをどうしたらいい?
ぼやけた人影は少し離れた場所から、家族の様子を伺っていた。
長男という自覚はあった。
だが、影は常に遠巻きにいた。それがこの家族の在り方であり、そのように過ごしてきたから。それが変わることはないだろう。
これまでも。
そして、これからも。
灰色の空から、白い粉雪が舞い落ちる。
手のひらで受け、その冷たさに、オルガがにっこり微笑む。
まるで天使のようだ。
(エペソ人への手紙・二章九~十節
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです)
(ヒトの価値観から見れば子育ては利他的とは見なしにくいが、自己の損失と他者の利益という利他行動の定義を満たしている)
加賀は、その言葉に注目した。
(子育ては、………自己の損失と他者の利益という利他行動の定義を満たしている)
【人に譲りなさい】
譲ることは、仕事。仕事とは、仕えること。
利他行動。
(いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい)
(神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです)
ヒトにとっての根源的な利他行動とは?
神があらかじめ備えて下さった、良い行いのこと?
それは何だ?
それは、………子育て、か?
「わかった」
加賀は静かに呟き、レインを連れ、座標を跳躍した。
クリスマス・キャロルが聞こえる。
十二月二十四日、クリスマス・イブ。降誕祭の始まり。
その日、オルガは生まれた。温かい家族と、優しいロウソクの光に包まれて。
金と銀、赤と緑のオーナメント。
集まった親族たちが、祝いの品を抱え、取り囲む。
母親がベッドに身を起こし、おくるみを抱えている。父親が静かに覗き込む。次男のイワンは乳母の腕に抱かれたまま、眠りこけているようだ。新調されたバラ色のゆりかごの横に、影がたたずんでいる。不安定に揺らぎ、伸縮する黒い影。そこに存在することを、かろうじて赦されたのはユーリだった。
母親は不安げにユーリを見詰めると、妹をそっと手渡した。
ユーリは驚くほどの慎重さでオルガを受け取り、まるでガラス細工をいとおしむように抱きとめた。
(影が、微笑む)
オルガは、青い花柄のおくるみの中でむずがった。
まだ何も分からず、待ち構える暗い未来に怯えることさえ知らず。無償の愛を無条件に受け取る。
アガペー、神の慈愛。
影は、加賀の方を向くと、そっと赤子を差し出した。
加賀は躊躇した。
俺は、この記憶に参加していない。これはユーリの記憶なのだ。俺には、
(関係ない)
尻込みする加賀に、影はなおも赤子を差し出してくる。鼻先に近付いた、青い花柄のおくるみ。ミルクのような、少し酸っぱい匂いがするように感じた。
「抱いてあげたら?」
そっと、レインが耳打ちした。
「あ? ………ああ」
加賀は両手をズボンに擦りつけて拭うと、おっかなびっくり赤子を受け取った。
データグラブに、二・五キロほどの圧力感知が届いた。
まだ首も座っていない赤ん坊なのだ。慎重な上にも慎重に。
ようやく片手でうまく抱きとめられるようになり、加賀はそっとおくるみのフードを上げて、オルガの顔を拝んだ。
猿のようにしわくちゃで、真っ赤な顔をしている。
怒っているのか。
いや、眠っているのだ。
加賀の手の中で、オルガの顔が微かに大人びた気がした。赤みが少し引いて頭髪が伸びている。そこでオルガは目を開け、灰色の瞳で加賀を認識した。
生理的微笑のモーション・トレース。
なるほど。やはり拡張現実である。
データ表示に過ぎない、そう思うと、急に気楽な気持ちになってくる。加賀はふいに、どういうわけだか、オルガをあやしてみようという気になった。
「オルガちゃん、こんにちはー」
おどけた顔を作り、そう投げ掛けた途端、赤子の表情が様変わりした。その面立ちはみるみる変化して、初めは男の子に、続いて女の子になり、その中間くらいに落ちついた。
加賀は赤子の顔を見詰め、そして言葉を失った。
加賀は気付いたのである。
その顔は、自分と妻、清美の面影を湛えていたのである。
「ハーイ、パパ」
赤子の口から、言葉がこぼれる。
有り得ない。これはAR、拡張現実なのだ。
映像、まぼろし、………データの表現形。
だが、加賀にはわかっていた。
この赤子が、自分たち夫婦の間に生まれたかもしれない、一つの時間線であることを。
自分は過ちを犯した。選択を誤った。この子の生まれて来る時間線を、否定したのだから。それは命を葬ったに等しい。
己の下らないエゴによって、だ。
「俺の、………子供、なんだな?」
ふいに訪れた狼狽に、加賀の両目から涙が溢れた。
崩れそうにか弱い、青い花柄のおくるみを抱きしめる。
(………許してくれ、俺のベイビー)
そして全てを理解した。
起動ОSを通じて送られたメッセージ、(無財の七施)のことわりは、他の誰でもない、加賀洋輔に向けられたのものだったのである。
(オオイナルソンザイ)
大いなる存在。
加賀は生まれて初めて、それを間近に感じた。
それは常住なるもの。………それは、至る所に遍在していた。
抱きしめたおくるみに、輪郭検出の黄色い明滅が起きた。ゆっくりと周囲を覆ったユーリ・エフレーモフの記憶映像が遠のいて行く。デジタルノイズが瞬き、空間が二度ばかり途切れる。
闇。
闇。
闇。
そして、再起動。
「空間が元に戻ったわ」
レインの言葉に、加賀も周囲を見回した。青白いライトラインで表示されたフロアが目に入る。そこは三階、ベビー用品売り場だった。
加賀の握り締めた両手の中には、耐熱ガラス製、二百四十ミリの哺乳瓶が握り締められていた。
そこでジグムント・ボックスが(レンズ)に割り込んで来た。
「それが最後のパケットだな。確認出来たら、オンラインサーバにアップしてくれ」
ぼんやりと哺乳瓶を見詰める加賀を、ジグムント・ボックスが急かした。加賀は弾かれたように同意した。
「わかった。今、確認する」
加賀は慌てて哺乳瓶の縁をタップした。プロパティを開いてユーザーレヴューを確認する。
これで間違いなかった。
ジグムント・ボックスは言った。
「こちらでダウンロードを確認後、(エリュシオンⅡ)を構築する」
加賀が大急ぎで手続きをすませると、(レンズ)にオンラインサーバから登録完了のメッセージが送り返されてきた。
加賀とレインは、ほっとため息を吐いて、その場にしゃがみ込んでしまった。言葉もなかった。しーんと静まり返ったベビー用品売り場のARの中、疲労困憊した二人が、ただただ放心している。
七つ、全てのパケットが揃ったのだ。
加賀は心地良い達成感に浸っていた。一瞬肩の荷が下りたように感じるが、そこで加賀は我に返る。
これで彼女を、美島美登里を救うことは出来るのか?
無言のまま、じっと加賀を見詰めるレイン。
ARの、遠い暗がりを睨んだその矢先、加賀の(レンズ)に着信が反応した。
レザビアの連中か?
発信元は不明、………いや、
………美島美登里だ。
加賀は慌てて、受信をスイッチした。
「美島さん!」
だが、返事はない。加賀の(レンズ)には映像が送られてくるばかりで、古ぼけたビルの一室が映し出されていた。大きくとられた暗い窓辺に三人の男の姿が見える。金髪と赤毛、それにダークブロンド。少し大きめのサーバがワイヤレスで設置されているらしい。
間違いない。
奴らはレザビアの諜報員だ。
(レンズ)に映る映像フレームの左下方を見ると、音声が[Mute]になっている。
加賀は、はたと気付いた。
(美島美登里は、骨伝導音響装置を付けていない)
若いおしゃれレディたちの約束事である。あんなダサい骨伝導音響装置なんて、誰も付けていないのだ。加えてあの黒ぶちの伊達眼鏡で、レザビアの連中は美島が(レンズ)を付けていないと判断したらしい。
画面に文字が流れ始めた。そしてコメント機能の繰り返し。
【SОS、美島】
美島は、レザビアの諜報員たちがダウンロードを始めるのを待って、加賀の(レンズ)にアクセスしたのである。
言うまでもない。明確な発信元は、GPSで場所特定出来る。
(人が困ってる時は何かしら、サインが出てるものなんですよ)
美島の言った言葉の意味が、ようやく理解出来た。
(でかしたぞ、美島美登里!)
加賀はすぐさま解析チームを呼び出した。
「解析チーム、今、人質から俺の(レンズ)に着信してる! 急いで逆探知してくれ」
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