第19話

 夕方から冷え込み始めた外気はマイナス十八度まで下がった。俄かに氷混じりの風が吹雪き始めている。

 北極圏を掠めるレザビア北東部では、これは例年並みであろう。十一月は午後三時を過ぎると陽が沈み、地平線下になる。十二月から翌一月が開けるまでの約二ヶ月、この土地に太陽が昇ることはない。灰色の木炭画のような眺望が、陰気に街を覆うのである。

 時折、オーロラが見えることもあるが、住人にとってはさほど珍しいことでもなかった。気の狂いそうな退屈な時間が、ただ通り過ぎるのを待つ。………それがこの土地での生き方だった。


 ユーリ・エフレーモフは今日は母屋でなく、裏庭にある小さな作業小屋にいた。

 袋詰めにしたジャガイモに干し肉、缶詰類、古い毛布に牽引用のソリなど、ここで生きて行くための必要最低限の品々が雑然と置かれている。

 笠の付いた裸電球の薄明かりの下、石炭ストーブが明々と燈っている。使い込んだ錬鉄製の天板の上には小さな土鍋が置かれ、ユーリはそこに白ワインを注ぎ、ガーリックパウダーを振り込んだ。ゆっくりと煮詰まり、芳しい香気が立ち昇り始めると、あらかじめ、おろし金で細かくしたエメンタールチーズとグリュイエールチーズを投入した。

 フォンデュ・オ・フロマージュ。

 アルプス地方やスイスなどで有名な家庭料理、いわゆるチーズ・フォンデュのことだが、実際のところ、これは古くなったチーズとパンの見切りのための調理法でもある。

 ユーリはチーズがとろけた頃を見計らい、硬くなったバゲットを金串に刺して浸けた。幾つ食べる? 三つか? それとも四つ? 六十手前の男ならば三つで十分だろう。育ち盛りの子供じゃあるまいし、今はさほど腹も減ってなかった。

 十分にチーズを絡ませたバゲットは熱々で、息を吹きかけ冷ましながら頬張った。残った白ワインも同時に流し込むと、アルコールの化学作用も相俟って身体の内側からぽかぽかになってくる。質素ながらユーリにとって満足な夕食であった。

 スイスではこの食事に際して、変わった罰ゲームがあるらしい。串に刺したバゲットを鍋の中に落としてしまうと、テーブルの全員に男性はワインを振舞い、女性はキスを振舞う、というものだ。微笑ましい田舎の風習。ある意味、因習とも言えよう。

 女性からのキス。

 ユーリはふとその言葉に引っ掛かり、無意識に左の頬を掻いた。

 微かな湿り気を帯びた、柔らかい粘膜の接触。

 その記憶は、どこまで遡るだろうか? ユーリの知る限り、それは十六歳の夏が最初で最後であったと思う。

 オルガ。………私の妹。

 彼女は生まれながらにして言葉を発することがなかった。知的障害を伴う、内因性精神疾患。しかし十四を迎えた少女の姿は、輝くイコンだった。世界を覆うあらゆる闇を遠ざける、オルガの笑顔はつまり、………初夏の陽ざしそのものだったのである。その喜びを得るためなら、冥府の女神ヘカテに魂を差し出しても構わないとユーリは思った。

 幼心のうつろい。メランコリア。

 その夏遅くに二人は結ばれた。魂と肉体、その全ての意味において。………その行き付く先が、わからないほどユーリは愚かではなかったが、その行為は極自然なものであり、互いが求め合った情熱の末路であった。

 わずかに、数日の楽園であった。

 二人は森の外れの朽ち果てた廃屋で見つかり、その日のうちに別々の里へと引き離された。大人たちは手際よく事実を隠蔽したのである。オルガはその二日後に、自ら川に身を投げ、命を絶ったそうだ。ユーリはそれを後々、風の便りで知った。

 ユーリの内側で何かが委縮し、ゆっくりと壊死していった。自己防衛としての閉塞へ向かった彼の思考は、数式と論理を基とする、整然としたものへ落ちついた。同時に取り巻く環境への大半の関心を失った。

 そう、あれから四十年が経つ。


 ユーリは酸味のきつい白ワインを一口分ほど残してテーブルに置いた。

 肺から鼻に抜ける香気に目を細めながら立ち上がると、小屋の天井から下がった間仕切りに手を掛けた。薄汚れたポロ切れを引き、暗がりに小さなオリーブグリーンの工作台を見る。滑り止め付きのポリエステル製天板は、使いこまれ、無数の傷跡が黒々と浮かび上がってはいたが、清潔に拭き清められていた。

 そこに鎮座した銀色の筺体表面を、ユーリは愛おしそうに撫でた。筺体は複数の配線に繋がれ、壁際のルーターへネットワークされている。

(この世界での役割は、そろそろ終いだな)

 ユーリはそう考え、一人ほくそ笑んだ。

 研究の全容である、コンピュータ内のデータ、HDD、ペーパー書類は、ここ数日で全て処分した。アジア人バイヤー、カトーに渡した分割プログラムだけが、実質的なデータとなるわけだが、この筺体内の起動ОSがない限り、解析することは恐らく不可能だろう。このОSだけは、VPN(Virtual Private Network)を使って、直接、買い手の手元に届くよう準備した。送り出しが完了した時点で、筺体内部は破壊、追跡型の攻性ウイルスによって、プロキシのアクセスログ、ディザスタリカバリーサイトまで追尾して、抹消するようにしてある。ペーパーにダンプ印刷されるバックアップに関しては、既に所在特定しており、オペレーターに偽の廃棄命令を出すようにしてあった。ま、こちらに関しては、人間様のやることなので、自動処理というわけにはいかない。そのように計らってくれることを祈るばかりである。

 理想郷エリュシオン。その数学的な再構築化である(エリュシオンⅡ)は、ネットワークの彼方に準備されつつあった。同じ調和と美を信奉する同志の手によって。

 決定論が支配する、完全なる安定が約束された楽園である。

 この筺体に収められたОSは、意思を持つソフトウェアとなるだろう。

 アルゴリズムやプログラムを使わずに、シミュレーション・ニューロン群を駆使し、 (認知/内部イメージ/内言/苦痛/喜び/感情)のプロセスや、その背後にある認知機能を再現する、特殊な認知アーキテクチャを自律エージェントに組み込むことで、総発的に人工意識を生み出すアプローチだ。

 土台となるのは無論、ユーリとオルガの衝動、つまり内的方針である。

(目的/目標/あるいは、希望………そうしたものだ)


 自分のこの世界での役割は、つまらないものだった。

 それももうすぐ終わる。

 ユーリはセーターの左胸に付いた小さなポケットから、銀色のプラスチック形成シートを取り出した。手のひらに押し出すと、ピンク色の八角錠剤が現れる。

 そこでふとユーリは耳を澄ました。

 吹雪の音に紛れ、微かに届いた犬の鳴き声。

 奴らだ。情報部の暗殺部隊。

(やっとのお出ましか)

 知的財産の国外流出に関するレザビアの対抗措置は、随分と重いものである。ユーリは国家反逆罪に問われ、無論命はない。

 ユーリが霜に凍り付いた小窓を擦ると、半エーカーほどの裏庭から先に続く、暗い森の彼方から、軍用犬を連れ、武装した漆黒の一群が静かに近付いてくるのが見えた。

 ユーリは八角錠剤を口に、ワインボトルを手にした。それから銀色の小さな筺体に付いた唯一の実行ボタンを押す。装置は微かな、げっぷに似た作動音を発した。

(ほんの数秒だ)

今から楽園に行く。オルガと一緒に。

アダムとイブがそうであったように。

しかし、決して二人が追放されることはないのだ。

(エリュシオンⅡ)は完全なる安定が約束された楽園なのだから。


 ユーリは瓶に残った酸味の強い白ワインで、錠剤を飲み下した。


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