第33話

 その後に起きたことを、かいつまんで説明しよう。

 ジグムント・ボックスが最後のパケットを解凍し、(エリュシオンⅡ)は構築された。構築が始まると、意外にも、それまで獲得したデータ量を遥かに超える断片が、自動収集されたのである。ユーリ・エフレーモフの計画は思った以上に壮大で、かなり以前から、遠隔地に分散してサーバが準備されていたらしい。

 プログラムが完成し、それを再度パケット分割し、ダウンロードマネージャに繋いだところで事態が急変した。(エリュシオンⅡ)は独自の判断でシステムに変更命令を実行させたのである。ダウンロード中の分割パケット、オンライストレージに残った残留記録の他、(エリュシオンⅡ)に関する全てのデータが一括消去された。リカバリーのアナログ記録すら、偽の処分命令で破壊させる徹底ぶりだ。

 起動した当のプログラム、(エリュシオンⅡ)自体も、高度なフィルタリング処理を使って、ネットワーク上から完全消滅を果たしたのである。

 結局のところ、思考する小宇宙(エリュシオンⅡ)は、誰の手にも入らなかった。

 ユーリ・エフレーモフの思惑通りに。


 だが、URLが消える直前、一千分の一秒ほどの間、加賀は(エリュシオンⅡ)に招かれていた。接続の痕跡は、プロキシのアクセスログまで遡って削除されている。 実時間一千分の一秒は、加賀にとって数時間にも感じられた。


 加賀が目にしたものは、どこまでも広がる(草原)だった。あの拡張現実のセールデータと融合した、狂気の記憶とは打って変わっての趣である。

 柔らかい夕暮れに包まれた、短い下草の原。西風が吹き、頬を撫でるさまが心地良い。そこがどこであるのか、特定出来る情報はないだろう。何故ならそれは、ユーリ・エフレーモフと美しい妹、オルガだけが知る秘密の楽園なのだから。

 加賀はくるぶしまで埋まりながら、乾いた(草原)を歩いて行った。そこには何もなかったが、驚くほどの安心が満ちていた。現在があり、その前後に逐次的な連続性をもって過去と未来が横たわる、そういう安心感である。ユーリ・エフレーモフが追い求めていたのは、この決定論が支配する宇宙だったのだろう。全てが予定調和であるという、絶対的な安堵。いうまでもなく、この宇宙を取り仕切るのは、ユーリとオルガである。加賀はその(草原)を歩いている間ずっと、二人の存在を全身で受け止めていた。二人は彼に、こう語っているようだった。

(もういいんだ。全ては赦される)

 恐らくこの言葉の、何千倍も意味深いことが伝わったのだが、言葉とは陳腐なものである。だが、それでいい。貧相な表現は時として、事の重大さを身軽にするメソッドともなるのだから。

 加賀が(エリュシオンⅡ)と途切れる最後の瞬間、目の前には二つの人影が見えていた。それはしっかりと互いの手を握る、中睦まじい恋人たちの姿だった。


 (エリュシオンⅡ)はシミュレートされた宇宙である。

 我々の世界に重なり、おまけに自我まである、シミュレイテッドリアリティ実行である。だが(レンズ)に描き出される、AR(拡張現実)のフィールドもまた、我々の宇宙に重なっている。

 それぞれの宇宙は互いに影響しあっていて、その力のバランスに優劣はない。

 あの時、加賀に探し出すべきパケットの位置を示したのは(エリュシオンⅡ)の起動ОSだ。しかし分割パケットの埋め込みを(無財の七施)になぞらえたのは、不明の意思である。それぞれは別々の場所に存在し、我々に影響を与える知性である。

 起動ОSが存在する(エリュシオンⅡ)は、我々の宇宙の内側にあるが、不明の意思は、より高次な場所にあったと考えられる。ならばこそ、影響はあれどもその説明が付かないのである。言い方は悪いが例えるならば、神の御技、と言ったところだろうか。

 それぞれの宇宙が、我々の宇宙に対して影響した力の加減は、等価と言えるだろう。

 複数宇宙の存在が等価となると、以下の状況も想定可能となる。

 (エリュシオンⅡ)はユーリ・エフレーモフが作り出した個人的な宇宙である。

 加賀に(無財の七施)を示唆した宇宙もしかり。

 となれば、我々が立脚する足元の宇宙が、さらなる高次の存在によって作り出された、シミュレイテッドリアリティ実行であるという可能性も同等となる。無論、我々はその点について全くの無自覚であるわけだが、シミュレーションの内側に住む我々にとって、それ自体がシミュレーションであるという事実に気付くことは出来ない。

 (エリュシオンⅡ)は拡張現実に含まれ、拡張現実は我々の宇宙に含まれる。そしてそれ全体を包む宇宙があり、さらにその外側にも、その外側にも…………。

 加賀は宇宙が薄膜のように重なり合う様を想像した。


 加賀は密かに、(無財の七施)に込められた幸福への示唆が、見えざる(大いなる存在)の影響であればいいと希望していた。いや、………もう、半分は信じていたのだが。

 もし仮に起動ОSが加賀に、パケットの位置を示すならば、座標コードを伝えれば良いだけである。では、なぜあんな回りくどい、言葉から探させる手間を掛けたのだろう。加賀は、その過程そのものに、気付くべき示唆があったように思えた。あたかも、ダンテの『神曲』の遍路のようでもある。一個人の我欲の具現である(エリュシオンⅡ)と、他人に行うべき、日々の善行(無財の七施)。この対比の意味するところを、汲まずにはおれない。それに最後に届けられた【人に譲りなさい】が暗示する、赤ん坊のヴィジョン。加賀は未だに、あの子の表情が脳裏に焼き付いて離れなかった。どう考えてみても、それは加賀個人に対するメッセージだったと思う。錯覚で片付けるには、あまりに意味合いが個人的過ぎる。

 (大いなる存在)は、起動ОSを通じて、問うていたのではないか。人の、進むべき人生(みち)について。

 こう考えてみると、(大いなる存在)に踊らせられていたのは加賀のみならず、起動ОSもまた、同様であったかもしれない。


 美島美登里が奪還された折、都内数か所で国籍不明の不審なグループが検挙されていた。(そう、最後の最後で外事情報部、日本の警察も重い腰を上げたようだ)レザビアの諜報員たちである。レインが拳銃を抜くことはなかったが、加賀といた神田の書籍倉庫の周りでも数名が検挙されていた。絶妙なタイミングであったようだ。

国際法に基く証人保護プログラムの対象となった加賀と美島は、数日のうちに潜伏先へと移送された。美島は本人の希望もあり、堪能な語学の才を活かして、アメリカへ渡った。それが救出劇で出会った、ブロンドのダクラスへの熱烈な求愛行動としての追っ駆けであったかどうかは、………今のところ定かでない。ま、したたかな美島のことである。新天地で立派に返り咲くことだろう。

 加賀はしばらく都内のセーフハウスに潜伏した後、地方都市へと移送される予定になっていた。

 そうそう。風の便りに聞いた話だが、あの展示会のチケットで、そもそもの事の発端を作ったローレライの西島SVだが、直後に重要参考人として公安警察に引っ張られたらしい。結果は、単にクリーブ社の桐原正則に体よく利用されただけで、事件との関係はなかったようである。しかしながら、随分と厳しい取り調べがあったのか、現在は産業医の勧めで、自宅にて軽いうつ病の療養中とのこと。治療代がかさむようなら、ジグムント・ボックスを紹介するのもいいかもしれない。


 レインとは彼女がニューヨークに旅立つ直前、最後に一度面会することが叶った。場所は皮肉にも東京駅構内という、奇妙なめぐり合わせである。


「今からよ。この後、羽田に向かうの」

レインはシアトルスタイルカフェのデミカップを傾けながら、そう言った。

「えっ? そりゃまた急な話だな」

加賀は少々面食らった様子で、カプチーノの泡をナプキンで拭った。

「急な予定変更は、要人警護では重要なことよ。ヒットラーもサダム・フセインもそうだった。だから、………あなたもね」

 こうして喫茶店でレインと会うだけでも、周囲十五メートル以内に私服のボディガードが三人いる。自分が要人? 正直言って、全くそんな実感はなかった。証人保護プログラムとは言うものの、(エリュシオンⅡ)は誰の手にも渡らず、双方利害ゼロの消滅案件の証人など、今さら誰が狙うというのか。

 都内を襲った大型火災も、あやふやな人災の線で落ちつこうとしている。我々一般の知見から遥かに遠い川上の方で、何らかの密約が交わされたのかもしれない。

国際法廷の裁判など開かれはしまい。森にしろカトーにしろ、はたまたレザビアの雇われ諜報員たちにしても、政治的には犠牲とも思われていないのだ。申しわけないくらいの無駄死にである。

 加賀はぼんやりと、ナプキンを弄ぶレインを眺めていた。

 それにしても、今日の彼女の出で立ちには驚かされた。いつものスポーティな路線とは打って変わって、女が匂い立つようだった。七分袖ショート丈のハイゲージニットプルオーバーに、ジャカード織の幾何柄マーメイドスカート。襟元には大粒のパールネックレスが覗いている。クールグレイと押さえたアイボリーという品格ある色調が、後ろで纏めてアップにした黒髪と鳶色の瞳に良く似合っている。もちろん、無粋な青紫の(レンズ)はナシである。彼女は、どこからどう見ても、リッチなヤングセレブに見えた。

 白状すると、加賀は少々見とれてしまったようだ。その様子に気付いたレインが、にやにやと含み笑いを漏らした。

「何、見とれてんですか?」

「あ、いや、何………」加賀は一つ咳払いした。

「随分変わるもんだな、と思ってさ。いやホント、………素敵だよ」

 レインはからかうように笑った。

「ありがと。これも私の武器の一つね」

「ああ、そうだな」

 加賀はショートのカップを持ち上げ、ごくりと飲み干した。

 レインは、しばらくウィンドウの外の通路を行き交う昇降客の人波を眺めていた。それからぽつりと呟いた。

「私も、今回は絞られちゃうかしらね。………とんだ犠牲も出たし」

「森さんは、残念だった」

 レインは小さく肩をすくめると、おどけた口調で言った。

「降格、されちゃうかも」

「君が、かい?」

「有り得る話よ。北アフリカの方とか、うろうろすることになるかもね」

「そりゃ、やばいな」

「やり甲斐があるわ」

 加賀はため息を吐いた。

「君はいつでも、前向きなんだな」

 レインは加賀の顔を見詰め、眉を持ち上げた。

「あなたの行く先は決まったの?」

「ああ、まずは東北辺りから。様子を見て幾つか候補地を巡るような、………そんな話、だったな」

「フーン。自分のことなのに随分人任せね。大丈夫なの?」

「一度終わった人生だし………」

「あら、絶好のチャンスじゃない。色々と、やり直せるわよ。新しい名前の、あなたとして」

「それはそうだけど、ね」

 そこでレインは、はたと気付いた。

「そっか。奥様のこと?」

「………」

 加賀は言葉を飲み込んだまま、煙草に火を点けた。

 九州の実家にいる清美には、公式な報告として、自分の死が伝えられている。それが彼女を巻き込まず、安全でいられる一番の方法だからだ。

「何と言っていいかわからないけど、今は手続き通りに対処するのが一番よ。何より奥様のために。それが最善だから」

「ああ、わかってる」

 妻との、そもそも終わりかけていた関係だが、それが外からの後押しですっぱりと終わってしまうとは、とんだ予定外である。あの時ああすれば、この時こうすれば、………なんて、自分でも驚くほどありきたりな後悔の念が、加賀の頭を過っては消える。

「崖っぷち男、気付けば足元に崖はなし、だ」

 加賀は皮肉な苦笑いを浮かべた。レインは無表情なまま、同意も否定もしなかった。

「しばらくは、辛いわね」

 加賀は無言で煙草の煙を吐き出す。

レインは胸中に言葉を探し、何も思い当らないのを確かめると、にっこり微笑んで、右手を差し出した。

「それじゃあ、元気でね。加賀さん」

 加賀は静かにその手を握り返した。意外に小さく、それでいて温かい手だった。

加賀はそこで思い出したように隣りの椅子から、土産物の入った紙袋を取り出した。

「そうだ。さっきそこで買ったんだけど、………お土産」

 レインは紙袋を覗き込みながらたずねた。

「何、これ?」

「東京の有名なお土産だよ。バナナの形した、バナナ味のバナナケーキ」

 レインはしげしげと眺め、

「そのまんまの名前が、書いてあるわね」

 そう言われて加賀も袋を覗き込み、同意した。

「そうだな、そのまんまだ」

 二人は小さく笑い声を上げた。

「あなたらしい。ありがとう。飛行機の中で開けるかも」

「そうして。………じゃあ」

「じゃあね」

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