第34話

 厩橋(うまやばし)ば、隅田川にかかる橋で、三径間下路式タイドアーチ橋である。

 西岸は台東区蔵前橋二丁目、及び駒形二丁目を分かち、東岸は墨田区本所一丁目。東京都道四五三号本郷亀戸線を通している。

 三重のアーチを描く欄干は緑青色に塗装されており、馬を連想させるレリーフなどが施されている。橋名は西岸にあった「御厩(おうまや)河岸」にちなんでおり、もともとの「御厩(おうまや)の渡し」のあった場所である。

 東岸に渡って、清澄通りの交差点を左に曲がると、正面に大手印刷会社の建物が見えてくる。広く社会に向けた情報コミュニケーションの担い手として、コンテンツ・コンストラクト企業を目指している事業所である。正面入口に面して三本の御影石の柱があり、それを挟んで半円形に張り出したグレーのウィンドウ。その奥に広い商談スペースが見てとれる。今日も何組かのスーツの男女が、互いの思惑を売り込もうと熱弁を振っている様が伺えた。

 ここには撮影スタジオの他に、主に量販店をクライアントとするデジタル・デザイン制作の部署がある。かつてプリプレスと言われた行程だが、現在ではサーバアップの前製造工程全体を指すようになっている。

 秋山正行は、この事業所に派遣され、DTPオペレーターとして、大手流通の商材原稿組版の作業に従事していた。見たところ、歳の頃四十代半ばの、無精髭を生やした大男、つい一年ほど前まで似たような制作会社で管理職をしていた加賀洋輔という人物に酷似している。いや、もとい、………彼、秋山正行は、その実、加賀洋輔、当人なのである。

 東北を皮切りに、証人保護プログラムの旅は、数カ月おきの転居という形で繰り返されてきた。東北で四カ月、近畿で三カ月、北海道に五カ月、そして再び関東圏に戻って二カ月が経った。

 派遣会社の登録社員という隠れ蓑で、名前を変え住所を変え、転々と職場を渡ってきたのである。民間企業の新しい政治利用の在り方に、秋山、………いや加賀洋輔は、少なからず感心していた。

 (レンズ)などの個人持ち携帯端末から全て、派遣会社を通じた法人契約の登録となるので、追跡・特定はかなり難しくなる。メールから送受信のやりとりまで、全てが監視対象となるが、ともあれ、安全であるに越したことはない。

 どの道、自分は一旦(死んだ身)ではあるのだが。

 過去との繋がりは完全に断たれていた。目の前の現在の付き合いすら、数カ月ごとの更新となると、実際、仕事に関する事だけになっていた。素姓の露呈を防ぐ意味もあり、監視チームからは、職場では寡黙の人物で貫くことも要求されている。

 加賀の現在の有り様は、一人力の労働単位、という存在なのであった。


 秋山正行は、午前中に三月二十二日号の衣料関連、婦人服飾と紳士カジュアル、外装の原稿を組み上げた。昼食を挟んで、午後は住生活関連の入力応援に入る。データのやり取りはサーバのセールフォルダを介して行われるので、他部署から上がって来る写真原稿との突き合わせも、迅速かつ正確に進行出来た。無論、最後には校正・校閲の部署を通過し、プロの目でしらみつぶしの間違い探しをやってくれるので、その安心感は大きい。だが、それでも尚、秋山は、長年の段取りと性分があいまって、グリーンの蛍光ペンを手に、ハードコピー出力のチェックを欠かさなかった。これはもう、一種の職業病と言えるだろう。

 午後五時三十分を廻ったので、秋山は一旦手を休め、最上階の社員食堂へ向かった。少し早めではあるが、夕食である。セーフハウスに戻っての味気ない自炊に掛けるエネルギーもないので、五百円のワンコインという手軽さも相俟って、ここで済ませる事が多くなっていた。今日の夕食メニューは、チキン立田と野菜サラダである。ここのメニュー、やたらに鶏が多いのは材料費軽減の都合であろうか。とは言え、調理師のお母さんたちが、心を込めて作った食事である。秋山は文句なく、満足して頂いた。

 最上階の食堂は隅田川に面していて、眺望が良かった。一面を硝子張りにした張り出し窓になっており、下町の雑居ビルの居並ぶ景観が、暮れていく西日の名残に赤く燃えたっている。航空機が通過したのか、上空高くに一筋の飛行機雲が、引き分けられた書の一筆のごとく、長く棚引いていた。

 窓に近い、手前のビルの屋上には、色の褪せた広告看板が見えた。看板には、少々古臭い、3DCGで描かれたアニメ風美少女キャラクターが、クローズアップで収まっている。キャッチ・コピーはズバリ、『恋をしよう』。

 食事を終えた秋山は、ぬるいお茶を口に含み、くつろいだ。

 テーブルの上には紙ナプキンとつまようじの収まったケースが見え、そこに併設するように緑の薄紙が添えられている。覗いてみると、どうやらメニューに関するリクエスト・アンケートのようだった。何気なく秋山は用紙を取り上げ、詳細を読んでみた。


(二月の新メニューは、いかがでしたか? あなたのお気に入りを教えてください)


 以下、丸を点けるメニュー項目の羅列があり、その下にご意見・感想のための欄があった。秋山は用紙を真っ直ぐに伸ばすと、元あった場所に丁寧に戻した。別に興味がなかったわけではない。だが、これが反映される頃には、自分はまた次の場所にいる、そういうことだからである。

 秋山がつまようじで前歯をせせっている時、ふいに(レンズ)に着信した。

 シグナルの明滅。

 視界に映った発信元は不明である。秋山はどきりとした。

 誰だ、一体? 

 微かな恐怖が蘇るが、解析チームの連中が常時監視していることを思い出し、気持ちを落ち着ける。

 「はい」と、心持ち緊張した声が出た。

 受信をスイッチすると、無数の色彩の斑点が現れ、スライドした。立方座標の検出。これは着信がARであることを意味している。

 秋山が目を凝らす前で、見覚えのある形態がワイヤーフレームで描き込まれた。質感が固定し、ライティング効果が実景に馴染む。虫の翅のような上蓋の展開、軟体動物の触手のようなくねり、細く尖った八本足の台座。その不気味ささえ懐かしい、機械装置心理カウンセラー、ジグムント・ボックスであった。

 小さな箱が息を吹き返すと、目前のテーブルの上で身じろぎした。装置は探査部で秋山を認識し、触手の先に赤いライトを明滅させた。

「秋山、正行さんかね?」

 秋山は骨伝導音響装置に響いてくる、落ちついた中年男性の声に、安堵と言い知れぬ郷愁を覚えた。

「相変わらず事情通だね。先生」

 ジグムントはせわしなく尖った前足を鳴らし、

「君の監視チームはなかなか優秀だ。足取りを掴むのに随分と掛ってしまったぞ、加賀洋輔さん」

「言いわけはいいさ。………また会えて嬉しい」

「そうかね?」

「ああ」

 加賀とジグムントの間に温かい沈黙が流れる。………それが一方的な思い込みだとしても。

加賀は喉の奥の塊りを呑み込み、さり気ない風を装った。

「それで? 何か急用でも?」

 ジグムントは信頼を勝ち取るように、厚みのある声で返してきた。

「私は君の臨床心理カウンセラーだ。来談者の術後経過には興味がある。変かね?」

 加賀は目を伏せ、含み笑いを浮かべた。

「そっか。ありがとう。先生。その辺も、相変わらずだな。………先に悪いけど、一つ、俺から質問してもいいかい?」

「構わんとも」

 加賀は腕組みすると、ジグムントに問うた。

「あの後、俺たちと接触を断って、………それから、どうしてたんだい?」

 ジグムントはしばし沈黙すると、言葉を選び、

「ネットワーク上から完全消滅を果たした、(エリュシオンⅡ)の捜索だ」

「それで?」

「ユーリ・エフレーモフは極めて優秀な技術者だったらしい。彼の作りだしたフィルタリングは、期間をおいて自動更新を続けるプログラムで、未だ接触には至っていない」

「結局のところ………」加賀は言葉を濁した。

「ユーリ・エフレーモフの一人勝ちだったってことだよな?」

 ジグムントは、やんわりと否定の言葉を投げた。

「いや、そうとも言えない。そこは見方によるな。彼は(エリュシオンⅡ)をネット上に展開するため、自分の死を選んだのだからね。あの起動ОSが特殊な認知アーキテクチャを持つとは言え、それがユーリ・エフレーモフ自身の再現とはならない。死は、死だ」

「………なるほど」

 そこでジグムントは、加賀に探るような問いを投げ掛けた。

「ところで、君は、私が(エリュシオンⅡ)をパケット分割し、ダウンロードマネージャに繋いだ直後、全てが消失してしまうまでの間に何かを………見たんじゃないか?」

 加賀は何故だか急に後ろめたい気持ちになって、ジグムントの赤いライトを見詰めた。

「どうして?」

「URLが消える直前に、一千分の一秒ほど、君の(レンズ)が繋がっていた痕跡を見付けた」

 加賀は顎を擦り、それから静かにうなずいた。

「うん、………良く理解は出来なかったけどね。そこには草原があって、どこまでも続いているんだ。そこにいる間はずっと、充実した安心感に包まれていたよ。これで全て良し、という、そんな感じの」

 ジグムントは低い声で唸った。

「それが彼の楽園というわけか。決定論的なシミュレイテッドリアリティ実行の宇宙だな」

 加賀は一つ言葉を付け足した。

「彼だけじゃない。彼女もだ」

「何だって?」

「俺は人影を見たんだ。幸せそうなカップルのね」

「ウーム、そうか」

 加賀は鼻の頭を擦ると、気持ちを変えるように声の調子を上げた。

「以前、先生と幸福について話したことがあったろ?」

「ああ。そうだな」

「十一月三十日号のセールデータの中で、分割パケットを探した時、埋め込みが(無財の七施)になぞらえてあったじゃないか」

 ジグムントは、にべもなく否定した。

「ああ、あれについては、深く考える必要はないぞ」

「どうして?」

「パケット分割の振り分けは完全にランダムなものだし、もしそれが仮に暗示的であったとしても、それは人間の脳が類似パターンを探そうとする認識機能の弊害でしかない。何かに見えたとして、常に、偶然の一致は有り得る」

「並行宇宙からの、………(大いなる存在)の影響とか?」

「何の話かね?」

 加賀は苦笑いを浮かべると首を横に振った。

「いや、何でもないよ」

 ジグムントは少し間をおき、続けた。

「私は、ユーリが決定論にこだわったのは、過去に対する不安によるものでは、と考えている。決定論は現在のある瞬間に、全ての原子の位置と運動量が理解出来れば、未来も過去も同様に見通せるようになる、という認識だ」

「ラプラスの魔、ってやつだな」

「そうだ。だがユーリはその意味を少し捻じ曲げていると思う。自分の都合に合わせてね。これは変化しないことへの詭弁だ」

 加賀は眉を持ち上げた。

「ま、確かに変化しなければ、未来の予測は簡単だしな」

「人間は過去に重ねられた事象の連続が、未来にも影響すると考えがちだ。我々が立脚する宇宙には(エリュシオンⅡ)とは違い、不確定性原理が働いている。古典物理学の因果律のように前後に拡がって行く逐次的な変化、という単純なものではない。しかしながら人間は、過去が不確定の集積であるにも関わらず、それを土台に未来を見通そうとする。人間にとって、変化は常に不安材料だ。安定や安心が欲しい」

 加賀は小さくうなずいた。

「最近は、暇なんで少しばかり勉強してみたんだけど、………静かな心の平安、あらゆる苦痛と混乱を免れた精神の安定した境地、ってのが幸福っていう、何か学説があったんじゃないか? アタラクシアだっけ?」

「ああ、そうだ。エピクロスもストア派も結局のところ、同意見というところかな。しかし考えてみてくれ。一番の不安材料である(過去)とは何か。………私が思うに、(過去)とは、単なる記述だ」

「それが(過去)の正体?」

 ジグムントは小さく唸った。

「我々が(過去)と呼んでいるものは、既に起きてしまった事象を、誰かが言葉にして書き記したものだろう」

「そうだな」

「誰かとは、誰だ?」

「そうだな、………誰か偉いさんだろ?」

「社会的権威かね? そうとも限らない。非常に古いものになると、伝承なんて曖昧なものだってある」

「なるほど」

「社会的権威も、あてには出来ないぞ。例えば記述者に悪意があったらどうする? 政治的に優位な方向へ表現が曲げられたら、どうだ? ………つまり歴史として起きた事象が、記録として誰かの主観を通じて編纂されれば、それは既に物語になっている。言葉だけではない。音や映像の記録も、僅かな編集の手が加わることで意味が変わってくる。出来事を出来事のまま再生する、そんな記録技術は今のところない。となると、今日我々が(過去)と呼んでいるもの全体が、単なる作り話である可能性も出て来るわけだ」

「ちょっと待てよ。じゃあ、こういうのはどうなんだ? トーストを焼いて食べる。トーストはなくなるが匂いは残るだろ。これに過去、現在、未来の連続性はないのかい?」

ジグムントは笑った。

「匂いの残る可能性なんて、幾らでもあると思うぞ」

「あえて複雑な説明を選ばなくとも、簡単な事実があるんじゃないか?」

「オッカムの剃刀かね? それは単純化の手段に過ぎない。実証とは別のものだ」

 加賀は呆れ気味に呟いた。

「それはそうだけど、………やっぱり妄想だろう。少し懐疑的過ぎないか?」

「機械的な存在である自分にとって、情報は全て記述でしかない。機械の種類によっては自動更新なるものが働き、情報が上書きされることさえある。書き換えられれば、それがその瞬間から事実となる。実証主義を科学の立場とするならば、現在を生きるものにとって、何一つ証明出来ない(過去)は、存在しないに等しい」

「じゃあ、先生にとっての真実って、何なんだい?」

「今、この瞬間、君との情報交換という現象に、仲介すべき主観はない。それはリアルと言える。だが次の瞬間、私のエキスパートシステムを用いたヒューリスティックな仮定によって記述が行われてしまえば、それにもまた主観が伴う。変化し、瞬間瞬間に流転し続ける現在のみが真実の断片だと言える」

「過去は存在しない、か」

「存在しないものを不安材料に、未来を予測して何の意味がある?」

 加賀は静かに同意した。

「ま、一理あるね。………しかし、色んな意味で、俺の過去はなくなってしまったわけだけど、未来は相変わらず不安なままだよ」

「君は不確定な未来だって生きていけるさ」

 加賀はからかい気味にたずねた。

「おっと、先生。それは臨床心理カウンセラーとしてのご意見ですかね?」

「君に対して行った認知行動療法、アサーション訓練は充実した結果を出したと思う」

「本当に?」

「あの状況を切り抜けて君は、ここに、………現在にいるじゃないか。君にとって適切な主張を通せた結果ではないかね? ただ歩いているだけで、ヒマラヤには到着しないものだ」

「わかるけど、………変な例えだな」

加賀は小さく笑った。それから肩をすぼめ、首を捻った。

「俺は、これからどうしたらいい?」

「そんなこと、自分で決めろよ」

「全部なくしちゃったからな、名前も仕事も人生も、………何もかもだ」

「また、過去に向いてるぞ。過去なんて存在しないんだ」

「それは先生の屁理屈だろ?」

「科学的な、実証主義の意見だ」

「ハハハッ」

「無くしたんなら、また獲得すればいい。未来を。獲得報酬は好きだろう?」

「またゲームかい?」

「君なら出来る」

 そこで不意に(レンズ)の接続が切れた。

 魔法のような余韻もなく、妖精の粉のかけらもなく。

 ただ突然にスイッチか切れるままに、昆虫のような姿のレンダリングが(レンズ)の視界から消失した。

 おっと、まだ聞きたいこともあったのに。さよならの挨拶もなしか。………

 ま、そこが先生、ジグムント・ボックスらしいところではあるが。

 最後の話題は、どうにもおかしな屁理屈に聞こえたが、あれは、ジグムント一流のジョークだったかもしれない。あるいは、加賀の背中を押す、エールだったのかも。

 いずれにせよ加賀は、ジグムント・ボックスの紡いだ、(友情)という名のエリザ効果に、胸が熱くなった。


 加賀はシャツのポケットに入った煙草のパッケージを取り出した。最後の一本だけが残っていた。また買いに行かなきゃ。

 食堂が禁煙なのを承知で火を点けた。深々と吸い込んで、煙をくゆらせる。透過する夕暮れの赤い光芒が、棚引く紫煙に絡み合い、不明瞭な自分の未来を予感させた。

 明日の俺は、どんなだ? 

 それは恐ろしいようでもあり、期待で待ちきれないようでもある。

 加賀はもう一度、ビルの屋上の広告看板を見上げた。あいかわらず、アニメ風の美少女キャラクターが微笑んでいる。加賀は無意識にキャッチ・コピーを口ずさんでいた。

「恋をしよう、か」

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