第26話

 濃いブルーのワンボックスタイプのバンが東葛西七丁目の環七交差点付近を流している。夕暮れの迫る刻限、長く伸びるマンション群の影に明滅を繰り返しながら通過した。

 全ての窓はスモークフィルムで覆われており、中に蠢くおぼろげな輪郭すら見えない。ハンドルを握るのは北欧系の男性だった。車内には三人の男と一人の女。女は二十代半ばのアジア人で、手足を拘束帯で縛られ、猿ぐつわを嵌められている。

 運転席に赤毛、助手席にブロンドが座り、後部座席のダークブロンドの男はクロームシルバーのシガレットケースをいじっていた。顎髭と揉み上げに白いものが混じり、歳の頃は五十過ぎであろうか。左の額から瞼を横切り、頬の中程に届く裂傷痕が浮かんでいる。元々は右目と同じく青かったであろう左目は白濁し、憂鬱な呪いを刻んでいた。

 片目の男は縛りあげられた女、美島美登里を見降ろし、呟いた。

「お前の上司は、信用出来る男か?」

 美島は黒ぶち眼鏡の下から睨み上げた。

 男は手を伸ばし、女の口から猿ぐつわを降ろした。小振りな桜色の唇が濡れ、光っている。

「自分のことは自分で………何とかするわよ」

 小柄な美島の口から威勢のいい言葉がほとばしる。男はそれに満足した。

「アジア女もいいもんだな。人形みたいに可愛いが、口汚い」

 片目の男は、美島のブラウスの襟元から覗く、白く長い首筋を指先でなぞった。美島は押し殺した声で唸った。

「その汚い手を、どけなさい!」

「ハハハッ、悪かったな。………ま、それは後の楽しみだ。アジア男はどいつもこいつも痩せっぽちだ。どうせ相手にするならマッチョの方が良くないか?」

 美島は一つ深呼吸して言い返した。

「マッチョがどうだってのよ。このミドル脂臭の豚野郎。北欧至上主義なんてご時世じゃないんだよ」

「俺たちはナチじゃない」

「じゃ、その末裔?」

「お互い、偏見があるみたいだな」

「そうね」

 片目の男はシガレットケースを開け、茶色い細巻きの一本を取り出した。火を点けると胸糞悪い甘ったるい匂いの煙が立つ。男が言った。

「主義とか、理想とか、そう言うことには………興味ねえな。そう言うことは雇い主が考えるこった」

 男は美味そうに煙をくゆらせた。

「俺たちは俺たちの幸福のために働いている。つまり、………お前らのじゃない」

美島はじっと片目の男を見詰めた。

「あんたたち、ただの泥棒ね」

 片目の男は見えない方の眉を持ち上げ、面白そうに笑った。

「言えてるな」

 片目の男は、不気味な笑みを浮かべると、運転席の赤毛に聞き慣れない言葉で何事が呟き、小さく笑い声を上げた。

 ロシア語だか何だか、そんなスラブっぽい響きがあった。

(畜生、大猿野郎め!)

 美島は縛られたまま、下唇を噛み締め、心の内で悪態を吐いた。

 この状況、完全に緊急事態だよね? 

 悪い予感は的中し、自分は悪党どもの手の内に。

 夜中にコンビニへ、インストア銀行のATMを利用しに出掛けた、ほんの一時の出来事だった。近くで監視していたのか、店を出て、わずかに暗がりに入ったところで、ブルーのバンに拉致された。抵抗も何もあったものじゃない。この体格差じゃ、太刀打ち出来ないし、あっという間に鼻と口を塞がれて、いきなり気を失ってしまったのだから。テレビのサスペンスドラマで見る通りの手筈だった。何だかそのまんま過ぎて、ちょっと光栄なくらいだ。

 あの眠くなるの、あれってクロロホルム、とかいう奴? 

 こんな緊急事態、十九の時に、最初の彼氏と伊豆に旅行に行った時以来かしらね。あれから色々あって、私もすっかり大人になったけど、(………って、そういう事態とは事情が違うのよ、美登里。しっかりして!)

 美島は、混乱する頭を何とか整理しようと必死だった。

 連中の言葉の端々に、時々差し挟まれる英単語は理解出来た。美島は帰国子女なのである。日常会話とビジネス一般くらいなら問題なかった。

データの回収、国際諜報、レザビア共和国………、

 単語の概要が意味するところは、わかった。だが到底信じられない話である。自分が巻き込まれているのは間違いなく、あの首都圏大規模分散型火災に関係した国際問題だ。日進堂の営業マン、松田信彦の死亡もしかり。悪意ある第三者からの攻撃である。自分はその標的の一人というわけだ。

 夢でも見ているのだろうか。しかし、それにしては、片目の男に殴られた左の頬が痛い。

 加賀係長から届いたとされる、あの封筒。美島はその内容通りの作業をやり遂げた。そして、その結果がこのザマである。加賀係長は封筒に覚えはないといい、この大猿どもはそれに激怒して、おまけにひっぱたかれもした。

わけわかんないし、もう最悪。

(加賀係長の、馬鹿野郎!)

 でも、考えてみて。どうしてこの大猿どもの交渉相手が加賀係長なのよ? 私のために警察に届け出て、窓口を買って出たとか? まさか、あり得ない。

加賀さんに限って、そんな甲斐性あるはずない。誓ってもいい。そういうことは、一緒に働いていればすぐにわかることだ。

 となれば加賀さんも何処か、この大猿どもに敵対する勢力に囚われてると考える方が極々自然かも。オッカムの剃刀じゃないけどね。ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定すべきでない。

 どうだろう、悪い連中じゃないといいんだけど。

 加賀さんが、お台場で知り合ったとか言ってた、あの怪しげな会社の名前。クリーブ株式会社とか、ケルビム・メンタル・リサーチとか、その辺りの関係だろうか? 

 連中は、自分がゲーム機で埋め込んだ分割データを欲しがっているようだった。(エリュシオンⅡ)の断片だとか、何とか。

 大体(エリュシオンⅡ)って何よ? 

 物凄い剣幕で攻め立てられたから、宝探しのキーワードは吐いちゃったけど、だけど、それだけで簡単に見付けられはしないはず。埋め込みの範囲を、VRセールの十一月三十日号全体にしてあるから、捜索範囲のアイテム群は数千万にもなる。通話の口振りでは加賀さんにそのお役目が行くような話だった。加賀さんだってちょっと難しいかもね。大体、あの人、ゲームとか、そんなに得意じゃないだろうし。

 ともかく、データが手に入るまでは、私の命も無事だと思う。

 加賀さんには期待出来ないけど、背後にいる誰かさんには期待できそう。チャンスはあるかも。

 いや、きっとあるはず。

(私は、諦めないわよ)

 自分の事は自分で何とかする。それが私のモットーだ。今までだってそうしてきたのだから。

 第一、男にやられっぱなしなんて絶対、嫌。必ず、仕返ししてやるんだから。

 あらゆることを利用して、猿どもを出し抜いてやる。


 美島美登里は、拘束された不安の中、微かな含み笑いを漏らすと、可能性の一つずつを吟味し始めた。

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