第14話

 ユーリ・エフレーモフは、市街を巡る二両編成のトラム(路面電車)に乗り込んだ。

 今日は、天気がいいので、珍しく市の中心街まで足を運び、日用品と保存食品の買い出しに訪れたのである。トロリーポールが架線を擦る微かな振動とともに、赤いトラムは郊外方向へ発車した。

 油をひいたラワン材の床板に古臭いライムグリーンの内壁。シートは車体と調和した赤のビロード貼りである。軌道の連結部分を通過するたびに、丸い吊革がガクンと揺れる。車両を見回す限り、広告の類は一切見当たらない。

 座席には数名の市民が、穏やかな談話を交えながら佇んでいた。ティーンエージャーの女子が二人。読書にいそしむ中年男性。居眠りする老人。そして一組の若い家族。母親に抱かれた、青い花柄のワンピースを着た小さな女の子が、ユーリの方を見て微笑んだ。

 ユーリは座席に着くと、買い物で一杯に膨らんだトートバッグを膝に置き、窓枠に肘を突いて外を眺めた。

 にぎやかな中心街を出ると、石造りの風格ある建物が連なる旧市街に入る。

 歩道の隅には、取りこぼした残雪が汚らしく残っていた。狭い歩道を厚手の防寒着を着込んだ歩行者が行き交っている。街路の要所要所に立つ、アサルトライフルを構えた歩哨の姿。壁面に点々と残る銃弾の傷跡が、この街の忌まわしい歴史を物語っていた。

 解放軍の実力行動により、独立を勝ち取った後も、新憲法を巡る激しい政治抗争、暫定行政に対する武装反対勢力の内紛。度重なる戦闘にこの街は疲弊していた。静けさを取り戻した現在も、新興財閥の行政介入によって政治腐敗は続いている。

 そうした出来事も、ユーリにとっては関係のない変化だった。ユーリが自国の行く末に心を砕いたり、興味を持ったことは一度もない。人伝に聞いた知見が、そうした印象だったというに他ならない。

 トラムは川に差し掛かり、ソリッドリブ2ヒンジアーチ橋を渡った。渡り切った東詰の街路の片隅に、小さな人だかりが目立っている。数人の若い少年グループが、路上で老人を袋叩きにしていた。老人が取り落とした紙袋が石畳に弾け、砕けたガラス片とジンの滴りに変わる。通りに立つ戦闘コートの歩哨は、その様子に振り返りもしなかった。消火栓に繋がれた小型犬を足蹴にして、いじめるのに夢中だったのである。犬が興奮して唸り声を上げると、歩哨は面白そうに、その脇腹にブーツのつま先を蹴り込んだ。

 ユーリは視線を逸らすと、天井を向いて目をつむった。車両が通り過ぎ、景色が変わるまでそうしておこう。自分には関係のないことなのだから。


 ユーリは多くのことを締め出してやって来た。四十年の長きに渡って。

 人に関心がない。家族に関心がない。食べること、着ること、住むことは、生きて行くための最低限で事足りた。自分を取り巻く社会全てに背を向け、ユーリは今日まで生きた。

 学校を出た後、仕事に就く事もなく、与えられた小さな山小屋で過ごしてきた。家族からは、治る見込みのない心の病いを抱えた、やっかいものとしてうとまれた。

 そもそもエフレーモフの一族は、下級貴族の血筋で裕福であり、それゆえに赦された自由でもあった。家督は弟のイワンが継ぎ、家業である広大な農園事業に采配を振っている。

 ユーリには年に数回、一人身にしては十分すぎる、まとまった金額が振り込まれていた。そんな生活ならば、持てあますほどの大金である。

 にも関わらず、ユーリは数年前、金銭的な苦境に立たされた。

 道楽や無駄遣いの類ではない。研究が一時、頓挫しかけたのである。

 応用科学の分野では、各方面の新しい基礎研究の成果が、進捗を大きく左右することがある。まして、個人で続けるには、それ相応の資金繰りも必要だ。その頃ユーリには、どうしても越える事の出来ない、幾つかの基礎研究の課題があり、その成果を是が非でも入手する必要があった。これをクリアしない限り(エリシュオンⅡ)が日の目を見る日は来ない。

 そんな折、アジア人バイヤー、カトーは現れた。

 朝も早い時間から裏口にノックがあり、覗いてみると、無精髭を生やした若いアジア人が、立っていたのである。

 カトーは世界中の企業や研究機関、投資家を繋ぐ、ある種の(コーディネート)を生業としていた。埋もれている金の卵を選別し、そこに新しい化学反応を起こさせるのため、自分は世界を股に掛けている、カトーはそう言った。彼に言わせれば、今は個人研究家こそ、金の卵なのだと言う。今週はスカンジナビアを東に流れてきたのだと言い、髭面の顎に、胡散臭い笑みを浮かべた。

 ユーリは、アジア人の読めない視線を避けながら、恐る恐る自分の研究を語った。その何処にカトーが惹かれたのかはわからない。彼はじっと傾聴した後、慎重に言葉を選びながら、援助を申し出たのである。彼が提示した額は驚くほど安いものだったが、基礎研究の買い取りには十分という、絶妙な数字だった。加えて、その研究機関との橋渡しも手助けしようと持ち掛けられたのだ。

 外国の、言葉もわからぬ国の研究機関を訪ね、交渉するなど、個人研究家にはどだい無理な相談である。そもそも相手にもされないだろう。ユーリには喉から手が出るほどの、甘い申し出だったのである。

 カトーは明らかに裏の世界を生きる人間だった。だが、断る理由は見当たらない。ユーリは自分の研究に対する報酬、手元に入るべき金額の全てを、基礎研究の買い取りに当てた。ユーリは研究が買い叩かれようが構わなかった。(エリシュオンⅡ)が完成すること。それこそが彼の悲願だったのだから。

 数週間のうちに、カトーは(コーディネート)を完了し、基礎研究はユーリの元へ。そして研究はつつがなく再開された。

 ユーリにとって、それは初めての冒険だった。

 あれから数年。カトーが再び現れたのは、四カ月ほど前のことである。ユーリの研究に買い手が着いたらしい。東アジアの小国のベンチャー企業だという。研究は一年前に完成していた。シミュレーションでの動作試験は、問題ない。後は大きな計算資源を使って起動させてみるだけだった。レザビア国内では、ネットワークに厳しい監視と使用制限が置かれているので、計算資源の自由な利用は難しかった。

 国外での起動が必須となる。ユーリはこの時を待ちわびていたのである。

 いよいよなのだ。


 彼は一人、孤独の中で、論理と数学にいそしんできた。

 他に必要なものはなかった。いや、それを思い付くだけの経験が、ユーリにはなかったのである。

 この世界が自分にしてくれることは、ない。

 この世界に自分がしてやれることも、ない。

 何も、ないのである。

 日々、無感覚になっていく絶望をユーリは危惧していた。この居心地の悪い冷たい待合室のような違和感が、慢性的に知覚を蝕む病根であると確信していた。何より恐ろしいのは、その意味のない連続する繰り返しに、次第に馴らされてしまうことである。

 自分にはエリシュオンしかない。

 そうなのだ。

 理想郷を求めよ。

 それが唯一の希望なのだから。


 ユーリが目を開くと、幾分か辺りが暗くなったように感じた。日差しが遮られたようである。トラムの車内は、車窓から臨む曇天の雲行きを背後に、薄暗い無彩色の影に包まれている。つい先ほどまで、楽しそうに囀っていたティーンエージャーたちの声が途絶え、車内は重苦しい沈黙に閉ざされていた。まるで査察官の抜き打ちの立ち入り検査でも始まるような、張り詰めた空気である。

 天井から届く、トロリーポールの架線を擦る響きだけが木霊している。軌道の連結部分を通過するたびに、丸い吊革がガクンと揺れる。

 座席に着いた人影は動かず、フレームの中の静止画ように平板に見える。

 そこでユーリは気付いた。

 見えるのではなく、彼らは静止しているのである。

 呼吸すらしていない。

 良く良く眼を凝らすと、車窓から差し込む光の加減にも、乗客の陰影は影響されず、刷り込まれた立て看板のようなモノクロームの映像だと気付かされる。仔細に検分すると、イメージはそもそもが露出不足であったかのように、増感処理を施されていた。荒い微粒子を浮かべ、不安定な色むらも見て取れる。

 ユーリは恐る恐る腰を上げ、目の前の座席で居眠りをする老人に手を伸ばした。肩口に届こうとした瞬間、車両の前方で動きがあった。

 一組の若い家族。夫と妻の間に座っていた、小さな女の子が突如、立ち上がったのである。

 乗車の折、ユーリを見て微笑んだ子供だった。

 彼女には曖昧だが、色彩があった。量も感じる。

 青い花柄のワンピースを着た少女は、立ち上がると同時に、幾分か背格好が伸びたように思われた。十四、五歳くらいだろうか。大人へと向かう挟かいの、細く華奢なシルエット。すらりと締まった肉体には、思春期の兆しも伺える。

 白く透き通るような首筋にブルネットの艶髪。わずかに首を傾げると、柔らかそうな唇が覗いた。少女は振り返ると、ユーリを見た。


 オルガ。


 息が止まった。

 灰色の瞳がユーリを見詰めている。その唇から声が発せられることはない。それをユーリは良く知っていた。少しも変わっていないその姿に、ユーリは狼狽した。

 四十年待った。

 そうだ、四十年だぞ。

 少女の唇が、口ずさむように動き、ユーリはこれが夢であると確信する。

 彼女が喋ることはないからだ。

 決して。

 だが、ユーリは必至でその唇を読み取ろうとする。言葉はすぐにわかった。


(さようなら、ユーリ)


「待って、………待ってくれ!」

 少女はユーリに背を向け、車両の連結部に向かった。彼女を追いかけるには余りに年老いてしまった己を感じながら、席から立ち上がる。膝に載せたトートバッグが転げ、床板に品物が散らばる。

 跳躍するリンゴジャムのボトルが、スローモーションで流れていく。

 踏み出す両足が、床板にからまるように重い。身体を引きずりながら、ユーリは必死に少女に追いすがった。

 少女は連結部に佇み、もう一度ユーリを振り返る。そして扉を開け、      

 落下した。

 その先に、次の車両はなかった。あるのは暗がりで、息苦しい闇が口を開いていた。

(オルガ!)

 ユーリの伸ばした腕の先を、すり抜けていく小さな手。しかし、捕まえることは出来ない。それは最初からわかっていたことだ。

 海底に吞まれるごとく、少女は落下した。

 ゆっくりと、厳かに。

 霞が視界を閉ざしていく。

 見えなくなる最後の瞬間、少女はユーリを見て微笑んだ。しかし、その視線は定まらず、どこでもない彼方を見据えているようで、それがユーリを、冷酷な疎外感で打ちのめした。


(初老男の、悲痛な絶叫)


 夢は覚めなかった。

 悪意ある闇は、底知れず、………

 深く暗い。

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