第22話

 美島美登里は一人、マンションの一室で震えていた。

 連日の報道が伝える、東京駅での発砲事件と首都圏一円の大規模分散型火災。その中には中央区日本橋も含まれていた。美島の勤める日進堂も、そのオフィスビル群炎上の中に消えたのである。

 最初の報道では火災だった内容も、現場検証が進み、事実関係が明らかになるに連れ、テロリズムの可能性が濃厚になってきている。

 既に、東京都国民保護対策本部による事態対処が始まっていた。東京都国民保護計画の第四章、「武力攻撃等への対処」という項目によると、法令上は、都対策本部の組織及び運営は、「国民保護法」、「東京都国民保護対策本部及び緊急対処事態対策本部条例」(平成十七年東京都条例第一八号)、「東京都国民保護対策本部及び緊急対処事態対策本部条例施行規則」(平成十八年三月制定)、「東京都国民保護対策本部等運営要綱」(平成十八年度制定)に基き施行される。

 対策本部長は東京都知事である。政治家として、この状況を手腕発揮の好機と捉えるか、最悪な事態と捉えるかは、本人資質によるところであろう。

 未だ明らかにされない見えない(敵)の輪郭が、日本国内に不穏な影を落としていた。

 

 私は、あの時あの場所で死んだのよ。………少なくとも記録の上では。

 クリームイエローのソファにそっと身を起こした美島美登里は、ブランケットを手繰り寄せ、震える手でテレビのリモコンを押した。恐ろしくて聞きたくもないのに、またしても付けてしまう。事実を追わずにはおれないのだった。美島は耳障りな音量をぎりぎりまで下げ、薄暗い部屋の中で液晶画面に食い入る。

 フレーム眼鏡を外すと、二十五歳にしては幼顔の美島だが、さすがにここ数日の疲労の色は隠せない。瞼の下に薄く青い隈が出来ていた。

 あの日、美島は午後からの校正作業をさぼり、商圏リサーチと称して、デパートの旗艦店めぐりをしていたのだった。表向きの目的は年末商戦のリサーチ、だが実際のところは、ブランド物バーゲンを買い漁りに出向いたのである。いわゆる (自主サボリ)だ。事務の女の子にちょっとだけ話をして、小物を一つ二つ買ってくる約束をして、会社を抜け出した。ホワイトボードにメモすら残さなかったと思う。数時間出掛けて、戻るつもりだったのだから。

 だが午後六時を過ぎた頃、都内全域で緊急車両が駆け回り始めたのである。異例の事態だった。会社に連絡を入れたが繋がらず、そのまま交通規制の中、ここまで帰ってきてしまった。

 帰るのは大変だったけど、自分は巻き込まれなくてラッキー、最初はそんな程度の理解である。だが報道が進むに連れ、事態の深刻さが見えて来た。日進堂の入居っているオフィスビルの全焼が伝えられ、死亡確定者リストが現れたところで背筋が凍った。

 美島美登里。自分の名前も含まれていたのである。

 同僚や上司の名前が次々と表れた。制作係長の加賀洋輔の名前もあった。最後に話をした事務のコも。………行方不明者として上がる名前もあったが、状況は絶望的だ。

 自分の知らないうちに、自分の良く知っている世界が、崩れ去ったのである。

 自分があの場にいなかったということ。ここが、他人の知らない彼氏の部屋だということ。加えて、数年前から、実家と連絡が途絶えているということ。

 全てが美島を、負の方向へ後押ししていた。ちょっとした自分勝手のせいで、己の所在すら消えてしまったのである。

 一日目は、ただただ驚愕して、何をするにも手付かずの状態で過ぎてしまった。しかし問題が大きくなったのは翌日である。報道番組の中で、会社の同僚である、営業マンの松田信彦の死亡が伝えられた。死因は不審死である。松田の遺体が発見されたのは出張先の仙台だった。ビジネスホテルのバスルームで溺死。ホテル従業員の談話によると、明朝一番の新幹線で東京に帰る、と話していたそうだ。

 この松田と良く似たケースが、近隣県下で何件か取り上げられた。首都圏火災で焼失した企業の中で、クリーブ株式会社とケルビム・メンタル・リサーチという会社で、同様の不審死が挙げられたのである。一つは神奈川、一つは茨城で。こうなるともう事故ではなく、事件の扱いである。美島はあらためて状況を客観的に捉えてみた。

 誰かが狙いを定め、しらみつぶしに人を殺している。

 そう、思う。

 火災に会った企業はいずれも情報関連の会社である。日進堂もしかり。クリーブ株式会社とケルビム・メンタル・リサーチという名前もどこかでうっすら聞き覚えがあった。そうだ、加賀係長がお台場の展示会で名刺交換したとか何とか………。

 不安がこみ上げて来て、胸の奥でしこりのように固まる。

 私も、狙われてる? 

 何だかわからない理由で? 


 美島はそっとソファから起き出し、昨日沸かし直して、またまた冷めてしまったブラックコーヒーをカップに注いだ。あー、なんだか胃が悪い。馬鹿みたいにでかいユニオンジャックのマグカップは、飲み口が一か所欠けていて、何とも貧乏臭い。

 テレビの上に目をやると、青地に黄色い潜水艦の図柄のビートルズのポスターが見えた。その空周りする陽気さが不快になり、後ろを振り向くと、今度はユーリズミックスのビッグブラザーと目があって、ぞっとする。

 優しくて大好きな彼との思い出が、こうも神経を逆撫でするとは、美島は思いもしなかった。

(イギリスが、どうだっていうのよ!)

 と、意味不明な憤りがこみ上げて来る。

 美島は(リサとガスパール)がラインストーンでデザインされた、可愛らしいアンティーク端末を手にすると、(レンズ)に同調させ、彼氏の番号を選択した。

 呼び出し音に続き、(お掛けになった番号は……)の悲しいアナウンス。この数日で三十回も聞いただろうか。連絡を取ろうにも、そもそもケータイが繋がらない、海外僻地への出張中とあっては、どうしようもない話である。

 美島は、じっと端末を見詰め、それから深呼吸した。

(落ちついて、美登里。あんたがやることは一つ。このままじっと静かに身を潜めて、全部が収まるまで待つの。幸い、自分は死んだことになってるし、この場所を知ってる者もいない。これは好都合なのよ)

 美島は、そう結論付けた。みんなには悪いと思うけど、今は自分が大事。じっとここで堪えて嵐が過ぎるのを待とう。誰だって、そうするのよ。………きっとそう。

 私は間違っていない。

 黒ぶちの伊達眼鏡を掛けると、少し気分が落ち着いた。昨日からシャワーも浴びてない。ちょっと化粧でもしようかな。

 美島は華奢な身体で小さく伸びをすると、着替えを取りに寝室に向かった。


 バスルームで髪を乾かし、化粧ポーチを持ってリビングに戻った。

 飲みかけのマグカップに手を伸ばすが、そのまま取り上げて観葉植物の鉢に開ける。あらためてお湯を沸かして、………そうだ、紅茶でも淹れよう。確かバニラフレーバーの美味しいのがあったはず。

 美島は彼氏の仕事部屋から、縁にカットグラスのような凝った細工のある鏡を持ち出すと、リビングテーブルの上に鎮座させた。そこでじっくり二十秒ほどスッピンの自分をあらためる。

 うわぁ、目の下隈出来てる……。

 微かな衝撃と落胆を覚えながら、ベースメイクに取り掛かった。化粧水・乳液・下地クリームとファンデーション。最近買い直したこのファンデは結構気に入っていた。自分の肌色に近いし、健康的に見える。

 続いてアイメイクに取り掛かった。先端にあるパウダーがついたチップで、眉頭を中心に色をのせはじめたところで、玄関の方から物音がした。

(ジィーッ)

 何か薄いものが、隙間から差し込まれるような、………そんな音だった。

 ドキリとした。

 美島は手を止め、耳を済ませた。誰かが遠のいて行く、微かな衣擦れも聞こえた気がした。このマンションはエントランスに非接触キーのセキュリティロックがあるので、部外者の侵入は難しいはずだ。では、ここの住人? ………いやいや、自分も彼氏も含め、ほとんどと言っていいくらい、隣近所との付き合いはないのである。

 美島は恐る恐る、玄関口に向かった。

 壁際から短い通路を挟んで、濃いブルーグレイの扉が見える。自分のパンプスと彼氏のリーボックが並んだ土間床に、長四号サイズの茶封筒が顔をのぞかせていた。

 美島はしばし躊躇したが、単なるマンション自治会の案内かもしれないと思い、封筒を手にした。

 近頃では百円ショップでもお目に掛らない、愛想のない封筒だった。切手が貼られておらず、料金別納郵便でもない。彼氏の名前に続いて、『………方、美島美登里様』と宛名書きがある。裏返して見ると、左隅に差出人の名があった。

 加賀洋輔。

 えっ? 

 加賀さんが? 

 美島は手のひらが汗ばむのを感じた。

 ニュースで死亡者リストに名前が出てたはず。もし、万が一、自分のように何かの偶然で生き残ったとしても、この場所を知っているはずはないのだ。

美島は慎重に手触りを確かめた。封筒の感触から、中身ははさほど厚いものではなかった。少なくとも依願退職の書類じゃなさそう。………不安と不吉さに苛まれながらも、美島は自分の好奇心に打ち勝てなかった。ペーパーナイフで封を切り、中身を振り出す。テーブルに落ちたのは、小さなプラスチックチップと折りたたまれた紙切れが一枚。

 プラスチックのチップは紺色の64GBのSD‐RAMだった。恐る恐る紙切れを開くと中央に小ぢんまりとした手書きの文字で、こう記されていた。


『SD‐RAMのデータを、安全な場所に隠して。

データを隠したら、チップを燃やして。コピーした通信機材も必ず処分すること。

頼む』


 何、これ? スパイごっこ? 

 美島はじっと文面を見詰めた。この筆跡が加賀係長のものなのか、正直自分には判断できない。でも、この文章の語り口は、どこか違うような気がする。空々しい違和感というか、そんな感じだ。

 美島は右手の紙切れと左手のSD‐RAMを、まるで重さでも知ろうとするように交互に眺めていた。


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