第36話 見てみたかったんだ
にぶい音とともに歓声のような、ため息のような声が上がる。
追い込んでからのカーブをバットに当てられた。
前の回盗塁アウトがあったため、二番打者の福井が再び打席に立っている。
かろうじて当てたファールだったが、今までは空振りを奪っていたカーブを当てられたのだ。
それは沙織の疲労がたまってきているというより、相手打者の気合が上回っているような状態だった。
試合に勝ちたいのは沙織たちだけじゃない。フェアリーズの面々だって同じだ。むしろチームメイトが不測の事態でひとり抜けた今、その思いは彼らたちの方が上かもしれない。
沙織は呼吸を整えながら、ちらりと一塁に目を向ける。
いつもなら神子と目が合って、力づけてもらえるのだが、千代美の場合不安でしかなかった。
(……大丈夫。とにかく集中しないと)
気持ちを整えて、外角低めに直球を投げ込む。
福井が打ち返す。
打ち取った、ショート正面のゴロだった。
沙織はほっとして打球の方向に目をやって、ぎくっとした。
何気なくボールを処理した銀河が同じような顔をしたからだ。そしてその理由にも気づいた。
ファーストを守るのは千代美。いつもはある程度送球がばらけても捕ってくれる神子ではない。銀河が明らかに引きつった表情のまま、見てわかるくらい緊張した様子でボールを一塁へ送った。
ふわりと緩めに投げられたボールは、一塁ベースの上にちょこんと足を乗せて胸の前に構えられた千代美のグラブに、無事ぴたりと収まった。
ほかの内野陣からも、ほっとした息が伝わってくるようだった。
☆☆☆
「よしっ……じゃなくて、えっと……えーと」
ベンチの横に座った神子の反応を見て、源は笑った。
「ははは。無理してこっちを応援しなくてもいいんだぞ」
「いや。ダメだよ。今のボクはフェアリーズのメンバーなんだから!」
神子がぷんと、頬を膨らませた。
こういうところは中学生の頃から変わっていない、と源は思った。
「けど良かったのか? 俺だって簡単に負けるつもりはないけど、あっちのチームで勝つ瞬間に一緒に立ち会えなくて。初勝利なんだろ?」
「う……うん。それは確かに考えたけど」
神子が少し悩んだ様子をみせたけど、正直に口にした。
「ボクにとってはどっちのチームも大事だから、最後まで試合を続けたかったし、さおりんと勝負したいというのもあったけれど……けどそれだけじゃなくて、見てみたかったんだ。みんなが試合をしている姿を、こうやって相手チームとして」
「なるほどな」
高校で新たに野球部を作るからと宣言して、商店街のチームを辞めた神子。
彼女を見ているとぱっと見は分からないが、一からチームを作りだしたくらいだし、きっといろいろな苦労があったんだろう。
そうして出来上がったチームが神子の目にどうやって映っているか。
それをあえて聞くほど、源も野暮ではなかった。
☆☆☆
福井を打ち取って、ほっと一息ついた沙織だったが、まだ試合が終わったわけではなかった。むしろ、三番、四番を迎えるここからが正念場だ。
小学生時代チームメイトだった正木が右打席に入る。
当時は沙織の方が背が高かったのに、今では彼の方がずっと体格が良い。
前の打席も打ち取ったとはいえ、とおるのファインプレーに助けられた形だった。
けれどあのときはかわすピッチングだった。
今度こそ、真っ向勝負。
沙織は身体を沈めるように思いっきり右足を踏み込んで、直球を投げ込んだ。
高めの直球。
初球から正木はバットを振ってきた。
やや振り遅れのファール。
二球目。
思い切って内角へのストレート。
正木がやや身を引いて見送る。
ぎりぎりストライクゾーンをボールが通って、ストライクがカウントされた。
(……やっぱりすごいな)
ストライクのコールを聞きつつ、正木は頬が緩むのを感じていた。
たった二球で追い込まれてしまった。
直球で真っ向から押してくるピッチングは昔のイメージのままだ。
それが分かっているのに、初球は振り遅れ、二球目は手も出なかった。
けれど、まだ一球ある。
バッテリーを組んでいたので、それなりに彼女の性格は分かっているつもりだ。
遊び球はあまり好まない。そして、ここぞの決め球は――
捕るのに精いっぱいだった憧れのボールをイメージして待つ。
そして体重をしっかりと残したまま、鋭く落ちてくるカーブを思いっきり引っ張った。
抜群の手ごたえとともに、快音が響いた。
レフト方向へと高く上がった打球。
定位置で守っていた球子が必死に打球を追っていく。
飛び込むように手を伸ばした球子のグラブのわずか先に、ボールが落ちた。
塁審が手を広げた。
レフト線へのファールだった。
会心の当たりだったが、タイミングがやや早すぎた。
「……くぅぅ……」
正木はバットを杖にするようにして身体を支えながら軽くうめいた。
もう一度同じボールを打てと言われても出来ないだろう。せっかくの当たりだったのに、ほんの少し、気持ちが先走り過ぎてしまった。
正木は気を取り直してバットを構える。
次のボールは高めに外れるストレートだった。
さすがに一球、間を挟んできた。
おそらく次が勝負球。
ストレートか、カーブか。
先ほどの当たりを見て、またしてもカーブで勝負が来るだろうか?
ストレートなら投げ込むコースは?
そして沙織が投げ込んだのは。
(――ストレート!)
……ではなかった。
小学生時代のことは正木にとってはいい思い出だったかもしれないが、沙織にとっては辛い思い出でもあった。
だからこそ沙織が選んだのは、小学生時代とは違うということを彼に見せるためにも、この大会のために新たに取り組んだ新球……チェンジアップだった。
正木は完全にタイミングが崩されていた。
かろうじてバットに当てたが、ファールで逃げることもできず、一塁へのゴロになってしまった。
正木は一塁に向かって走り出した。
平凡な内野ゴロだ。一回のときと同じように、またしても打ち取られてしまった。
けれど正木は不思議と満足していた。
初回のかわすピッチングと違って、真っ向からぶつかった結果だった。
ストレートやカーブに比べたら付け焼き刃なチェンジアップにあっさり引っかかってしまったのも、他の球種の威力があってのことだ。
つまり自分の完全に負けだった。
そう思いながら一塁に向かって走る正木は、その先の光景に驚いて思わず目を疑ってしまった。
「先生っ?」
葵の声が響く。
「……ふえぇ?」
一塁手の千代美は、ぼーっと一塁ベースの上に立ったままだった。
ボールを捕球しに動こうとしない。
今まで試合を見ていたにも関わらず、千代美の知識では一塁手は送球されたボールを一塁で捕るのが役目だと思って、ベースから動こうとしなかったのだ。
「ったく、なにしてるのよっ」
椿姫が回り込んで、外野に抜けそうになったボールを何とか抑えた。
けれど、そのときにはもう、正木は一塁に達していた。
「迂闊だったわ……」
マウンドに出見高の選手が集まった。
千代美は一塁が守れるのではなく、本当にキャッチボールくらいはできる、だったのである。その他の守備はからっきしだった。
一塁手はただ内野ゴロで送球されたボールを捕るだけではない。やることは思ったより多い。ランナーが一塁にいたら、なおさらだ。
「……仕方ないわね。先生には外野に行ってもらいましょう」
「え~っ。先生、左遷なの~?」
葵の言葉に、千代美が声を上げる。
「左遷、というよりは、右遷ね」
葵が訂正して、集まったみんなに説明する。
千代美はライトへ回る。この後の打順はずっと右打者が続くので、外野の中ではそのポジションが適任だろう。
ライトを守っているあんずはセンターへと回り、センターの清隆が千代美の代わりにファーストを守る。
「付け焼き刃だけれど、あんずの俊足と谷尾の長身を考えたら、これが適任だと思う」
「まぁ、妥当な判断だろうな」
というわけで。
千代美はまだ納得していない様子だったが、他のみんなは葵の指示を選び、千代美は外野へと行き、代わりに清隆が内野へとやってきた。
なぜか清隆の目は輝いていた。
「……ふふふ。すべては計算通りです」
「計算?」
「はい。女性陣の中では唯一食指が動かない幼なじみの神子を追いやって、パラダイスなポジションである一塁の後釜に座る。見事な展開なのです」
「え、えっと……偶然、ですよね?」
たぶんそうだと思いたいが、実際にそこまでやりかねないと感じた沙織だった。
「ふふふ……今ならどんな好プレーでも出来そうな感じです……」
「……は、はぁ」
いずれにしろ、やる気になっているのはいいことだと思って沙織は納得した。
マウンドから見える一塁の光景も千代美よりは頼りに見えた。
試合が再開し、沙織は打者と対峙した。
(……ランナーが出たから、神子ちゃんまで打順が回る……けど、今はこの人を抑えないと)
四番の桐生。
最初の対戦ではかわすピッチングをしたとはいえ、簡単に打たれてしまった。
前の打席はそのイメージを逆手に取れたのか、強気に攻めて三振を取れた。
けれど初めから沙織の全力投球を意識しているこの打席は、前のように簡単にはいかないだろう。
葵のサインにうなずいて、沙織は初球を投じる。
初球はアウトローへのストレート。
見送られてボールとなった。
二球目は、対角線上に、インハイの直球。
今度はストライクがコールされる。
桐生のバットは動かない。
さきほど三振に倒れたカーブを待っている、そんな表情を沙織に向ける。
待たれているのは感じたが、ストレートを三球続けるのも危険だったので、あえてその勝負に乗り、一番自信のあるカーブを低めに投げ込んだ。
桐生が大振りして空振りする。
気合が空回りしているのか、タイミングが合っていない。
桐生が悔しそうな表情を見せている。
追い込んだ。
もう一球続けようと思ったが、葵の要求は様子見を兼ねてか、一度外へはずす直球だった。
投げ急ぎは良くないと、沙織もうなずいて、その通りにボールになるストレートを投げた。
コースは葵の構えた通りのボール球。
だが桐生は思いっきり左足を踏み込むと、身体を伸ばすようにして、そのボール球にバットを合わせてきた。
「――えっ?」
追い込まれてから、桐生はチームバッティングに切り替えてきたのだ。
バットの先ですくい上げるように打ち返された打球はふわりと一塁手の頭を越え、ライト手前へと飛んでいく。
代わったところに打球が飛ぶという格言通り、ライトを守るのは千代美だ。飛んでくる打球におろおろしているが取りに行く様子はない。
一塁ランナーの正木は、二塁ベースをすでに回ろうとしていた。
そして打球がグラウンドに落ちる寸前――その下に、グラブが差し込まれた。
「――谷尾っ!」
清隆だった。
一塁ベースについていた清隆がいつもの1.5倍くらいの脚力を見せ、ライト前の打球に追い付いたのだ。宣言通りの好プレーだ。
同じく打球を追っていた椿姫が彼の名を叫ぶ。
清隆は倒れた体勢のまま、ボールを椿姫に放る。
それを受け取った椿姫は、駆け寄った勢いのまま思いっきり腕を振り抜いた。
一塁には、沙織がベースカバーに入っていた。小さい身体を精いっぱい伸ばして椿姫の送球を受け取ろうとする。
飛び出していた正木も懸命に一塁へと戻ってくる。
ボールが沙織のグラブに届いたのと、正木が一塁ベースに頭から戻ったのは、ほぼ同時だった。
二人がそのままの体勢で固まっている中、一塁塁審が大きな声とともに右手を上げた。
「――ナイスプレイ」
一塁ベースに手を乗っけた正木が口惜しそうに、けれどどこかすがすがしい表情を沙織に向けた。
同年代の男子に間近で見つめられて、沙織は試合中にもかかわらず、頬が熱くなるのを感じた。
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