第35話 ――なめるなっ!

 五回の裏。出見高の攻撃。

 この回の先頭打者である沙織が打席に入った。

 まだ一点差、先頭バッターということもあってか、マウンドにいるときのような気合いで、源のボールに食らいついている。

 それをベンチで応援しつつ、神子が感心したように言った。

「さおりん、すごいよね」

「ええ」

 神子の言葉に葵はうなずいた。

 決して上手くはないけれど、何とか塁に出ようとする気合いは伝わってくる。普段のバッティング練習では見られない光景だ。

「今のバッティングもそうだけど、本気になってからのさおりんのピッチングも。……実は、ボクがエラーしちゃったのって、さおりんのピッチングに思わず見とれてて、打球の反応に遅れちゃったからなんだ」

「……あまり誉められた理由ではないわね」

 葵は苦笑した。

 けれど同意できる部分もあった。

 沙織のピッチングを見るのに、キャッチャーほどの特等席はないと思っている。けれど、別のところから見るのはどのような感じなのだろう。

 捕手にはボールを受け止める動作がつきまとうので、じっと見とれるわけにはいかないが、内野手なら投げ終えた最後まで見ていられる。もっとも、神子はそれが原因であのような守備をしてしまったと言っているが。

「分かるっす! 球ちゃんも外野じゃなくてもっと近くからお姉さまのピッチングを見てみたいっす」

「うんうん。だよねー。ボクもさおりんと勝負したいなーって」

 神子がうなずく。

 ただ見るだけでなく、打者として勝負したいというのが神子らしい。

「すればいいじゃない。練習で」

「うーん。練習じゃなくって、試合の中で打席に立って勝負したいんだ。やっぱり雰囲気や気合いがぜんぜん違うし」

「あ、それ俺も分かるなー」

 銀河も同意する。愛しの神子ちんに合わせた感じではなく、本心から言っているようだった。

「神子ちん、実は今からでも向こうのチームに移籍して……なんて考えてたりして? 元チームメイトなんだし」

 銀河はもちろん冗談のつもりで言ったのだが、その言葉に、神子がぴたりと止まった。

 その分かりやすい反応に、みんなの視線が神子に集まる。

「や、やだなー。負けたら部がなくなっちゃうかもしれないのに、そんなことないって。ボクは部長なんだし」

 神子が笑って、周りからほっとした空気が流れる。

 その言葉に偽りはないだろう。

 だが銀河の冗談に示した反応もまた、本心からきたものだろうと、葵は思った。


 沙織は見逃しの三振に倒れて、がくっと下を向いていた。



「ナイスファイト。……ったく、あんたはピッチングのことだけ考えていればいいのに。これでバッティングまで上手くなったら、私の立場がないじゃない」

「は、はは……」

 椿姫の言葉に、すれ違った沙織が曖昧な笑みを浮かべた。

 沙織は今の言葉を、椿姫なりの励ましや賞賛と思っているのかもしれない。もちろんそれも含まれている。

 だが実際には、椿姫の本音をそのままぶつけたようなものだった。

 さすがにピッチングでは勝負にならないだけに、打撃では負けたくなかった。

 それはさておき、この場面である。

「一人でも塁に出れば、ランナーがいる状態で神子に回る。この打席は重要……」

 椿姫は自分に言い聞かせるようにして打席に入った。

 試合ももう五回に入った。炎天下の中投げ続けて、相手投手にも疲労が溜まってきているはずだ。あの沙織に粘られたのも、球威が落ちてきているのが原因かもしれない。

 九番の投手に予想外に粘られたあとに迎える次の打者。

 前の二回の打席で、球数を稼がせようというバッティングや小細工をしてきた。

(それを考えたら、初球は必ず甘い球でストライクを取りに来るはず)

 あくまで自然に、相手投手や捕手に悟られないようにしつつ、椿姫はバットを握る手に力を込める。

 初球。

 向かってきたのは、やはり真ん中のカウントを取りに来るストレート。

「――なめるなっ!」

 椿姫は思いっきり左足を踏み込み、力の限り上からボールを叩き潰すかのようにして、バットを振り切った。

(ただ粘ることしかできないバッターと思ったら、大間違いなんだから!)

 快音とともに、鮮やかに三遊間を抜けていく打球を目で追いながら、椿姫は気を吐いて、一塁へと駆け出した。



 一死一塁。

 さすがにここで送りバントの指示は出なかった。

 にもかかわらず、あんずは初球、バントの構えを見せた。

 内野があんずの俊足を警戒して前に出る。

 あんずはボールに当たる直前で、すっとバットを引いて、ボールを見送る。

 ボールがカウントされる。

 あんずは沙織や椿姫と違って、高校から野球を始めた素人だ。

 けれど野球を見るのは好きで、テレビやネット、実際に球場に足を運んで、試合を、選手の動きを見てきた。

 野球に関する知識なら自信はある。そもそも知識の分野ならトップクラスである。

 あんずは相手の守備位置を確認して、作戦を練る。

(……私の足を警戒してか、ゲッツーシフトではない。内野に転がせば、二塁は諦めて、一塁をアウトにしてくる)


 二球目はカットボール。

 見送って、今度はストライクがコールされた。


(結果的には進塁打になるけれど、それでは不正解。一塁が空けば、神子はおそらく敬遠。四番との勝負になる。ランナー一塁で神子勝負の方が、長打で生還できる可能性が高い)

 銀河には失礼だが、あんずなりの分析である。

 ベストは一二塁の形に持って行くことだ。

 粘って四球。もしくは甘い球を打ち返して外野へのヒット。内野ゴロには気をつけないといけない。

 そう結論づけて打席に立ったのだが。

 理想と現実は異なるし、理想を現実にするだけの技術が、あんずには足りなかった。


「…………っ」

 結果、ツーストライクと追い込まれてから打った打球は、ふわりと上がったキャッチャーフライなってしまった。

 それでもランナーを一塁に残して、神子へと打順をつなげた。



(……前の打席はちょっと上がりすぎちゃったから……)

 神子がゆっくりと打席に立つ。

 みんなは何も考えていないというけれど、そんなことはない。

 神子だって一応考えている。もっともそれは理論的なものではなく、感覚的なものだが。


 さきほどの打席は、完全に捉えたと思ったけれど、あと一歩、フェンスまで届かなかった。

 原因は高く上がりすぎたこと。それに飛んだ位置も、右中間の一番深いところだったから。

 だったら、もうちょっと低く飛ばして、もっと引っ張ればいい。

 単純に、神子はそう結論付けた。


 ストライクゾーンに来たカットボールを平然と見送る。


 狙い玉を絞っているわけではない。

 来た球すべてを打ち返そうとしているのに、自然と手が出なかった。

 身体が、ベストに打てる球を待っているような感覚。

 神子は次のボールも見送った。


 そして。

 インコースへのカットボール。

 初回、空振り三振に倒れたコース。


 身体が自然に動いた。

 最短距離で届くよう、打球が上がりすぎないよう、感覚を微調整して、思いっきり引っ張った。


 快音が響く。


 打球は、長打を警戒していたライトの環の上を低く飛び越える。

 そして、フェアゾーンぎりぎりの位置に置かれている簡易フェンスの向こう側へと落ちた。




  ☆☆☆



「いぇいっ」

 沙織は自分でも驚くくらい感情を爆発させて、ベンチに戻ってきた神子の両手に、飛び上がるようにしてハイタッチした。

 相手のことを考えてか、まだ打席での集中が持続していたのか、ダイヤモンドを一周するときはそれほど感情を表に出さなかった神子だが、ホームベースをしっかり踏むと同時に、沙織やベンチのみんな同様に感情を爆発させた。沙織へのハイタッチも、わざと手が届きにくいよう高くあげていた。こういう冗談を神子がするのは珍しいので、やっぱりよほど嬉しかったのだろう。

 なお、先にホームベースを踏んで神子を待っていた椿姫は、戻ってきた神子に真っ先に抱きつかれた結果、その場に幸せそうな顔をして崩れ落ちていた。


 そんな感じで盛り上がる出見高のベンチとは対照的に、フェアリーズの監督である森屋が重々しい顔をして、やや小走りでマウンドに向かった。

 彼女を中心に、フェアリーズの内野陣が集まる。

「ピッチャー交代かな?」

 ようやく興奮が収まってきた沙織は、その光景を見て言った。

「うーん。どうかなぁ。宇都宮さんもピッチャー出来るけれど、そんなに慣れていないし。源さん以外では、たいてい伊丹さんが投げてるけど、今日は来ていないし」

 元チームメイトで事情を知っている神子が解説する。

「……投手交代という感じではないわね」

 マウンドを見ると、森屋が話しているのは源ではなく、一塁手の品川の方だった。周りの内野陣も彼女を囲むようにしている。

 状況を鑑みて、球子が可能性の一つを尋ねる。

「もしかして神子せんぱい、一塁踏み忘れたっすか?」

「……ふぇっ。え、えっと……大丈夫だと思うけど」

「う~ん。そういう雰囲気でもなさそうだけど~」

 千代美も首を傾げる。

 マウンドには内野陣だけでなく、外野にいる三人も加わっていた。



「……あれ? なんかこっちに来るよ」

 しばらくして、森屋が出見高のベンチへと向かってきた。一緒に品川もついて来ている。

「森屋さん? どうしたの」

 顔見知りの神子が最初に尋ねた。

 森屋は複雑な表情を浮かべながら、出見高のメンバー全員に向かって告げるように言った。

「試合中悪いんだけど、ちょっとマズいことになったんだ」

「マズいこと?」

 森屋はちらりと横に立つ品川を見る。

「実は今さっき、ひかるちゃんのとこの薫ちゃんが急に熱を出して、病院に運ばれたって連絡があってね」

「ええっ?」

 状況からして、「ひかるちゃん」が品川の名前で、「薫ちゃん」がその娘であることは、沙織にもすぐに分かった。一人娘の話は、試合中に品川と話したときにも聞いている。

「それじゃすぐに病院行かなくちゃ。こんなところにいる場合じゃないって」

 神子が品川に詰め寄る。試合も大事だけれど、人の命が関わってくると別だ。

「いや。うちの人が見てくれてるし、命に関わるほどじゃないみたいなんだけどさ……」

 品川が言いにくそうに続ける。

「それに私が抜けると」

「あっ」

 フェアリーズのメンバーは九人ちょうど。監督の森屋も、骨折明けで強い運動が出来ない。

 品川が抜けたら、代わりの選手がいないのだ。

「大槻さんは来れないの? 高ちゃんさんは?」

 神子が言うのは、フェアリーズのメンバーだろう。

 森屋が首を横に振る。

「いちおう連絡したけれど、もともと今日の試合に来れないくらいなんだから。まして急に話をしてもね」

「だから」

「いいからあんたは早く病院に行きな!」

 ぐずぐずしている品川を、森屋が一喝した。

 遠慮がちに出見高のベンチを見る品川に、みんながうなずく。

 それを見た品川は軽く頭を下げると、真っ先に自軍のベンチへと駆けていき、荷物を持ってグラウンドを出て行った。この件について、チームメイトとはもう話がついていたようだった。

 沙織は、彼女が家族を選んでくれて、ほっとしていた。きっと他のみんなも同じ気持ちだろう。

「まぁ。そういうわけだから。……点差もちょうど三点に開いたところだったし、試合を終えるにはちょうどいいかな?」

 この状況に、同じく集まってきた審判団を見て、森屋が言う。

 試合はすでに成立している。

 品川が抜けたことで、フェアリーズは試合続行不可。つまりコールドゲーム扱いとなって、出見高の勝利となる。

 出見高草野球部にとっては、記念すべき初勝利である。

 とはいえ、その初勝利をこういう形で決めるのは、沙織にとっても複雑だった。

「それでは……」

 誰もが黙っている中、主審が宣言をしようかとするときだった。

「……ちょっと待って」

 意外な人物が声を上げた。

 集まった視線の先にいたのは、いつものように存在感の薄いあんずだった。

 彼女もこういう形で試合が終わるのが不服だったのだろう。

 普段は集まらない視線に物怖じすることなく、千代美を指さして言った。

「……試合前先生が、一塁なら出来る……って言ってた」

「ふぇぇぇぇ?」

 突然の無茶振りに、これまでみんなの様子を見ているだけだった千代美が驚いて声を上げた。

「そっか。品川さんも一塁手だし、ちょうどぴったりだね」

 あんずの意図に気づいたみんなが、名案とばかりにうなずく。

 選手の入れ替えは比較的自由なルールになっている。千代美がフェアリーズのメンバーに入れば、九人ちょうどになるし、守備位置も本人が守れると言っていた一塁だ。

 監督の千代美がいなくても、出見高にとってはそれほど問題ないし。

 千代美だけが戸惑った様子でおろおろしている。

「え、ででも。向こうのチームの人、誰も知らないし~。私こう見えて人見知りする方だし~」

 彼女は必死に言い訳をするが、流れ的には千代美がやるという感じになっていた。

 けれどそのとき、千代美はふと気づいたように言った。

「そうだ~。同じ一塁手なら、御代志さんの方がいいんじゃないかしら~。中学校まであっちのチームで一緒にプレーしてきた訳だし~」

「あっ」

 と言ったのは、神子だったか、あるいは他の誰だったか。

 いずれにしろ、誰かが考えていても口にしなかった考えを言われてしまったのだ。

 みなの視線が、今度は神子へと集まる。

「だ、だからダメだって。ボクは……」

「良い案ですね」

 困った表情を浮かべる神子を後押しするかのように真っ先に口にしたのは、これまた意外なことに清隆だった。

「神子はさきほど商店街のチームでさおりんと戦いたい、と言っていました。ちょうど良いではありませんか」

 それは皮肉ではなく、純粋に神子を後押しする口調だった。

 幼なじみとして、この中では一番長いつきあいをしている彼だけに、神子の様子を見て、何か感じるものがあったのだろう。

「わ、私も別にかまわないわよ!」

 先を越されたと感じたのか、椿姫が焦った様子で続いた。

「もともと敵同士だったから、相手にするのは慣れてるしっ」

「つーちゃん……」

 二人の発言で流れが決まった。

 誰もが最後まで試合を続けたかったし、ベンチで神子の気持ちも聞いてきたのだ。

「でも……」

 神子の視線が最後に向けられたのは、沙織だった。

 沙織は先ほどのベンチでの会話を聞いていない。それに直接対戦する相手でもある。

「あたしも……別にかまわない」

 沙織の言葉はそっけないものだった。

 葵はその口調に、どこかふてくされたような感じを受け取って、そっと沙織の表情をのぞき込んだ。そしてその受け取り方が間違っていたことに気づいた。

 沙織の表情は、すでに神子との対戦を前にしているような引き締まったものだった。

 彼女もまた、神子と同じように試合で勝負したいと思っていたのだ。



  ☆☆☆



 両チームの同意が得られたため、審判がメンバー変更を了承した。

 品川の打順と守備位置に神子が入り、神子のところには千代美が入る。

 つまり神子は八番ファースト、となる。

 残りのイニングは、六回と七回。打順は二番からなので、一人も走者を出さなければ、神子に打席が回ることはない。


「よっしゃっ。張りきっていこうぜ!」

 守備位置に向かいながら、銀河が声を上げる。

「……あれ? そういえば、西村くんの打席は……?」

 三番打者の神子が本塁打を放ってから試合が中断していたので、本来なら、次は銀河の打席のはずなのだ。

 もっとも、神子の移籍で沙織の頭の中がいっぱいだっただけで、しっかり銀河の打席が終わってからのイニング交代である。

「う、うるさいなっ。仕方ねーだろ」

 沙織のマジボケを皮肉と感じたのか、銀河がばつの悪そうな表情を浮かべる。

「いやぁ、ファースト神子ちんの威力はすげぇな。打席に立つとどうしてもこう目に入ってさ。気づいたら三振してたんだよ」

「……え?」

 予想外の返答に、沙織は目を丸くした。

 そんな銀河に対し、椿姫が珍しく同意する。

「分かる。分かるわっ。私も中学の時苦労してたんだから。右打ちが上手くなったのも、神子の反応を見ようと努力したおかげなのよっ!」

「おーっ。それいいな。よしっ。今度練習のとき試してみるか」

「……あはは」

 滅多に見られない二人が意気投合している様子を苦笑して眺めつつ、沙織は肩の力が少し抜けたのに気づいた。

 

 予想外の展開になってしまったが、残るイニングはあと二つ。

 相手が神子であろうと誰であろうと、全力で抑えるのは変わりない。




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