第34話 ……何だ。覚えてるじゃない
直球が軽快に葵のミットを叩いた。
打席に立つ与謝野の表情に、驚愕の色が現れる。
沙織はそれを平然と受け流し、葵からの返球をグラブに収めた。
(一点を先制してもらったんだから……もう後は全力でつっぱしるだけ)
先制点をもらった後の、四回の裏。試合ももう折り返し地点。
体力の温存だの球数を減らすだの考えず、目の前の打者を一人ずつ打ち取っていく。
沙織はそう決心して、マウンドに上がっていた。
二球目はカーブでストライクを取り、簡単に追い込む。
そして三球目。
身体を沈み込ませ、ぎりぎりまで持ったボールを地面にたたきつけるようなイメージでストレートを放つ。外角いっぱいの低めに、糸を引くように伸びた直球が、綺麗に葵のミットに収まった。
主審の手が上がった。
与謝野がバットを立てて、天を仰ぐ。
まずは回の先頭打者を、三球勝負で、見逃しの三振に抑えた。
続くバッターの日高には、カーブから入ってカウントを稼ぐと、後は強気にストレートを続けて投げる。
そして力押しで、ファーストファールフライに打ち取った。
これでツーアウト。
神子がしっかりフライをグラブに収めるのを見て、沙織は軽く手を叩いた。
☆☆☆
「カーブの印象が強くて、ストレートにやられている感じかな……?」
前二人の打席を見て、源はそう分析した。
それならば、カーブを捨ててストレート一本を待つのがセオリーだ。
だが源はゆっくり打席に入ると、あえて独り言っぽく言った。
「カーブが見たいな~」
と、マウンドまで聞こえるくらいの声で。
「……あのすみません。そういうのは……」
「まぁいいじゃんか。しょせん草野球なんだからよ」
主審の苦言を、源は笑っていなした。
キャッチャーの葵の表情はマスクで見えない。だがマウンドの沙織は、小さく笑ったような気がした。
沙織がゆっくりとしたフォームから、初球を投じた。
源はバットを軽く構えたまま、様子を見る。
視界の外から、想像以上に落差のあるカーブが、すとんと落ちてきた。
ストライクがコールされる。
「……ほうほう」
驚きはしたが、だいたいの軌道は確認できた。
身体の力を抜いて、次のボールを待つ。マウンドの沙織の表情を見て、源はカーブが続くと確信していた。
二球目。
やはりカーブが投じられた。
源は狙い澄まして、バットを振るったが、むなしく空を切る。
ホームベース上でバウンドしたボールを、葵が身体で受け止める。
(……見送れば、ボールだったかな?)
速いテンポで、沙織が三球目を投じる。
またしてもカーブが、二球目と同様のコースに投げ込まれた。
今度は見送って、ボールになる。
だが源は、ボールになると見切って見送ったわけではなかった。テンポが速くてついていけなかったという方が正しい。
源は大きく深呼吸して、間合いを整える。
まだボールカウントは一つ。
勝負を急ぐようなカウントではない。またボールになるカーブが来るか、それともストライクゾーンで勝負してくるか。
そして。
ゆったりと構える源の胸元いっぱいに。
直球がスパンッ、と投げ込まれた。
審判のコールが上がる前に、葵はボールを置いて立ち上がっていた。
まるで見惚れていたかのように、一拍遅れて、審判がストライクと宣言した。
手が出ず、突っ立ったまま見逃しの三振に倒れた源は、思わず頬が緩むのを感じていた。
「ナイスピッチング」
源はマウンドを駆け下りる沙織を見て言った。
そのつぶやきが彼女に聞こえたかどうかは分からないが、沙織は帽子のつばに手をやって、軽く頭を下げた。
☆☆☆
表の攻撃を、沙織がきっちり三人で抑えたことによって、出見高に流れが来ていた。
先頭の銀河の当たりはふわりと上がった小フライになったが、飛んだ場所がよく、センター前へのヒットとなる。
続くとおるも、じっくりボールを見極めて、四球で出塁した。
無死一二塁のチャンスである。
「……送りバントは嫌いじゃなかったっけ?」
ベンチに座ったまま、「うーん」と伸びをする千代美に、椿姫が白い目を向ける。
「う~ん。でもさっきは成功したし~」
一度成功したことで「采配」することが楽しくなったのだろうか。
だが、それに固執するのは、素人にありがちな良くないパターンだ。
椿姫はため息をついた。
そんな椿姫の思いをよそに、葵はサイン通り、しっかりと送りバントを決めた。
「ナイスバント」
送球からだいぶ遅れてゆっくりと一塁ベースを駆け抜けた葵に向けて、一塁手の品川が声をかけた。
葵は軽く頭を下げた。
そんな彼女に向け、品川が声を潜めて、聞いてくる。
「ところで監督さんが、「うーん」って伸びをするアレって、もしかしてバントのサインだったりする? あまりにも不自然だから、逆に疑っちゃうけど」
「……本人曰く、『伸び伸び』プレーとは逆のバントのサインだから、相手には分り難い、って自慢していましたけどね。次から変えさせておきます」
葵は苦笑して正直に答えた。
打順を考えて送りバントはないかなと思って様子を見ていたフェアリーズのバッテリーだが、相手は予想に反して、初球から送りバントと、手堅く攻めてきた。
(一死二塁三塁……大丈夫、慌てるような状況じゃない……)
正木は打席に立つ球子を見て、冷静に判断する。
スクイズはリスクもある。素人っぽい彼女が仕掛けて来ることはないだろう。
先ほどの打席は、ストライクを無理に取りに行こうとして、源に窮屈なピッチングをさせてしまった。それを反省して、今度は伸び伸びと投げさせるようにした。
「ストライクっ、バッター、アウト!」
正木のミットに源の直球が吸い込まれた。
高めのボール球を振らされた球子が、悔しそうに頬を膨らませていた。
「……まぁ。二度も上手くいくほど、甘くはないわね」
ツーアウトとなった攻撃を見て、椿姫は冷静に呟いた。
「でもでも~、次はヒットを打った谷尾くんだし~」
「そうですね――けどあの回と違って、ランナーはいずれも、男だけど?」
「あらら~?」
結局、清隆も力のないスイングで空振りの三振に倒れ、この回の攻撃は、二者残塁となるのだった。
☆☆☆
五回の裏。
チャンスを作るも二者連続三振で無得点という展開にも、沙織は平常心でマウンドに上がった。
打席に立つのは、八番打者の品川だ。
ぼっちだった沙織は、ちょっと好意的に話しかけられただけで、簡単に好感度が上がりやすいちょろい性格をしている。そのため品川には好意的なイメージがあった。
とはいえ、マウンドに立ったら、知り合いでも手加減はしない。
初球はカーブでストライクを取る。
そして二球目は低めの直球。
品川は身体を一塁方向へ倒すようにしながら、こつんとバットを横に倒してセイフティーバントを仕掛けてきた。
打球が、三塁と投手の間に転がる。
三塁手は見るからに鈍足そうなとおる。
沙織も虚を突かれたが、とっさにマウンドを駆け下り、素早く打球を処理して、一塁へと送った。
「アウトっ!」
一塁塁審の手が上がり、沙織はほっと息を吐いた。
もし走者が俊足のあんずだったら、楽々セーフだっただろう。
アウトを取れても、こうやって揺さぶられると、体力も消耗する。
下位打線だからといっても、さすがに楽にさせてくれないな、と沙織は気合いを入れ直した。
気合を入れなおした沙織は、続く宇都宮には、直球で押し続けた。
追い込んでからのストレート。
宇都宮は何とかバットに当てて、ファールに逃れる。
タイミングはあっていない。変化球を一球挟んでも問題ない展開だった。
けれどあえて直球を続け、最後は内角高めのストレートで空振りの三振にしとめた。
沙織は軽くこぶしを握った。
打線が三巡目になって、打席に森屋環が入る。
先ほどは、綺麗にレフト前にヒットを打たれてしまった。
だが沙織はそれを気にしたそぶりを見せず、淡々とカーブと直球で環を追い込む。
そして内角低めに投げ込んだ直球。
環を何とか打ち返したものも、完全に詰まったボテボテのゴロになる。
平凡な一塁線のゴロ……だったのだが。
一塁手の神子の反応が一瞬、遅れた。
「神子っ!」
葵の声が響く。
その声を受けて、神子が慌てた様子で前に出て、詰まって転がる打球を処理する。だが余裕がなかったのか、ベースカバーに入った椿姫への送球は大きく横に逸れてしまう。なんとか椿姫が飛び上がってそれを捕球し、離れてしまった一塁ベースを踏もうとしたが、そのときには、環がすでに一塁ベースを駆け抜けていた。
記録的には内野安打なのか神子の失策なのか分り難いところだが、いずれにしろ、神子のマズイ守備によって、ツーアウトからランナーが出ることになった。
葵が間を取って、内野陣をマウンドに集めた。
「ご、ごめんっ、さおりん。完全に打ち取った当たりだったのに……」
「ううん。大丈夫。いつも神子ちゃんには助けられているから」
沙織は首を横に振った。
打撃ほど飛び抜けたレベルではないが、神子の守備は決して下手ではない。
むしろ沙織の言うとおり、きわどいタイミングや逸れた送球をしっかりキャッチしてくれているおかげで、安心して内野ゴロを打たせるピッチングができるくらいだ。
「珍しいわね。送球が下手なのは今まで通りとしても、打球への反応は遅かったわね?」
「うう。ご、ごめん」
「まぁ気にするなって。これくらい横山にとってはハンデみたいなもんだろ」
銀河の言葉に、沙織もうなずいた。ハンデというのは言い過ぎだが、気にするなという部分には全面的に同意だ。
とそんな感じでうなずきながら、沙織はふと思った。
神子ちんラブな銀河がここぞとばかりにフォローに入るのは当然としても、椿姫からはフォローのセリフが入っていない。
野球に関しては真摯に取り組んでいる彼女だから、もしかしたら神子の怠慢守備に腹を立てているのではないだろうか。
沙織はちょっと心配になって恐る恐る椿姫を見ると、彼女は何やら考え事をしているようで、ぼそぼそとつぶやいていた。
「……気にしないでってフォローするのはいつでもできる。だからこそ、むしろここは、ポカミスを犯した神子を、お仕置きと称して色々したりさせたりする方が……」
「えーと。春日さん、心の声が聞こえてるよ……?」
とおるが苦笑しつつ、椿姫に耳打ちしていた。
沙織も同じように苦笑いを浮かべながら、とりあえず椿姫も怒っていないようでほっとした。
幸い神子にも椿姫のつぶやきは、ショックで聞こえていないようだし。
そんなメンバーたちを見回して、葵が話を続ける。
「一点差。ツーアウトから、ミスで出たランナー。なにか仕掛けて来る可能性が高い場面ね」
「うん。今度はちゃんとランナーに気を付けてクイックするから」
先ほどあっさりと盗塁を許してしまった沙織がうなずく。
だが神子はまだショックを引きずっているような様子だった。
そんな彼女に、葵が声をかけた。
「ねぇ。神子」
「ん、なに?」
「ソフトボール部だった私を野球部に引き込んだ、口説き文句、覚えてる?」
「……え?」
神子はきょとんとした顔をしてみせた。
☆☆☆
(やっぱり、覚えていなかったのね……)
あの神子のことだから、仕方ないと思いつつ、葵は少し落胆していた。
小学生のころから野球をやっていた葵は、中学では女子野球部がないので、ソフトボール部に入部した。野球の代わりと思って始めたソフトボールだったが、実際にやっているうちにどんどん興味がわいてきて、三年には捕手として主将となり、部長も務めた。
一方、神子は中学でも男子と同じ野球部に入部していた。
その頃は付き合いがなかったが、ブロンドの綺麗な髪の毛を持つ小さな可愛らしい少女が男子に混ざって野球しているのは、グラウンドの隣で部活をしている葵の目にもよく映った。
ソフトボールに乗り換えたことを後悔するつもりもなかった。
ソフトボールを野球の下位互換と言われたら、相手が涙ぐむまで論破する自信はある。それでも、真っ直ぐに野球を続ける神子の姿はまぶしくて、心のどこかに憧れのようなものがあった。
だからだろうか。神子と二年生のとき同じクラスになると、あまり他人とは関わることのない葵にしては珍しく、自分から声を掛けていた。
話してみると神子は容姿に似合わず天然で、けどどこか憎めないキャラクターで、気づいたら数少ない親友と呼べる存在になっていた。
そして三年生になった受験シーズン。
高校で新たな野球部を一緒に作らない? と神子に誘われた。
祖父が経営する高校へ進学する予定の神子は、高校で従来の野球部とは別の部活を作るつもりらしい。
出見高は私立でも学費は市立並みに安く、地元でも人気の進学先である。
葵も神子に誘われるまでもなく、そこを受けるつもりだった。たが、高校でもソフトボールを続けるつもりだった葵にとっては青天の霹靂だった。
神子だって、野球ではなくソフトボールを選んだ自分のことを知っているはずなのに。
「知っているわよね? 私はソフト部の主将なのよ。地区大会にも出場できたし、高校でもソフトボールを続けるつもりだけど」
「ううっ……」
その答えに、さすがの神子もがっくりとした様子をみせた。
もし神子がここで諦めていたら、この話はもう終わりだった。
きっぱりと神子に言っておきながら、葵の中にわずかな後悔が生まれていた。
ソフトボールは嫌いじゃない。けれど野球をやり続けている神子を見ていて、いつも心の中にちくりとしたものを感じていた。
もともとソフトボールを始めたきっかけも、大好きな野球に似たスポーツを続けたかったからである。
高校に進学しても、野球をやっている神子を見て同じ思いを続けるのだろうか……?
「そうだっ!」
葵の心に重い何かが広がり始めたとき、不意にそれを打ち消すかのように神子が大きな声を出した。
彼女は葵にこう言った。
「でもでも、野球ならソフトボールと違って――――」
神子にとってそれは、起死回生の説得材料だったのだろう。ここぞとばかりに強調して言ったのだ。
葵はそれを聞いて思わず苦笑してしまった。
……けれど、今度は神子と同じ道を歩んでみようと決めたのだった。
「プレイ!」
主審の声で、葵は試合に引き戻された。
打席に立つのは左打者の福井。おかげで一塁走者は見にくい。
ミスに乗じて攻めるのは定石。きっと仕掛けて来るはず。
葵は確信していた。
そして予想通り、初球から一塁ランナーの環が走った。
だが、沙織がうまく気配を消してくれたおかげで、スタートは遅れ気味。
サイン通り投げられた外し気味のボールを立ち上がるようにして受け取る。
ミットに差し入れた右手に、ボールの縫い目がぴったりはまる感触。
ここまですべてイメージ通り。
思いっきり、けれど身体の動きを最小限にして、葵は右腕を振り抜いた。
二塁ベースのわずかに右寄り。
葵の送球は、ベースカバーに入った銀河が構えているグラブに、寸分の狂いもなく吸い込まれた。
受け取った銀河がすることは、そのグラブをほんの少し動かして、スライディングしてくる走者の足に触れさせるだけだった。
アウト・セーフを「審判」するのではなく、ただ決まったことを知らせるかのように、もしくは葵の送球を称えるかのように、審判の右手が上がった。
「やったねっ! 葵、すごいよっ」
ゆっくりとベンチに向かう葵の元に、神子が真っ先に駆け寄ってきて、肩をばしばしと叩いた。
先ほどまでの落ち込みが嘘のように、はしゃいでいる。
自分が出してしまったランナーがアウトになってピンチの芽が摘まれたこともあるけれど、純粋に葵の活躍がうれしいようだった。
「ねっ? ボクが前に言ったように、ソフトボールもいいけど、盗塁を刺せる野球って、楽しいでしょっ?」
「……え?」
今度は葵がきょとんとする番だった。
「……何だ。覚えてるじゃない」
…………
……
…
「神子。いちおう言っておくけど。体育の授業のソフトボールは盗塁禁止だけれど、部活動でのソフトでは、普通に盗塁はあるのよ?」
「ふぇっ? えぇぇぇっ」
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