第39話 一球だけなら、いいよね?


 目を開けると、沙織は見知らぬ場所にいた。

 しばらくして、自分が病院のベッドの上で寝ていたことに気づく。

「……あ。そっか」



 神子を直接タッチしてアウトのコールが宣言された後。

 沙織は大丈夫と言い張ったのだが、試合終了の挨拶もすることもなく、神子をはじめとするみんなによって、グラウンドから強引に引きずり出されてしまった。そして車に押し込められ、すぐ近くの病院へと連れられたのだ。

 診断の結果、沙織の症状は、純粋な疲労に加え熱中症の一歩手前だったことが分かった。ちなみに診断のとき医者に、試合に集中していて水分をあまり摂っていなかった、と素直に答えたら、こっぴどく怒られた。

 こうして沙織は強制的にベッドに寝かされた。

 そして点滴を受けながら目を閉じていたら、いつの間にか、眠ってしまったようだ。


 身体に重みを感じて視線を向けると、ベッドに寝ている沙織の身体に寄りかかるように乗って、神子と球子が眠っていた。左右向かい合わせですやすや眠っている二人は、容姿は大きく異なっても不思議と姉妹のようにも見えた。


「起きた?」

 カーテンの向こう側から葵の声がした。

 物音で沙織が目を覚ましたのに気づいたようだ。

「うん。頭も身体もすっきりして、もう大丈夫な感じ」

 沙織が返事をすると、カーテンが開けられた。葵とあんず、それに椅子に座ってこちらも眠っている椿姫の姿が見られた。起きていたら、神子の寝顔が見られるチャンスだったというのに、相変わらず間が悪い。

「見た限りは大丈夫そうだけれど、無理はしない方が良いわね」

「平気だって。軽い熱中症みたいなものらしいし。冷房が効いた部屋で水分摂ればすぐ治っちゃうって」

 ほほえむ沙織。そんな彼女に対して、葵が厳しい表情を見せる。

「沙織、ゆでたまごの話、聞いたことがない?」

「たまご?」

 急に話題が変わって、沙織はきょとんとして聞き返す。

 あんずも無表情に説明を加える。

「……生卵に熱を加えると、タンパク質が凝固して卵白や黄身が固まる」

「うん」

「それを水に漬けて冷蔵庫に入れたら、生卵に戻ると思う?」

「ううん」

 沙織は首を振る。いくら偏差値が低くても、それくらいは常識である。

 葵がため息混じりに続ける。

「熱中症になると、高熱で脳の細胞がその卵と同じような状態になると言われているの。後から水分を摂取すればいいという問題ではないわ」

「えぇぇぇっっ?」

 ていうか、今の一言で、脳細胞が結構死んだ気がした。

「……ん、んん」

 沙織が思わず大声を出してしまったせいで、彼女に寄りかかるように眠っていた神子と球子が目を覚ました。

 二人は双子のように同じような瞳で、身を起こした沙織を見つめる。

 沙織が大丈夫、という表情を返すと、二人は感極まった様子で抱きついてきた。

「お姉さま! 良かったっす!」

「さおりーんっ、死んじゃったかと思ったんだからっ」

「……そ、そんな……大げさな……」

 さすがに心配され過ぎだと思ったけれど、ここまで二人が想ってくれるのは悪い気はしなかった。ちょっと重いけど(物理的に)

「……まったく、心配させるんじゃないわよ。……あ、でもこうやって神子に抱きつかれるのなら、私も倒れてみるのもありかも……」

 どうやら騒ぎで椿姫も目を覚ましたようだ。

 相変わらずの反応になぜかほっとしつつ、沙織は不意に点滴を受けている右腕にちくりとした痛みを感じた。

「あっ……」

 沙織がのしかかる神子と球子から逃れようとじたばたしていると、あんずがぼそりと、けれど意外とよく通る声で言った。

「点滴……血が……」

「おーっ。真っ赤っかだー」

「ぎゃぁぁ。血が、血が逆流してるっっ」


 幸いすぐに看護士さんが駆けつけて冷静な処理をしてくれたおかげで事なきを得た。

 けれど、病院内で騒ぎすぎ、と水分の件に加えて、沙織はまたしても叱られるはめとなってしまったのであった。



  ☆☆☆



「まぁ、何はともあれ、無事で良かったよ」

 沙織の様子を見て、とおるがほほえんだ。

 看護士さんと入れ替わるように、男性陣も病室に入ってきた。一応女子の病室ということで、遠慮していたようだ。

「そうそう。さっきそこで、フェアリーズの品川さんと会ったぜ」

「え? 本当に?」

 銀河の言葉に、沙織は思わず聞き返す。

「ああ。娘さんが連れて込まれた病院がここだったみたい。応急処置の薬が効いたのか、娘さん、元気そうだったぞ」

「良かった……」

「かなりの美幼女でした。将来が楽しみです。ふふふ」

 きらーんと眼鏡を光らせて力説する清隆の言葉で、感動が台無しになった。今がストライクゾーンでなかったのが、せめてもの救いである。

 ……とそれはともかく。

 沙織は部屋を見回した。

 千代美の姿は見えなかったが、チームのメンバーは全員揃っている。時計を見ると、まだ大会が行われている時間帯なのに。

 それが何を意味するか理解して、沙織は身を起こして、頭を下げた。

「……あ、あの……ごめんなさい……っ」

「ふぇっ? どうしたの、急に」

「だってその……みんながいるってことは、次の試合は……」

「ええ。棄権したわ。みんなで決めたことよ。沙織が気にする必要はないわ」

「で、でも……そうなったら、部活が……」

 この大会はただの練習試合とは違うのだ。優勝できなければ部活の存続に関わるはずーー

「あ、それなら大丈夫だよ」

 神子のいつもの調子の口調に、沙織はきょとんとした。

「……え? でも優勝できなくて……」

「大会の試合内容で評価されるのであって、優勝が部の存続条件とは一言も言っていないわ」

「えっと……そうだっけ?」

 葵の補足に、沙織は首を傾げる。そう言われると、そうだったかもしれない。

「もともとうちの部は、今年入学した孫娘の神子のために理事長が半ば強引に創ったもので、職員の間からは、部の必要性に疑問の声もあがっていたの。ただ適当に遊ぶだけに創られた部ではないのか、と。もちろん理事長は神子のことをよく知っているから、そんなことないのは分かっていたけれど、ただの公私混同ではないと証明するのための材料がほしかった」

 そこでこの時期に行われるこの大会に出場することになった、という話は沙織も以前聞いた。

「だから評価の対象は、優勝できるか否か、ではなく、あくまで、うちの部が部活動として体を成しているか、ということなの。優勝は出来なかったけれど、先の一回戦の内容は理事長も誉めてくださったわ。試合の様子はビデオで記録もされているから、それを見れば他の先生方も納得してくれるだろう、とおっしゃっていたわ」

「試合に勝ち負けは付き物だからね。たとえ負けていても、僕たちが毎日練習もせずに遊んでいたわけじゃない、ってことは分かってもらえたんじゃないかな」

「そうだったんだ……」

 沙織はほっとすると、気が抜けて、ベッドに寝転がった。

「むしろ横山さんのことの方が大変だったのだから~!」

 かと思ったら、大きな袋を持った千代美が病室に入ってきて、突然大声を上げたものだから、びっくりして飛び起きてしまった。

「あ、おじいちゃんとの話、終わったの?」

「ううぅ。理事長は御代志さんには優しくても私には厳しいんだから~っ。御代志さんたちが横山さんのところに行っちゃってから~、ずっとお説教だったのよ~」

「お説教?」

 沙織がきょとんと聞き返すと、千代美は涙目のまま沙織にずいっと詰め寄った。

「横山さんのことよ~っ。もし貴女に大事があったら、私や部活の責任になって、存続どころの話じゃなかったんだから~っ!」

「う……そ、それは……ごめんなさい」

 沙織は素直に謝った。

 千代美からも、水分をしっかり摂るようにと言われていたのに、試合に集中していてそれを忘れていたのは、沙織のせいだ。多少身体が重くなっても千代美に伝えることはなかった。それで沙織が熱中症になって倒れて責任を追及されたら、愚痴のひとつも言いたくなるだろう。

「せ、先生。その大きな袋は何っすか?」

 追求されている沙織に助け船を入れるように球子が、千代美の持つ袋を指さした。

「あ、これ~? うふふ……実は~、みんなの初勝利のお祝いにジュースを買ってきたのよ~」

「おおーっ」

 みんなから歓声が上がった。

「一本百円のジュース九本で、部員の好感度が上がるのなら、安いものね」

「春日さん、そういうことは言わないの~」

 千代美の情けない声に、またみんなから笑い声が漏れた。

 もちろん椿姫も本心ではなく、千代美をイジるつもりでの発言だ。

「確かに、二回戦が不戦敗になっちゃったことを残念がるより、一回戦を勝ったことを喜んだ方がいいよね?」

「うん……っ」

 責任を感じていた沙織を励ますように、神子が笑顔を向けながら、沙織にジュースを手渡す。

 それを受け取って、沙織も笑顔を浮かべた。

 その通りだと思った。自分が投げて抑えただけじゃない。みんなで協力して点を取って、守って、勝ち取った、みんなの初勝利だ。

 手渡されたのが、トマトジュースだったのが、ちょっと不満だったけど。

「あら? 神子が所属していたチームは、確かうちに負けたのではなかったかしら?」

「ううっー。葵の意地悪ーっ」

 葵が珍しく冗談を言う。それは彼女も、この勝利を心から喜んでいるからだろう。

 そんなこんなで、みんなしてはしゃぎながら、ジュースが全員の手に渡る。それを確認して、神子が声を上げる。

「それじゃ、さっそく。初勝利を祝って……」

 と、その声を遮るかのように、病室の扉の向こう側から看護士さんの咳払いが聞こえた。先ほども注意されたばかりなのに、また騒いでしまい、廊下まで声が聞こえてしまったようだ。

 というわけで、小声でもう一度。

「……乾杯」

 ささやかなそれが、何となく自分らしいなと、沙織は思った。



  ☆☆☆



「それじゃ、行ってきます」

 朝食の後かたづけを終え、玄関に向かいながら、沙織は鷹司に向けて言った。

「もう大丈夫なのか? 無理しなくても……」

「平気へいき。昨日一日休んだし、もう大丈夫だって」

 鷹司の心配を振り切るようにして、沙織は家を出た。


 病院からはその日の内に退院できた沙織だったが、大事をとって翌月曜日の学校は休んだ。草野球部の活動の方も、昨日は試合翌日ということでお休みだったようだ。

 ちなみに、沙織が眠っている間、鷹司も病院に駆けつけてくれていたらしい。沙織に大事がないと分かってすぐに病院から出たようだが。そのときの父の様子などは、何となく気恥ずかしいので、みんなからも本人からも聞いていない。

 けれどやっぱり心配されていたのか、昨日一日は学校を休まされてしまった。身体の方はもうほとんど問題ないのに、家でじっとしているのは暇で仕方がなかった。

 そのことを思い出しながら、沙織はふと考える。

 以前なら、こうやって正々堂々とした口実で学校を休めるのは大歓迎だった。もしかすると以前に比べ、一人で過ごす時間の使い方が下手になったのかもしれない。

 けれどそれを歓迎するのではなく、どこか残念がっている自分に気づいて、沙織は笑ってしまった。

 友達や仲間が出来ても、やっぱり自分はぼっち体質なのかもしれない。



「よっ。もう身体は大丈夫なのか?」

 教室前で、沙織は銀河と顔を合わせた。彼も今登校してきたようだ。

「うん。もう平気」

「そっか。まぁ無理すんなよ」

「分かってるって」

 みんなに心配されすぎるのが不満で、沙織はちょっとむくれた。

 最近はボールを握っていなくても、男子である銀河とそれなりに会話を交わせるようになってきた。

 そして周りの目も、それを意外な光景としてではなく、普通のこととして見るようになってきていた。



「葵ちゃん、おはよう」

「おはよう」

 先に席に着いていた葵に、沙織から挨拶した。

 沙織が普通に登校してきたのを見て、葵は少しほっとした顔を見せた。

「今日から部活あるんだよね?」

「ええ。けれど沙織は休みよ」

「えーっ」

 沙織が不満げな声を上げると、ぎろりと葵に睨まれてしまった。

「お医者様に、二三日は安静に、と診断されたのでしょう。今日はまだ二日目よ」

「ううっ……」

 この流れだと、二三日の三日目である明日も部活は出来ないんだろうか、と沙織ががっくりしていると、そんな気持ちを吹き飛ばすような明るい声がした。

「あ、さおりん、おはよーっ」

 神子である。彼女がこのクラスに顔を見せるのも、最近では珍しい光景ではなくなってきていた。

 彼女はまっすぐに沙織と葵の席に向かってきた。

「ねぇねぇ。さおりん、今日の部活で一緒に……」

 葵が無言で、神子に鋭い視線を送った。

「……えーと。ごめん。さおりんは、お休みだから……」

「う、うん」

 沙織は苦笑いを浮かべながらうなずいた。


 公式戦初勝利をあげたからと言って、学校生活が大きく変わるわけでもない。

 いつものように授業を受け、あっという間に放課後になった。

 部活もなく、今日の夕食当番も鷹司なので、早く帰る必要もない。

「適当に図書室で時間をつぶしてから帰ろうかな……」

 なんてことを考えて、図書室に向かっていたら、廊下の先にあんずの姿があった。

「……あれ、あんずちゃん?」

「今日は特別講習があるから……部活は休み」

 あんずが沙織の疑問に先に答えた。

「あ、そっか。そういえば……球ちゃんも中学校の行事があるからしばらく来れないって言ってたっけ」

 ついでに加えれば、清隆も家の事情があるようで、部活に出ずに帰ったようだ。

「それにしても……一昨日の、御代志さんと横山さんの対決は非常に興味深かった……」

「え?」

 珍しくあんずが話を振ってきて、沙織は少し驚いた。

 普段は無口だが野球のことになるとたまに多弁になるのだ。あんずとしても、同じようなタイプの沙織には話しやすいのだろう。

 友達いない同盟……じゃなくて、一人が好きだけどたまに話したいときに話が出来る同盟というか。

 なんてことを沙織が考えているうちに、あんずが語る。

「確率で考えれば、打者と投手の一回勝負は投手に有利。打者としては普段は三回に一度打てれば良いのに、それを打ち損じなしの一回勝負で決めなくてはならないから。けれどそれを考慮するなら、投手にも最終回まで投げ続けた疲労も計算に入れないと不公平。……二人の対決はそれが両方現れた結果だった」

 失投と打ち損じという決着。

 沙織は苦笑いを浮かべた。

 けれど不思議と不完全燃焼といった気持ちにはならなかった。神子もまた、同じ気持ちだったようだ。

「……初回からすべての打席対戦していれば、二人の実力通りの正しい結果が見られたはず……けれど」

 あんずが珍しく力強い口調で続けた。

「あの場面でしか見られないものもあった……と思う」

「……うん。そうだね」

 あの対戦はつらくて楽しかった。

 けれどもう一度やりたいかと言えば遠慮したいような。

 そう考えると、結果的には引き分けに終わった勝負だったけれど、実は沙織の負けなのかもしれない。

「……それじゃ、授業があるから」

「うん。勉強、頑張ってね」

 あんずを見送っていると、視界の先に千代美の姿も見えた。

 彼女は沙織を確認すると、申し訳なさそうに手を合わせて、重そうな足取りで職員室の方へと向かっていった。

 どうやら千代美も仕事が終わらなくて部活は不参加のようだ。

 沙織は何となく、先日の試合に集まったメンバーを数え、ちょうど半数が今日の部活に不参加であることに気づいた。

 もともと通常の野球部に比べ、練習への参加の強制が少ない部活ではあるけれど、こう考えると、みんなそろって試合した時間が、とても貴重に感じられた。



 図書館で適当に時間をつぶして、沙織は校舎を後にした。

 しばらく歩いていると、心地よい打球音が耳に届いた。音の先は、草野球部が使用している第二グラウンドからだ。

 参加人数は半数でも、みんな、いつものように楽しそうに練習していた。

 沙織も思わず飛び入りで参加したくなってしまったが、葵が怖いので自重する。

 早く家に帰って体を休めよう、そう思って足を進めたときだった。

「あっ」

 足下に、ボールが転がっていた。軟球なので草野球部の物だ。

 正規の野球部が使っている第一グラウンドと違って、全面がフェンスで覆われていないため、たまにこうやって外まで白球が転がっていることもあるのだ。

 沙織がそれを拾い上げると、遠くから神子の声がした。

 振り向くと、沙織の姿に気づいた神子が大きく手を振っている。

 どうやらこの白球は彼女がかっ飛ばした打球のようだ。

 投げ返してもらおうと沙織に手を振っている神子の横で、葵がそれをいさめているのが見えた。

 葵としては沙織の肩を休ませようとしているのだろう。

 けれど、沙織からすれば、特に身体に問題は感じられなかった。

 だから駆け寄ってくる椿姫を目で制して、沙織は白球を左手でしっかりと握りしめた。

「一球だけなら、いいよね?」

 沙織は大きく振りかぶると、白球をホームベースめがけて、思いっきり放り投げた。

 



 

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少女がボールを手にしたら 水守中也 @aoimimori

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