第38話 私を信じて
球場の内外からざわめきが広がる。
沙織と神子の関係を知らない観客も、その雰囲気を感じ取ったのか、息をのむような声があがっている。
その中心に立ちながら、沙織は足で軽くマウンドをならす。
バッターボックスの神子が、無表情にまっすぐな視線を沙織に向けてくる。
いつものような笑顔ではなく、厳しい表情。かといって、絶対打つと気負いすぎているわけでもなく、純粋な勝負への集中が伝わってくるような顔つきをしていた。
葵がサインを出して、ミットを構える。
一塁走者の源は宣言通り、リードを取る様子もない。
沙織は高鳴る動悸を押さえつけるよう、ゆっくりと腕を振り上げ、初球を投じた。
「おっと」
ベンチで神子の打席を見つめている森屋の口から思わず声が出た。
初球はインコース低めだった。
神子の右足付近をボールが通り過ぎる。
葵の構えたミットの位置よりさらに外側。神子が右足を引かずにそのまま踏み込んでいたら、その足に直撃したかもしれない、厳しいコースだ。
コントロールの良い沙織がこれほど厳しいコースに投げ込むことは、今日の試合初めてだった。
「はっはっは。さすが神子ちゃんがライバル視するだけあるなぁ」
日高が愉快そうに笑う。
桐生は無表情。ただじっと二人の対戦に目を向けている。
「いや……もしかすると……これは」
みんなが二人の対戦をそれぞれ楽しんでいる中、正木だけが、沙織の様子に目をやりつつ、顔を曇らせていた。
二球目。葵がやや中腰に構えて高めを要求する。
だがそのボールは葵のミットの位置より高く、その腕をいっぱいに伸ばして捕球するくらいに外れた。
二球続けて、大きく外れるボール球。
対戦前とは違ったざわめきが、再び起こり始めた。
(……ど、どうしよう……身体が……言うこときかない)
沙織は戸惑っていた。
狙ったコースにボールが投げられない。
身体に疲れがたまってきているのは間違いない。
けれどそれ以上に、ボールが大きく外れてしまう理由を、沙織はなんとなく理解していた。
それはマウンドでは一度も味わったことのない、けれど野球をしていないときは珍しくない感覚……恐怖だった。
表情を変えず、じっと沙織を見つめたままバットを構える神子。
二球立て続けにボールになったのに、その表情に変わりは見られない。
沙織は完全に雰囲気に飲まれていた。
どこにどう投げても、打たれる場面しか想像できない。それが頭にあるせいで、身体が勝手に勝負から逃げてしまっているのだ。
神子が、普段とは違う試合での沙織を感じたかったように、神子もまた試合での印象は全く別の物だった。
沙織の脳裏に、テスト勉強期間に神子と勝負したときのことが浮かぶ。
最初こそ神子を驚かせたが、わずか数球で、あっさりと完璧に打ち返されるようになってしまった。そのときだけじゃない。練習のときはいつも神子に打たれていた印象の方が強い。
けれどあくまで練習で本気じゃないから、という気持ちが沙織にもあった。
けれどそれは必ずしも正しくなかった。
本気じゃなかったのは、神子も同じだったのかもしれない。
「タイム」
間を取るように、葵が声を上げた。
打たれるのを警戒してか、際どいコースに投げるはずのボールが、二球とも大きく外れてしまっていた。
マウンドの沙織の表情を見て、単なるコントロールミスではないと察した葵は、タイムを取って立ち上がった。
神子が構えを解いていったん、バッターボックスから出る。表情は変わらなかった。
マウンドにたどり着くなり、沙織が震えた声で言った。
「……あ……葵ちゃん……あたし……」
「ノーストライクで、ボールが二つ先行。次はカーブでストライクを取りに行くわよ」
「で、でも……それは……」
沙織の技術なら、ストレートでもカーブでも簡単にカウントを取れる。
だがそれは神子も知っていること。
ツーボールノーストライクからのカーブなんて、予想の範囲内だ。
それなのにストライクゾーンで勝負したら……
「私を信じて」
葵はまっすぐに沙織の目を見てきっぱりと短く言った。
「う、うん」
葵の表情に気圧されたかのように、沙織がうなずく。
それを見た葵は、沙織がまだ何か言い出さないために、さっと背を向けて小走りにホームベースへと戻っていった。
神子とすれ違ったとき、彼女が何か言いたそうな顔をしていた。彼女も沙織の異変には気づいているのだろう。けれど何も言わなかった。
葵も無言でホームベースの後ろに座る。
沙織があそこまで動揺しているのは、誤算だった。
正直言えば、葵にとってこの勝負は余興に過ぎなかった。
仮に本塁打を打たれても、まだ一点リードしている。次の九番打者は前の打席をみる限りレベルは落ちる。十分抑えられるはずだ。
なんなら銀河に交代してもいい。一番に打順が戻ると怖いが、あとひとつアウトを取るくらいなら問題ないだろう。
けれど葵の考えと違って、沙織にとって神子との対戦は特別なものだったようだ。試験勉強期間のときも、神子に打たれた沙織が珍しくショックを受けていたのを思い出す。
沙織はショックを受けていたが、葵は別に問題ないと思っていた。その勝負に意味がないと感じていたからだ。
けれど沙織はそう思っていなかったのだろう。
今回も神子に打たれたら、試合に勝ったとしても、沙織は投手にとって一番大事な自信を失うかもしれない。そのようなことになったら、この大会だけではなく、今後の野球人生に影響が出てしまう。
(これで気づいてくれればいいけど)
葵は祈るような気持ちでミットを構えた。
葵は「私を信じて」と言った。
実に効果的な言葉だった。
自分を信じて、では自信を失いかけている沙織にとってはむしろ逆効果だった。一方で、葵を信じて投げた場合、仮に打たれたら、それは葵の責任になるのだ。けれど葵に責任転嫁できるから気楽に投げられるのかと言えば、そうではない。むしろ葵のせいに出来ないと、逆に気合いが入った。
自分は信じられなくても、葵なら信じられる。
だから恐怖を押さえ込むようにして、めいっぱい腕を振った。
要求通り、真ん中へのカーブ。
神子がしっかり重心を残した状態でバットを振るう。
やっぱり読まれてた!
沙織は神子の打球に備えようと身を堅くする。
だが白球がはじき返される音はなかった。
神子のバットが空を切り、沙織の投げたボールは葵のミットへと届いたのだ。
神子が一瞬悔しそうな表情を浮かべて、大きく息を吐いた。
(……あ。そっか……)
葵にも分かるくらい、沙織の顔色が変わったのだろう。ホームベースの向こうで、彼女がようやく気づいたのか、という顔を向けていた。
今までの神子との対戦は練習の延長線だから、ほとんどストレートしか投げていなかった。
神子もそれを知っているので、いつも直球のタイミングで待っていた。
だからどれだけコースを狙っても、神子が有利な勝負だったのだ。
けれど試合はそうではない。沙織にはすべての球種が選択肢にあり、神子もそれをすべて頭に入れて待たなくてはいけないのだ。
先ほどの空振り。カーブを待っていたとしても、頭のどこかにはストレートという思いもあったのだろう。それが空振りに繋がったんだ。
ならば当然、その逆もしかり。
四球目。
「ストレートっ」
「ど真ん中っ?」
三塁線へのファール。
「……あの神子が振り遅れた」
これであっという間にツーストライク。
そして追い込めば、当然。
「カーブ?」
神子の体勢は先ほどより崩れていた。
だがバットの先に微かに当てて、打球は葵のミットを弾いた。
「当てた……?」
「さすが……」
沙織はすうっと息を吸う。
色々な想いを乗せて、六球目を投げ込んだ。
葵のミットを、パァーンと軽快にたたく音が響く。
しん、と静まりかえる。
いつまでもミットを叩いた音を味わうかのように、誰も言葉を発しない。
インローへのストレート。
神子は完全に動けないでいた。
葵もミットを構えたまま、動かない。
そして主審の手も上がらなかった。
まるでその場にいた全員が、止めていた息を吸い出したかのように、時が動き出した。
(……良すぎた)
前の打席、源に投げたカーブが今日一番のカーブだとしたら、今のストレートは、間違いなく今日一番のストレートだった。
あの神子がまったく手が出せない最高のボールだった。
けれどそれゆえに、ボールカウントがひとつ増えるだけになってしまった。
ストライクゾーンで勝負するより、空振りや詰まらせられる可能性が高いだろうと、ぎりぎりのボール球を要求したことが裏目に出てしまった。
これでフルカウント。あの直球の後に、またストレートを要求するのは勇気がいる。かといって、安易に変化球を投げ込めるか。
葵はカウントを恨んだ。
本来一球外すという遊び球を好まないが、この場面、それが出来ないのが悔しかった。
迷った末、葵はラストの一球を、沙織に託した。
葵のサインに対し、沙織は迷わず自分の投げたいボールを伝えた。
選んだのはカーブ。
コースは考えない。
とにかく一番いいボールを放ろうと、ゆっくり振りかぶる。
そういえば……今、何球目だろう。
不意に脳裏に浮かぶ。
今まで感じなかった暑さが頭に当たる。
フォームに問題はなかった。
すべては完璧。
だが最後の最後、ボールが指から離れる瞬間。
沙織はそれに気づいた。
神子は狙い球を決めずにすべてのボールを打ち返すつもりでいた。
前の一球は完全に手が出なかった。
カーブを狙ってストレートの可能性を排除したわけでもなかったのに。
それでもわずかに外れてボールになった。もう一度与えられたチャンス。
――次こそは絶対必ず打つ。
もしかするとそれは、神子には珍しい、力みに繋がっていたのかもしれない。
だからこそ、ほぼ真ん中にきた曲がらないカーブに。
神子はタイミングを合わせ損なった。
フルカウントからのカーブ。
それはこの日初めての、沙織の失投だった。すっぽ抜けてほとんど曲がらないボールが、ど真ん中に向かう。
それに対して神子のバッティングもまた、この日初めての、打ち損じだった。
バットに当たった打球は高々と舞い上がる。
たが、ほとんど前に飛ばず、まるでマウンドの沙織が捕るのを求めているかのような、ピッチャーへのフライとなった。
椿姫が声を上げる。内野のフライは基本的に彼女が処理することになっている。
けれど沙織はマウンドから動かなかった。
試合を、神子との勝負を決めるボールは、自分で捕りたかったから。
グラブを構え舞い上がったボールに目を向けるように、空を見上げる。
(空って、こんなに白かったっけ……?)
日差しがまぶしく、視界が白に染まっていく。
空だけではなく、周りすべてがホワイトアウトして。
意識が飛んだ瞬間、身体に強い衝撃が走った。
打球を打ち上げた神子はゆっくりと一塁へと走り出した。
結果的には打ち損じだったけれど、不思議とすがすがしい気持ちだった。
自分の負けと沙織の勝ち、そして出見高野球部の勝利を見届けようと、ゆっくりと一塁に向かいながら視線をマウンドに向ける。
マウンドの沙織がグラブを構える。
どうやら彼女自身がグラブに収めようとしているようだった。
沙織が一歩下がる。
身体が不自然に揺れた。疑問に思ったとたん、大きな音が神子の耳に届いた。
人が倒れる音って、こんなに大きく響くのだと神子は思った。
「さおりんっ!」
気を失っていたのは、本当に一瞬だったようだ。
沙織が目を開けると、なぜか神子の顔が目の前に迫っていて、彼女に抱きかかえられるようにされていた。
周りには他のチームメイトの姿も見える。
混乱しながら手を動かすと、右手に何かが当たった。
それが神子の打ち上げたボールだと気づいた沙織は、右手でボールを握り、ほとんど無意識に、自分を抱き抱えている神子の肩にぽんと触れさせた。
――主審がそれを見て、思い出したかのように、ゲームセットを宣告した。
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