第5話 ボクが化け物に見える?


 野球を始めたのはいつの頃だったか、沙織に覚えはない。

 分っているのは、物心つく前から父親の影響で野球をしていたということだ。

 家族でする簡単なキャッチボールや、バッティングは嫌じゃなかった。一人で地道な練習をするのも、むしろ一人が好きな沙織にとっては、苦痛でもなかった。

 けれど小学校の少年野球のチームで野球をするのは、人見知り気味の沙織にとっては苦痛だった。しかもそのチームには女子は沙織だけで、浮いた存在であった。

 それでも、地元で社会人相手に野球のコーチをしている父親からみっちり技術を教え込まれた沙織は、誰よりもうまくて、すぐにピッチャーを任されるようになっていた。



「へぇー。さすがさおりんだね」

「う、うん……」

「けれど、女子で投手をしていても、それほど珍しくはないじゃないかしら。普通じゃないは言い過ぎのようにも感じられるけれど」

「で、でも……っ。化け物って言われたんだよ! それも小さくてかわいい女の子にっ」

 沙織は葵の言葉を遮るように強い口調で叫んだ。

 昔のトラウマが蘇ってくる。

「ごめんなさい。まだ途中だったわね。その話、最後まで聞かせてくれるかしら」

「うん……」



 そして、沙織が小学六年のときであった。

 身長は現在と同じくらいまで成長していて、同年代の男子と比べても見劣りしなかった。

 その日、沙織の加入するチームは、練習試合で別の小学校に来ていた。

 沙織はいつものように先発を任され、いつものようにヒットらしいヒットをほとんど打たれないまま、最終回のマウンドに立っていた。

「すげーよな。相手のピッチャー」

「あれで女子なんだろ」

 相手のチームからそんな声が聞こえてくる。尊敬より妬みのこもった声は、自身のチームメイトの間からも耳がタコになるほど聞いていたので、もう慣れていた。

(ふん。言いたい奴には言わせておけばいいんだし)

 沙織はそんな気持ちで、陰口を叩く男子を空振りの三振に切って取った。

 続くバッターも簡単にしとめて、2アウト。

 ここで相手チームが代打を起用した。

 点差は4点。やや開いた状態で、2アウトランナーなし。この場面で起用されるのは、代打の切り札というよりは、経験や思い出づくりの起用がメインの可能性が高い。そして実際にバッターボックスに立った児童を見て、沙織はその考えが正解だと思った。

 小学校中学年か下手すれば小学年か。男子と大差ない沙織の身体に比べ、一回りも二回りも小さい少女だった。

 大きなヘルメットをかぶって頭が半分以上隠れた状態で右打席に入った少女を見て、さすがの沙織も同情した。

 彼女は本当に好きで野球をやっているのだろうか。親や兄弟に言われて無理やりやらされているのではないだろうか。練習にはちゃんと付いていけているんだろうか。

 そんな気持ちから、沙織はつい軽く手を抜いて白球を投じた。

 少女が重そうに、けれど沙織が想像していたよりは、しっかりとしたスイングをした。

 振られたバットがボールに当たり、快音が響いた。

 響いた音とは対照的に、グラウンドは静まりかえった。

 少女が引っ張った打球は三塁線のわずか左横を通っていったファールだった。

 だがこの試合、沙織相手に今までヒット性の当たりがほとんどなかった中、一番の当たりだった。それを小さな少女が打ったのである。

 バットを握った少女が顔を綻ばせた。

 一方沙織はというと、手加減したとはいえ、いい当たりを打たれ、ショックを受けていた。

 そして沙織は、本気になった――



「え……本気になったの……?」

 流れを無視した展開に、葵が驚いた様子を見せる。

「うん。まぁ……」

「それで、どうしたの?」

 沙織は言いにくそうに答えた。

「えっと、その。ちょっと頭に来ちゃったから……全力でねじ伏せたんだけど……」

「私、横山さんの性格をだんだん理解してきたわ……」 

 うわぁぁ、といった感じの表情をする葵に、沙織は苦笑いで返した。



 第二球は、手加減抜きの全力ストレート。

 少女のバットはボールが通過してから一テンポ遅れて空を切った。

 三球目は、手加減抜きの全力カーブ。

 やはり少女のバットは大きく空を切って三振。

 こうして、ゲームセットとなった。


 試合終了後。熱くなってしまったことに沙織も少しだけ反省というか後悔していた。

 女子の野球人口は少ない。遠征に来た学校の児童なので、もう会えないだろうしチームメイトになれるわけでもないが、仲間意識みたいなものはあった。

 とはいえ、ただでさえ人見知り気味な沙織が、初対面の相手チームの人に話しかけられるわけもなかった。

 そんな中、学校のトイレを借りて戻ってきたときだった。

 外の水飲み場で相手チームの児童たちが、沙織のことを話しているのが聞こえた。

「すげーよな」

「男だよなー」

 そんな感じの会話だった。慣れているので沙織は聞き流していたが、その児童たちの中に、例の少女もいることに気付いた。

 可愛らしい少女がどんな表情でどんな話をしていたかは分からなかった。けれど、チームメイトの男子たちに話を振られた少女が、沙織のことを「化け物だ」と口にしたのだけは、はっきりと沙織の耳に届いた。

 普通の女の子とは違うと言うことは分かっていた。

 けれど同じ女の子に言われるのは、やはりショックだった。


 それがきっかけになって、沙織は決心した。

 こんな気持ちになるくらいなら、もう野球を辞めようと。

 野球漬けだった毎日を止めて、みんながしているような普通の生活をして、普通の女の子になりたかった。

 こうして沙織は野球を辞めた。

 もっとも、幼いころから野球しかしていなかったから、同年代の話題など知らず、人見知りな性格もあって、新たな友達も作れず、それまでの反動のように半引きこもりのような状態になってしまったが、まぁ、それはそれだけの話だった。




「そう……」

 葵が小さく言った。沙織の気持ちも分からなくなかった。葵も小学生の頃は男子と一緒に野球してきたのだ。そういう陰口は何度も聞いてきた。

「けれど言わせてもらうけれど……」

「うん」

「野球をやめて普通の女の子って言っているけれど、貴女、いつも一人でおどおどしていて普通の女子高生っぽくないわ」

「……うっ」

 痛いところを突かれた。ていうか友達いない人に友達いないと言うのは、ナイフで刺されるより痛いものなのだ。

 沙織としては今の生活もそれなりに享受していたけれど、やっぱりごく一般の女子高生ライフとはちょっと違うんじゃないかな、と思ったりもしていた。

「でもそれなら、丹上さんだって」

「私は普通じゃなくていいから」

 きっぱりと言い切った。

 ちょっと格好良かった。

「それこそ、横山さんはどうなの? ピッチャーやっていたなら、分かるんじゃない。普通の中に埋もれるより、自分が一番だと思われる方が好きなのじゃないかしら」

「それは……」

 沙織は口づまった。葵の言うことも一理あったからだ。

 嫌々ピッチャーをやらされていた気持ちもあるけれど、グラウンドの一番高い場所に立って、相手を見下ろす感覚は、決して嫌いではなかった。

 そのような中、神子が首をひねる。

「うーん。さおりんの言いたいことも分かるけれど、ボクは格好いいと思うなぁ。化け物って。ほら、よく言うじゃない? 『平成の化け物』とか、『甲子園の化け物』とか」

「……それを言うなら、怪物」

「え、そうだっけ? でも怪物も化け物も同じようなものだよね?」

「文脈を無視してあくまで単語として比較するなら神子の言うとおりね。もっとも、横山さん的には、『かいしんのいちげき』と『つうこんのいちげき』くらい、真逆の差はあると思うけど」

 葵が変な例えを上げる。

「でも、さおりんが化け物なら、そのさおりんの投げたボールを打ったボクは大化け物ってことだよね?」

「大化け物って、魔王みたい……」

 昨日のあれは正確には空振りの三振だったのだが、その事実を沙織は知らない。

 神子はその事実を悔しがっていたはずだが、それでもこう言うのは、何か意図があるのだろうと、葵は黙って聞いた。

「ねぇ? さおりんには、ボクが化け物に見える?」

「えっ、そ、そんなことは……」

 沙織は慌てて首を横に振った。

 言葉を話すとちょっとがくって来るけれど、化け物とかそういう感じじゃなくて、むしろ好感度が持てる。見た目もスタイルの良くて美少女だ。

「でしょ。ってことはだよ? 化け物じゃないボクに打たれたさおりんは、化け物でもなんでもないんだよ」

「……え?」

 まさかの展開に、沙織はきょとんとした。

「つまり、さおりんは野球をやっていても普通の可愛い子だよ」

「……神子。あなたの言いたいことは分かったわ。けれど、私の説得と真逆の流れを作るのは止めてくれないかしら」

「ふぇ? 逆?」

「ええ。そうよ。私としては、投手としての本能である自尊心を攻めるつもりだったのに、そこを否定されてはたまらないわ」

「えっと……」

 沙織が戸惑っていると、昼休みがもうすぐ終わりを告げるチャイムが鳴った。

 結局、開いたお弁当はほとんど食べられなかった。



  ☆ ☆ ☆



「うーん……」

「どうしたの? 神子も早く戻らないと授業に遅れるわよ」

 沙織が先に食堂を出た後、珍しく難しい顔をしている神子に、葵が声をかけた。

「……ねぇ、葵。葵はボクのことをただの馬鹿だと思っているかもしれないけれど、こう見えて、実はいろいろ考えているんだよ」

「……知ってるわ」

 そうでなければ、神子と一緒に一から草野球部を作り上げようなどしない。

「さおりんが本当に野球が嫌いでやりたくないって言うんなら、無理に誘うつもりはなかった。けど昨日、ボク相手に投げていた時のさおりんは、とても楽しそうだった。きっとさっきの話も本当に心から思ったことじゃないと思うんだ」

「ええ」

 葵が小さくうなずいた。

 確かに今は嫌っているかもしれない。けれどあれだけの実力になるまでにはたくさん練習してきたはずだ。嫌いなものにそこまで頑張れるだろうか。野球が好きだったときも、きっとあるに違いない。

 そんな葵の思いをくみ取ったのか、神子はいつもの笑顔を見せた。

「ボクは野球が好きだから、さおりんにももう一度野球を好きになってほしいんだ。だから、やっぱり草野球部に入ってほしいんだ」

「そうね。私にも考えがあるわ」

「よーし。それじゃ、改めて、さおりん勧誘作戦の開始だよっ」

 神子と葵は顔を合わせてうなずき合った。


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