第4話 普通の女の子になりたかったから
「――私、野球辞めるから」
「そうか……」
沙織の言葉に、彼女の父親である鷹司は、小さく答えただけで、他に何も言わなかった。
絶対に反対されると身構えていた沙織は、少し拍子抜けしつつも、こうして野球と決別した。
小学六年生のときだった。
☆ ☆ ☆
「……はぁ」
朝の喧騒の行き交う下駄箱前で、沙織はひとり大きくため息をついた。
その量はダイエットが期待できそうなほどだった。だが身は軽くなるどころか、むしろ気が重かった。
「はぁ……」
その理由はもちろん、昨日、神子と勝負してしまったことであった。
野球は父親に宣言したあの日以来、きっぱり辞めたつもりだった。
にもかかわらず、簡単に挑発に乗って勝負を受けてしまい、しかも完全に打たれてしまうというオチである。
恥ずかしいやら情けないやら自己嫌悪やらで、沙織の精神的HPはゼロに等しかった。
幸い神子は別のクラスで、他の目撃者はキャッチャーをしていた葵だけのはずである。その葵も周りの人間にいろいろ言いふらすタイプではなさそうなので、クラス中に噂が広がっているということはないだろう。けれど、もしものことがあるし……
てな感じで、上履きに履き替えた沙織は、恐る恐る教室に入った。
入ってきた沙織に、一瞬クラスメイトの視線が注がれる。
けれど事務的な挨拶が交わされただけで、教室の中ではそれぞれ友人たちとの会話が再開される。いつもの光景だった。
沙織の二つ前の席に座っている、友達いない同盟の葵と目が合ったが、特に反応はない。
(良かった。いつもと同じだ)
沙織はほっとする。
だがその一方で、どこか引っ掛かるような気持ちもあった。
昨日、沙織を強引にグラウンドまで引きずり込んだ葵の行動は、普段の彼女のイメージとはまるで違った。周囲に興味を持たない一匹狼のような性格だと思っていたが、意外と熱い性格なのかもしれない。
そのため何かしら反応があると思っていたのだが、少なくとも今のところ、葵の様子はいつもと変わりなかった。もしかすると、昨日勝手にこっそり帰ってしまったことに怒っているのか、それとも、あっさり打たれた沙織に興味を失ったのか。
「あってねーんっ」
そんなことを、一人沙織が考えていたとき、朝の始業前のざわめく教室の中でも響く声が教室の後ろから聞こえた。
そのちょっと異様なテンションに沙織は驚いて振り向くと、一目見たら忘れないブロンドの髪の美少女が、教室の後ろの扉の所に立っていた。御代志神子である。
他のクラスの生徒たちが遊びに来るのは珍しくないけれど、神子がこのクラスに来たのは沙織が知る限り初めてだった。
とはいえ、神子はどうやら別の人を呼んでいるようで、沙織を訪ねに来たわけではなさそうだ。
「あ、あってねーん」
ところが神子は振り向いた沙織と目が合うと、真っ直ぐに沙織の元にやってきたのだ。
「へ、あたし?」
昨日は学校指定のジャージ姿だったけれど、今の神子は授業前なので、普通に学校指定の制服姿だ。背の小さい沙織が着たら野暮ったいセーラー服も、神子が着ていると、どこぞの有名学校の制服のように似合っていた。校則より短めのスカートから伸びる白い足がまぶしい。そしてジャージでも分かっていたけど、スタイルが良い。その大きな胸を中心に身体全体から自信が満ち溢れているようだった。
と神子の姿にやや嫉妬も含みつつ見惚れながらも、沙織は疑問を口にする。
「……あの、あってねーんって?」
「あ、うん。ほら、葵から名前を聞いたんだけど、名前沙織って言うんだよね? けど『さおりん』じゃありがちだから、『さ』を取って『おりん』にしたら、オリンピックみたいだったんで、オリンピック繋がりで『あてね』ってどうかなーって」
「原型留めてないんだけど……」
はははと笑う神子を見て、沙織は頭が痛くなった。昨日も言葉の端々から天然なところが感じられたけれど、どうやら沙織の想像以上のようだ。
「それで、あたしに用事でも……」
「あ、そうそう。実はね」
ようやく本題に入るのかと思ったところで、予鈴が鳴った。
「うー。時間だ。もっとゆっくり話したいのに。……あ、そうだ。さおりん、お昼休みは暇? 時間あいてる?」
「えっと……大丈夫、だけど」
予定も何も、お昼休みは教室で一人弁当、というぼっちスキルを大量に消費する試練が待ちかまえているのだ。
「やたっ。それじゃ、一緒に学食でお昼を食べながら話そうよ」
「……あたし、お弁当なんだけど」
「大丈夫。普通にお弁当を持って行って食べている人もいるし。あ、葵も一緒に来てね」
「分かったわ」
それまで神子と沙織のやり取りを我関せずとスルーしていた葵は、急に神子に振られても、戸惑ったり慌てたりする様子もなく、慣れた感じで冷静にうなずいた。
「うん。それじゃ、またねっ」
そう言い残して、神子は教室を出て行った。
教室が普段とは違うざわめきに包まれている。
神子はその容姿から異性である男子からだけではなく、同性の女子からも一目置かれている。雑誌の読者モデルのような存在だ。
そんなアイドルのような神子が、まったく目立たない沙織を訪れてきたことが意外過ぎて、みな混乱しているようだ。
沙織からすれば、神子がやってきた目的は何となく分っている。けれど、昨日のことを知らない他のクラスメイトたちからすれば、いきなり目立たない子が変なあだ名で呼ばれていただけで、意味不明だろう。
そんなクラスメイトの一人が、おずおずと沙織に聞いてきた。
「ねえ。横山さんって、御代志さんと知り合いだったの?」
「……さ、さぁ」
沙織は適当に濁した。
けれどクラスメイトからも一目置かれる神子と関われたことは、神子の目的は置いておくにしても、ちょっとだけ嬉しかった。
「あ、あの」
「横山さん、どうしたの?」
一時間目の授業が終わった後、沙織は勇気を振り絞って葵の席に行った。
お昼休みはまだ先である。けれど、神子がやって来た目的をはっきりさせたくて、先に葵の席を訪ねたのだ。
葵は相変わらずのマイペースで、顔を上げて訪ねてきた沙織を見上げる。神子襲来の後なので、用件を察しそうなものだが。
「御代志さんの用事、丹上さんなら分かるかなって……」
沙織がおずおずと尋ねる。
すると葵は、大きく息を吐き呆れた様子で、けれどどこか面白そうに微笑して答えた。
「……まったく。私がどうやってあなたを攻略しようか、知恵を巡らしていたというのに、ストレートにやってくるのだから。神子らしいわ。――要件言えなかったけれど」
「攻略って……?」
「神子を見習って単刀直入に言うわ。私たちの草野球部という部活をやっていて、ピッチャー出来る人を捜しているの。あなたのピッチングなら、申し分ないわ」
「草野球部?」
部活動紹介の時、入部するつもりはなかったけれど惰性で野球部のことを確認していた。それによれば、普通の硬式野球部があるだけで、女子野球部や、そういう部活はなかったはずだった。
「知らないのは無理ないわ。まだ最近出来た部活だから」
「そうなんだ」
沙織はうなずいた。
事情は大体把握できた。ピッチャーをやってほしいというのは、予想通りの流れだった。
「でもあたし……」
「分っているわ」
言いかけた沙織を、葵が制する。
「あれだけ投げられるのを隠していたのだから、何かしら理由があるのでしょう。けど神子はあの性格だから。私に言うより、直接彼女に言った方が良いわ」
「う、うん」
沙織がうなずいたところで、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。
もう少し話したかったけれど、沙織が話しかけるのをためらって休み時間が始まってからかなり経って話しかけたためだ。
席に戻りながら、沙織はどうやって断るべきか、考えた。
神子の性格を考えると、下手に誤魔化すより、やはり素直にあのことを話すべきだろうか。
その答えが出ないまま、午前中の授業はあっという間に終わって、お昼休みを迎えた。
「横山さん、こっちよ」
「あの、あたし、学食使うの初めてなんだけど」
「奇遇ね。私もよ」
その割には、葵はいつも通り堂々としている。
お昼時の学食は戦場だった。
だがその中にも、ひとりで食事をする猛者の姿もちらほら見られた。
沙織は尊敬の意を表した。ちなみに沙織の夢の一つに、一人で牛丼屋に入る、と言う項目もあったりする。その夢に向かって、猛者たちの姿を目に焼け付けていた。
「おーい。こっちこっち」
窓際の四人席で神子が手を振って待っていた。ぼっちの沙織では普段座ることのない席だ。
席に座る神子の前には大きなどんぶりに入れられたラーメンがどんと置かれていた。見た目美少女の神子には何となく不釣り合いだ。
そのため、沙織は何となく言ってしまった。
「御代志さん、ラーメン食べるんだ」
「ふっふっふ。ラーメンは野球をプレイするために必要不可欠って、海外から来たプロ野球選手が言っているんだよ」
ラーメンをすすりながら、神子はそう熱弁した。
なんか嘘っぽいなと思いつつ、沙織もお弁当をテーブルの上に広げた。席は、神子の正面に座った葵の隣である。
「はい。これ」
葵が白い紙コップを沙織の前に差し出す。
「え? これは」
「無料のお茶よ。そこで貰えるわ」
「え、本当?」
沙織は学食のシステムに感動した。しかもメニューの料金を見ると恐ろしく良心的だ。
これなら、また使用したいものだ。と、何だかんだで学食を堪能する沙織であった。
だがここに呼ばれたのは、お昼ご飯を食べるだけじゃなくて、理由があるわけで。
「さてと。それじゃ、朝言えなかった話だけど」
ラーメンを先に食べ終えた神子が箸を置いてそう切り出した。さすがに朝の二の前になることは避けるようだ。
「あ、あの、それって、草野球部に入部してほしい、って話だよね?」
「えっ? なんで分かったのっ? もしかして、さおりんってエスパー?」
「えっと……」
沙織は神子のペースに惑わされないよう慎重に言葉を選びながら続けた。
「ごめんなさい。草野球部に入部するって話は、無しにしてもらいたいんだけど……」
「ええぇぇっ。なんでぇぇっ?」
神子が大きな声を上げる。まさか断られるとは思っていなかった、そんな様子だった。
「――やはりね」
ところが、そんな神子とは対照的に、葵が冷静にうなずいた。
さすが友達いない同盟の盟約者である。沙織の心情を理解していたようだ。
「あれだけ投げるのに横山さんが野球をせず、むしろ隠そうとした理由を、昨日一晩考えたわ。その結果、思い当たる理由は一つしかないわ。おそらく肩か腕を故障していて投球制限が掛けられているのよ。いわゆるガラスのエースね!」
と思ったら、まったく違った。
「おお。ガラスのエース、って、なんか格好言い響き!」
「……えっと。違う」
沙織がぼそっと訂正を加える。
「え、そうなの? では、どうして?」
葵が驚いた様子を見せる。どうやら冗談ではなく、まじめに言っていたようだ。葵も神子ほどではないが、天然気味の体質かもしれない。
「それは……」
ここまで来たら言わないわけにはいかないだろう。
沙織は躊躇しつつ、今まで誰にも話したことのない思いを口にした。
「――普通の女の子になりたかったから」
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