第3話 ……グラブ、はずして良いかな?


 ふわっと上がった白球は、すぐに勢いを失い、ベースの手前で落ちてころころ転がった。

 沈黙が三人の間に流れる。

「……葵。確かにこれは打てないけど、葵が言っていたのはそういう意味じゃないよね? ボクは普通に勝負したいんだけど」

「……分かってるわ。ちょっと行ってくる」

 ホームベースの方でそんな会話を交わした葵が、転がっているボールを手にして沙織のいるマウンドに向かってくる。

 会話の内容と葵の表情、歩き方からして、彼女の機嫌が決して良くないのは、そういうことに敏感な沙織には手に取るように分かった。

「……横山さん」

「はっ、ひゃぃ」

 というわけで、葵に詰め寄られた沙織はすでに及び腰だった。

 だが葵はいきなり怒鳴りつけるようなことはなく、あくまで穏やかに言う。

「ごめんなさい。いきなり思いっきり投げろ、と女子に言われても普通は遠慮するわよね。けど私なら大丈夫よ。授業中にも言ったけれどソフトボールの経験はあるし、小学の頃は普通の野球もしていて、キャッチャーしてきたから、簡単に怪我したりはしないわ」

「う、うん……」

 葵は彼女に怪我をさせないため、軽く投げたと思っているようだ。だがそうでないと知られたらどうなるだろう?

 葵と神子の会話から考えるに、おそらく葵が沙織を推薦したという流れだと思われる。それがこの状態では、当然葵の立場がない。

 葵は丁寧に言っているが、内心はイライラしているかもしれない。このままだと、せっかく築いた同盟関係が破綻してしまう恐れもある。

 ――と、ついさっきまでのカエサル云々をすっかり忘れている沙織であった。

「もー。つまんないー。葵ったら、いつまで話してるのーっ。もういいから、他のピッチャーを捜そうよー」

 そんなとき、バッターボックスから神子の声が聞こえてきた。

 その口調には嫌みはなかった。神子としては思ったことをそのまま口にしたものなのである。

 だが人の悪意には敏感な沙織は、それに過剰に反応して、挑発と受け取ってしまった。おどおどしていて人見知りだが、一方で負けず嫌いな性格なのである。

 ブロンドの綺麗な髪の毛していて、美人で神子なんてたいそうな名前で呼ばれているけれど、野球のピッチングなら誰にも負けるつもりはなかった。


「……グラブ、はずして良いかな?」

 沙織の言葉に、葵の眉がぴくりと動いた。

 グラブをはずす。それは勝負を放棄することを意味していると思ったからだろう。

 だが沙織の表情に、今までのおどおどとした様子はなくなっていることに、葵は気づいた。

「大丈夫。本気で投げるから。……あ、そうだ。丹上さん」

「何?」

「ちゃんと構えたところに投げるから、ミットを動かさないでね」

「……分かったわ」

 葵は一瞬きょとんとした様子を見せたが、軽くうなずくと、ボールを沙織に手渡して、ホームベースの方へ戻っていった。

 沙織はボールを、グラブをはずした手で握りしめ、キッと神子を睨みつけた。

 リクエストに応じて、楽しませて上げようじゃないの。

 ま、勝てない勝負は、つまらないかもしれないけどね――



「どうやら、葵が言う『本気』になってくれたみたいだね」

 バッターボックスに入り直した神子が、いつものわくわくした口調で言った。

「楽しそうね」

「うん。だって、グラブをはずしてパワーアップって、面白いじゃん」

「……そっち?」

 思わずツッコミを入れてしまった葵だったが、確かになぜグラブをはずすのか、疑問はあった。

 だがマウンド上の沙織が、制服のスカートから伸びる左足を慣れた仕草でプレートの上に乗っけるのを見て、葵はその理由を悟った。

「……あ、左利き」

 思わず口に出る。

 授業が終わった後に目撃した、沙織がボールを投げるシーンは、遠目からではっきり見たものではなかったから、気づかなかった。

 だが彼女が元々左利きなのなら、今までの行動に理由がつく。

 なぜ、左利きなのを隠していたのかは分からなかったが。

 そんな葵の疑問を余所に、沙織は真正面に身体を向けたまま、ゆっくりと両手を天に向かって振り上げた。そして流れるような動作で身体を捻って、腕を下すと同時に右足を軽く持ち上げる。小柄な身体は、まるで精密機械のように滑らかに動き、彼女の指先から白球が離れた。

 思わずその光景に見入ってしまった葵の手に、いきなり心地よい痺れが走った。

 パァァァン。

 白球がミットを叩く小気味よい音がグラウンドに響く。

 誰も動かない状態で、沙織のスカートだけが、余韻を楽しむかのようにふわりと揺れた。


「…………」

 葵はちらりと神子の顔を窺った。

 ど真ん中の、本当に構えたところに来たストレートだった。

 球速だけなら西村の方が速かった。だが、ボールの質は明らかに今の直球の方が上だった。

 球のノビやキレと言った曖昧な表現を、葵は好んでいない。だが今のボールを表現するのならば、その言葉が適切に思えた。

 バッターボックスに立っている神子もそれを感じたはず。

 てっきりはしゃぎ立てるのかと思ったのだが……神子は葵の予想に反して、無言だった。

 けれど神子の表情を見て、悟った。

 ――沙織の表情が変わったのと同様、神子も本気になっていた。



(うん。思ったより悪くはないかな……)

 グラブをはずした沙織のために、コロコロと転がされて葵から返球されたボールをかがんで受け取りながら、沙織は感覚を確かめていた。

 マウンドからボールを投げたのは、野球を辞めた小学校以来だったけれど、何となく一人でランニングしたり、指先を鍛えたりと、トレーニングを惰性で続けていたので、思った以上にボールに力があった。

 小学時代と比べてマウンドからホームベースまでの距離も長くなっていたが、感覚的には問題なかった。

 ボールを握り直し、ホームに目を向ける。

 葵のキャッチャーミットがすっと、沙織から見て左上、内角高めに動いた。

 構えたところに投げるから、と言ってしまった手前、そこに投げ込まなくてはいけないのだが、コントロールを一つ間違えれば、神子に当たってしまう危険なコースだ。

 それを要求されたということは、沙織のコントロールを葵が信用してくれたということでもある。それがちょっと嬉しかった。

 沙織は軽く息をはいて、葵のミットめがけて、ボールを投じた。

 神子が鋭くバットを振り抜いた。

 金属音、そしてボールがフェンスに当たる音が響く。バックネットへのファールだ。

(ふぅん。さすがに口だけのことはあるんだ)

 今の神子のスイングは、女子のものとは思えなかった。

 葵の要求通り内角高めに投げたからファールになったものも、油断して真ん中に投げていたら、軽く打たれていたかもしれない。

 ――でも、これでおしまいっ!

 やや外寄りに構えた葵のミット目がけて、沙織は三球目を投じる。

 だが今までの二球と違って、沙織の指先から離れたボールは抜けたようにふわりと浮かび上がった。

 真っ直ぐを予想していた人からすれば、まるで白球が消えたかのように見えただろう。

 カーブである。ドロップとも言われる、横の変化より縦の変化の方が大きく、鋭く落ちるボールだ。

 神子からすれば、視界から一度消えたボールが、いきなり落ちてくるように見えるだろう。

 見送ればストライクで三振。バットを振ったところで、タイミングを崩されて空振り。小学校のとき、面白いように三振をとってきた沙織の必殺技だ。

 神子が体勢を崩されながらもバットを振るう。

 白球はそのバットのわずか下をくぐりぬけ、葵のキャッチャーミットを軽くはじいて、コロコロとベース付近を転がった。

「……ファールチップね」

 葵が小さくつぶやいてボールを拾った。

(ふぅん。当てたんだ)

 ファールとはいえ、初見でバットに当てられてしまったのはショックだった。

 とはいえ、こっちも久しぶりに投げたのだ。多少甘くなってしまったかもしれない。

 けれど今度こそおしまい。

 沙織はもう一球カーブを続けた。

 神子がバットを振りぬく。――快音が響いた。

 沙織は打球の行方を見ることはできなかった。

「……完璧」

 ただ葵の声が、やけに沙織の耳に残った。



   ☆ ☆ ☆



「さすがね」

 ライト方向はるか遠くへ飛んで行ったボールの行方を見ながら、葵が感心半分、呆れ半分の声でつぶやいた。

「ううっ……」

「いくら二球続いたうえ、初球を私が捕れなかったせいで、二球目は多少コースが甘くなったとはいえ、こうもあっさり打ち返すとは、私も思わなかったわ」

「うううっっ」

 神子が唸りながら振り返って葵をじっと見た。

「ん、どうしたのかしら?」

「うーっ。どうしたの? じゃないよ! 三球目のアレ、ファールチップじゃないよね!」

「ええ。そうね。ファールチップというのは、バットに当たってグラブに収まったボールのことをいうので、ああいう場合は、単なるファールが正解なのよね」

「もーっ。そーじゃなくってっ!」

 神子が珍しく苛立ち気に遮った。

「あれ、バットに当たってないもん!」

 葵は微笑んだまま、何も答えなかった。

 神子の言うとおりだった。最初のカーブは空振り、つまり三振だった。だがあえてファールと言ったのは神子のためではない。もう一球、沙織の球を受けてみたかったからだ。さすがに二球続けてのカーブは神子に読まれてしまったし、ボールにしたくない気持ちがあったのか、一球目に比べコースも甘かったが。

「あら、それなら空振りしたときにちゃんと言えば良かったじゃない?」

「ううう。だって、ボクももう一度見てみたかったんだもん……って、あれ? あの子は」

「……あら。いないわね」

 二人が話している間、沙織はというと急に恥ずかしくなって、グラブをマウンドに置いて逃走していた。影の薄い沙織にとって、気づかれずに逃走するのは十八番である。

「まぁいいわ。同じクラスだし、明日また話をしましょう。神子、彼女で問題ないわよね?」

「うん。もちろん」



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