第6話 すんごく遠くでいいなら

「……うーん」

 トントントンと、大根をまな板の上で切りながら、沙織は物思いにふけっていた。

 沙織の家は父・母・自分の三人家族である。だが、去年から商社で一線級の営業をしている母親が北海道に転勤になって、今では父親と二人きりで暮らしている。

 公務員の父親とは交代で家事をしており、今夜の夕食は沙織が当番である。

「あ、筑前煮なのに、なんで大根切っていたんだっけ?」

 大根をきれいに切り終えて、次の作業に入ろうとして、はっと気づく。

「ま、同じ根菜だし、別にいいよね?」

 ――混載だけに。

 と頭の中で思いついたダジャレに苦笑しつつ、人参や蓮根・筍と一緒にどさっと鍋に投入する。料理に関しては意外と大雑把な性格なのである。

 鍋に蓋をして火加減を調整しながら、沙織は今日のお昼休みのことを思い出した。

 野球はもうやらないつもりだった。普通の女の子になるためには、野球は邪魔だった。嫌悪していたはず。

 そして今日。神子に普通の女の子だと言われた。

 沙織はそう思われることを望んでいたはず。なのに、なぜかしっくりこなかった。むしろ、葵に言われた、ピッチャーをやっていたなら……という話の方が心に残った。

 そもそも、神子に普通と言われたのは野球をやめたからではない。逆に野球で勝負して神子に打たれたからだ。けれど、あれは投球練習もせず久しぶりに、しかも制服姿で投げたからだ。本当ならもっといいボールを投げられたはず……

「って、何考えているんだろう。あたし」

 沙織は頭を振って変な思いを振り払った。



 翌日。できることなら休みたかった沙織だったが、根がまじめなためずる休みなどできるわけもなく、いつも通り学校に来ていた。

「……はぁ」

 高校の下駄箱前で革靴から上履きに履き替えながら、沙織はため息をついた。

 その量はダイエットも期待できそうなほどだった。

 だが身は軽くなるどころか、むしろ気が重かった。

 ていうか、昨日もこんなことがあったよなぁと思う。この調子だと本当に痩せられそうだが、その前に胃を壊しそうだ。

 マウンドではふてぶてしくても、それ以外では小心者の沙織であった。

 教室前でもう一度大きく深呼吸して、入る。

「おはよう」

 近くにいた葵が、沙織に気付いて挨拶してくる。だがその口調は、友達いない同盟の時と同じような最小限の事務的なものだった。いつもの葵である。

 てっきり何か言われると思っていた沙織は、あっけにとられてしまう。

 気構えていただけに、何もないと逆に気になる。

 当然昨日のお昼休みの後も葵と顔を合わせることが何度もあったが、ずっとこんな感じである。もっとも、部員になる話を断ったから、逆に怒って無視されているってわけでもなく、いつも通りの対応なのだ。

 もともと葵とは、友達ではなく、友達いない同盟な関係なので、会話が全くない日だってある。なので、沙織から何かを言えるわけでもない。

 そんなむんむんした気持ちのまま、荷物を置いて一時間目の準備をしようとしたときだった。

 朝の教室に、ここ数日で聞きなれてしまった声がした。

「さおりーん」

 神子である。

「やあ。こんなところで会うなんて奇遇だねっ」

「……奇遇って、ここあたしの教室だけど」

「どうでもいいけど、野球と奇遇って、似てるよね?」

「『う』しか合っていないし……」

「いえ。『き』も同じよ」

 二人の会話を聞いていたのか、葵にどうでもいいツッコミを入れられてしまった。

「……というより、神子。あなた、昨日の私の話を聞いていたの? 私の押して駄目なら引いてみよう作戦を邪魔するつもり?」

「うーっ。だって我慢できなかったんだもんっ。それにやっぱりここは強引に押すべきだよ!」

「だから――それが間違いなの」

「えっと……その」

 当事者の沙織はなぜか蚊帳の外に置かれてしまったが、二人の会話から察するに、どうやら葵が昨日のことをまったく話題に出さなかったのも、作戦の一つだったらしい。

 愛想尽かされて無視されていたわけではなかったようで、沙織はちょっとほっとした。そして、気付く。

(やっぱり、あたし気にしてるんだ)

 あえて引いて沙織の気をひくという葵の作戦は、的を射ていたようだ。

「ねーねー。ボクもいきなり入部しろ、なんて言わないよ。やっぱり最初は仮入部からだよね? 仮入部じゃなくても見学だけでもいいから。何だったら、すんごく遠くで見てるだけでもいいから」

 そして神子が宣言通り、強引に攻める。

 神子の押しまくる作戦も、断るのが苦手な沙織にとっては、効果的だった。

「……えっと。すんごく遠くでいいなら……」

「え、本当? やったー。約束だからねっ」

 結局、強引に押し切られてしまった沙織は、神子に手を捕まれぶんぶんと約束させられていた。

 神子の手はしっとりとして少し暖かかった。女の子にしてはちょっと分厚い手を感じながら、他人と手を握ったのって、いつ以来だろうと沙織は考えていた。



 そして放課後である。

「それでは。場所は、奥の第二グラウンドだから。一昨日と同じ場所よ」

「う、うん……」

 葵は荷物をまとめると、沙織にそう一言残して教室を出ていった。

 運動部の生徒たちの中には、教室で着替えてから出る生徒もいるけれど、葵は部室で着替えているようだ。いつも制服姿で真っ直ぐ教室を出ていくから、沙織もつい最近まで、葵も帰宅部だと勘違いしていたのだ。

「えっと……あたしは、着替えなくて、いいよね?」

 一人ごちながら、先を行く葵に追い付かないよう、沙織は少し遅れて制服姿のまま、ゆっくりと第二グラウンドに向かった。

 校舎に面したグラウンドのすぐ隣には、しっかりとした野球場があり、そこはいつものように野球部が使用していた。

 その先、テニス部やバレー部のコートが並んでいて、さらにその先、学校の敷地の端に、第二グラウンドがある。

 四角くフェンスに囲まれたグランドには対角線上に二つのマウンドが設置されていて、手前側を女子ソフトボール部が使用していた。そして奥の反対側を使っているのが、神子たちの草野球部なのだろう。

「あ、いた……」

 遠目でも神子のブロンドの長い髪は目立つ。

 神子たちは、ジャージやティシャツなど各々の服装に着替えて、グラウンドでキャッチボールをしていた。

 活動しているのは神子と葵を含めて、五人しか見当たらなかった。草野球部というマイナーっぽい名前に加え、沙織をピッチャーとしてスカウトしようとしていたくらいだから、そんなに人数がいないだろうと思っていたけれど、これでは試合すらできない人数だ。

 一方で驚いたことに、次にその五人の中に、二人男子がいた。

 女子の神子と葵が部員の勧誘をしていたから、てっきり女子野球部みたいなものかと思っていたので、意外だった。

 男子の二人のうち、一人は長身で、もう一人は横に大きかった。とりあえず後者はキャッチャーだと、沙織は独断と偏見で断言した。

 五人目は、小さな女子生徒だった。沙織も女子の平均からするとかなり身長は低い方だが、その少女はその沙織より小さく、150センチは間違いなく下回っていそうだった。小さい体をとてとてと動かす様子を見る限り、運動神経はあまり良さそうではなかった。

 沙織は彼女たちの練習風景を遠くからじっと見つめる。

 レベルは決して高くない。昨日の神子のバッティング技術は凄かったけれど、どうやらそれは神子が例外だったようである。

 けれど……


「よぉ」

 とそのとき、突然沙織の頭上から声がした。

 驚いて振り返ると、体操着姿の男子生徒が立っていた。

 沙織はそのことを知らないが、一昨日神子と対戦した西村である。

 沙織は振り返った身体を反転させ、後ろを向いた。誰もいなかった。そしてもう一度振り返る。

「……え、もしかして、あたし?」

「ほかに誰がいるんだよ」

 西村があきれた様子を見せる。けれど、自慢じゃないが目立たないことに関しては自慢だった沙織にとっては、まさか声をかけられるとは思っていなかったのだ。

「しっかし、大したことないよなー」

 西村は草野球部の練習風景を見て、それについての感想を述べた。

 沙織はちょっとむっとした。

 確かにそれほど上手くはない。男子二人も本職の野球部に比べたら、動きはだいぶぎこちなく感じる。

 けれど余計なプレッシャーを感じている様子もなく、楽しんでプレーしているのは遠目でも感じられた。そんな人たちに、上手い下手で馬鹿にするのはどうなのか。

「まぁ、大したことなさそうって言うなら、あっちよりむしろこっちだけどなー。ただの地味なチビにしか見えないし」

「なっ」

 西村の「こっち」が自分を指していることに気付いて、沙織は絶句した。

 そして、激怒した。

 知り合いを馬鹿にされるのも嫌だが、自分を馬鹿にされるのはもっと嫌いなタイプなのである。

「しかし、惚れた男の弱み。大天使神子ちんの頼みなら仕方ない。お前にも俺の実力を見せてやるよ。さ、行くぞ」

「え、えぇ?」

 激怒したにもかかわらず、何がなんだかわからないうちに、西村によって沙織は、強引に神子たちの元まで連れてこられてしまった。

 例え相手が何であれ、誘われたら断れない性格でもあった。



「あ、さおりーん。来てくれたんだ」

「ど、どうも」

 一緒に来た西村をきっぱり無視して、神子が手を振った。

「よぉ。来てやったぜ」

「えーと誰だっけ」

 神子の言葉に、西村がわかりやすくこけた。

「おい、一昨日会っただろ」

「うーん。自慢じゃないけど、ボクは忘れやすいのが自慢なんだ」

「本当に自慢じゃないしっ!」

「ツッコミがいてくれると、本当に助かるわ」

 思わずツッコミを入れてしまった沙織に対して、近くにいた葵が心の底から思っているような口調でいった。

「神子、西村は私が呼んだのよ。正規のピッチャーとしては物足りないけれど、バッティング練習の投手はいくらいても困らないわ。部員も少ないのだし」

「ま、気になる言い方だけど、愛しの神子ちんのためだ。手伝ってやるぜっ」

「え、本当? 助かるよ」

 愛しの、という部分はきっぱりスルーして、神子が目を輝かせる。どうやら人が足りないのは本当のようだ。

「というわけだ。横山、俺のピッチングをよく見とけよ」

「……ふぇっ? どうしてあたしの名前を?」

「っておい、同じクラスだろうが。もしかして、今まで知らずに話してたのか? 俺の名前、知ってるよな?」

「えっと……ははは」

 沙織は適当に視線をそらした。これでは神子のことを笑えない。

 西村は比較的クラスではお調子者の目立つ存在なのだが、一人で篭もりがちな沙織にとって、同性の女子はともかく、男子とは全く関わりなかった。そのためクラスメイトの名前もまだほとんど把握していなかった。西村の姿が、教室で見る制服ではなく体操着姿というのもあるが。

「……ま、とにかく。お前がどれだけ投げられるか知らないが、俺のピッチングをみせてやるぜ」

 そういい残して、西村はマウンドに向かった。

「え、ピッチングって……」

 沙織はちらりと横を見ると、葵は特に悪びれた様子もなくバッティング練習の準備に向かっていた。

 沙織のことも、どうやら葵が西村に吹き込んだようだった。




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