第7話 まっすぐしか投げないけど
「それじゃあ、順番こでバッティング練習を始めるよー」
神子の合図と葵の指示によって、準備がなされていく。マウンドに防球ネットが置かれ、ホームベースの後ろもゲージが設置される。どうやら人数の関係か、捕手を置かずに、ピッチャーが投げ込んで、打者が打つという流れのようだ。
まず打席に立ったのは、横に大きいほうの男子だった。
「それじゃ、いくぜーっ」
西村は、打席に立ったのが神子じゃないことに不満そうだったが、それでも掛け声とともにボールを投げ込む。
「早い……っ」
沙織はちょっと驚いた。
口調と行動からなんとなく色物キャラだと決めつけていたけれど、口だけのことはある速球だった。
速球のみで、バッターを押している。もっともそれは、スピードだけでなく、荒れ玉ということもあるようだが。
「うわぁぁ。速いっすねぇ……」
沙織が西村の投球を見ていると、いつの間にか沙織の横に、神子たちと一緒に練習していた小さな少女がいた。
どうやら次は彼女の番らしく、小さな体には不釣合いなヘルメットをかぶり、バットを持ちながら、感心しつつも怖そうに見ている。
「あの、見学の方っすか?」
沙織が話しかけるべきかどうか迷っていると、先に少女から声をかけられた。
「え、えっと……」
「あたし、吉野球子と言うっす。大吉の吉に、野球子って書くっすよ」
「へぇ」
球子と名乗った少女は、どうやら同じように背の小さい沙織に親近感があるようで、積極的に話しかけてくる。コミュ障な沙織も、自分より弱そうな相手との会話はある程度平気だったりする。
「球ちゃん、野球が好きでこの部活に入ったっす。本当はマネージャー志望っすけれど、部員が少ないから、球ちゃんもこうやって一緒に練習してるっすよ」
「そうなんだ」
なんて感じで話していると、少しはなれところから、神子が声をかけた。
「はーい。じゃあ次は球ちゃんの番だよー」
「は、はいっす!」
球ちゃんと呼ばれた少女は、沙織にぺこりと頭を下げると、小走りで打席に向かった。バッターボックスで構えると、同じ長さのはずのバットが、やたら大きく見えた。
「おいおい大丈夫なのか」
「お、お願いしますっす」
さすがの西村も手加減した様子でボールを投じる。だが球子が振ったバットは、そのボールから大きく離れて空を切る。バットを振っていると言うよりは、バットに振り回されている感じだった。
「おーい。もっと基礎から始めたほうがいいんじゃないか」
マウンドの西村があきれ気味に言う。
その意見には沙織もうなずける部分はあった。
けれど、沙織には別の思いが浮かんでいた。
小学六年生のとき、最後にした試合で、最後にバッターボックスに立った小さな少女。その姿が今の球子と被ったのだ。
あの日沙織は全力でボールを放って、少女に「化け物」と呼ばれるほどのトラウマを産み付けてしまった。
野球が好きと言った球子も、これでは楽しくないだろう。そしてあの時の少女のように野球を嫌いになってしまうのだろうか……
精神的にももっと子供だったあの頃ならともかく、今の自分だったら、もっとうまく投げられるのに――
「横山さん」
不意に葵に声をかけられた。
沙織が何か答える前に、葵はグラウンドとは別の方向を指差した。
「あそこにあるのが運動部の部室棟。一階の一番奥が草野球部の部室よ。そこに予備のジャージが用意してあるわ。横山さんには少しサイズが大きいかもしれないけれど」
葵が何を言っているのか、当然沙織にも理解できた。
ただの見学でジャージに着替える必要はない。見学に来た沙織にジャージに着替えろということはつまり、練習に参加すると言うことだ。
けれど沙織は少し迷った様子を見せた後、こくりとうなずいた。
「うん。ありがとう。借りるね」
その様子に、葵が小さく手を握り締めてガッツポーズを見せたのを、沙織は気づかなかった。
やや大きめのジャージに着替えてきた沙織がマウンドに立った。しっかりと用意されていた左利き用のグローブを右手にはめている。
その様子をバックネット裏で見つめながら、葵は笑みを浮かべた。
「ふふふ。計算通りだわ」
「計算?」
そう聞き返したのは、沙織と入れ替わりでマウンドを降りた西村である。
「ええ。あの子、見かけによらず負けず嫌いなところがあるの。だから、あなたを使って、けしかけようと思ったのよ。考えていた展開と違ったけれど、彼女がマウンドに上がってくれるのなら、それでいいわ」
「別に丹上がどう考えてようと、俺としては神子ちんにアピールできたから、いいけどな」
「アピールになったかどうかは明言を避けるけれど、練習に付き合ってくれたのは感謝するわ。それより神子ちんって、あなたいつの間に神子のことを……」
葵が呆れ気味に西村を見る。
「もともとクラスが違うけど目立つし可愛いなとは思ってたけれどよ、一昨日のピッチャー返しを受けた瞬間、さらに惚れたな」
「その割には、逃げ帰ったようだけれど?」
「いや……あれは、逃げ帰ったんじゃなくて、重要な用事を思い出して……」
西村が歯切れの悪い口調で言う。
何か別の事情がある様子だったが、葵はそれにかまわず、マウンド上の沙織へと、視線を向けた。
「お願いしますっす」
沙織が着替えている間は、別の部員が打撃練習をしており、沙織がマウンドに上がると同時に、再び球子が打席に入った。
球子がぺこりと頭を下げる。ヘルメットがずり落ちそうになる。
彼女としても同じ女の子で背も小さい沙織が相手で少し気が楽になっていた。
「大丈夫だよ。ちゃんと全部真ん中に投げるから、怖がらないでね」
「は、はいっす」
沙織はゆっくり振りかぶって、ボールを投じた。
真ん中のボール。明らかにスピードを抑えつつも、ど真ん中を通った白球は、球子が振ったバットの上をくぐり抜け、後ろのネットに当たって落ちた。
「……ふぅん」
西村がつまらなそうにつぶやく。
「まじめに投げると思ったけど、相手がアレだし、あんなものか。ま、フォームは思ったより悪くないけどな」
「そうね。けど、バッティング練習でバッターに練習させずに自分だけアピールする誰かより、まともじゃないかしら?」
「で、ちゃんとバッターの練習になるように打たせられるのか」
西村の問いに、葵はまだ答えられなかった。
沙織が二球目を投じた。
やはり球子が重そうにバットを振るう。
そのバットを逆に弾くように、ボールがバットに触れてポコッと間の抜けた音が響いた。
ボールは前に飛ばず弾かれただけだったが、それでも投げられたボールをバットに当てた球子は、バットを落とさんとばかりに驚いた様子を見せた。
「わー。球ちゃん。すごい。おしいっ!」
横で見ていた神子がはしゃぐ。
「よーし。球ちゃん、次はこうして、こう振ってみようよ。ぶんって感じだよ!」
「こ、こうっすか?」
神子が身振り手振りを交えて、球子にスイングを教える。
ただし教え方は典型的な天才型であった。
神子のアドバイスが終わるのを待って、沙織が三球目を投げる。
球子が神子のアドバイス通りにバットを振るう。
すると今度も見事にボールがバットに当たり、ぽてぽてとだが、確実に前へと飛んだ。
「おーっ」
ほかの部員たちの間からも歓声と拍手が沸いた。
「……何というか、別の意味で彼女のすごさを見せつけられたわ」
その様子を見ながら、葵が感心した様子でつぶやいた。
初球こそは空振りだったが、それを見て沙織は二球目以降に修正を加えている。
まず、真ん中に投げる、と言いつつ少し低めに投げている。
バットが重力で思った位置より下を振っている球子に合わせたものだ。
そして彼女のタイミングに合うようスピードも落としている。言うのは簡単だが、実際には、簡単に放れるものではない。
西村は、ただ黙って沙織と球子のバッティング練習を見ていた。
あの後、空振りも何度かあったが、前に飛ぶ打球も幾度と見せて、球子のバッティング練習が終わった。
「よーし。次はボクだね」
神子が喜々した様子で打席に入る。
「いよいよね……」
葵が遠くからその様子を見て、つぶやいた。
沙織の表情も明らかに変わった。スイッチが入ったのだ。一昨日見たときと一緒だ。あのときの沙織は制服のスカート姿で、しかも何年ぶりに投げたという。
だが今は動きやすい服に着替えている。靴もスパイクではないが、運動靴だ。球子に数球投げているため程よく肩も温まっている。沙織がどのような球を投じるか、非常に楽しみだった。
「ボクは遠慮いらないから、思いっきり投げてね」
「バッティング練習だから、まっすぐしか投げないけど、それでいいなら」
「うん。もちろんっ」
神子がきっと目を光らせて構えた。
沙織はゆっくりと神子を正面に見つめて、腕を振り上げた。
グラウンドに何度も金属音が響き渡った。
沙織が投げ、神子が打つ。
その繰り返しに誰もが黙って見つめていた。
沙織が投げたボールはすべてストライクゾーンに吸い込まれ、神子のバッティングもファールはあっても、見送りは一度もなく、バットが空を切ることもなかった。
沙織の息が聞こえそうな力投に、金属音が何度も響く。
(……うーん。さすがに傷ついちゃうかも)
汗を拭いながら、沙織はふぅっと息を吐いた。
直球限定という縛りがあるとはいえ、詰まらせたゴロやファールは何度もあっても、空振りはまだ一度もとれていない。すべてバットに当てられている。
昨日打たれた時は、制服姿だったとか、久しぶりに投げたからとかいろいろ後から理由をつけて納得していたけれど、こうやって改めて対戦していると、神子の凄さがよくわかる。
体の動きに無駄がないから、力が入っているわけでもないのにスイングがすごく速い。反射神経も選球眼も良いみたいで、狙うコースを特に決めている様子もないのに、しっかりとどのコースにもバットを当ててくる。
バッティング練習なのだから、打たれても問題ないわけだが、あっさり打たれたままなのは納得いかない。普通の女の子扱いされたのも、それを望んでいたはずなのに、今はそれを見返したい気持ちでいっぱいだった。
沙織は小さく息を吐くと、一番打たれにくい外角低めに直球を投げ込んだ。
神子がバットを振るう。金属音が響く。ファールだ。
沙織はもう一球、同じコース目がけて直球を投げ込む。
ただし、前のコースよりやや外側に。
やはり同じようにファールになる。
沙織はさらにそのコースに、またボール半分くらい外側に行くように投げ込む。
神子がファールで逃げる。
多少コントロールミスがあっても、沙織は外角低めに投げ続けた。
一方、神子の方も外に伸びる直球に食らいついてはいたけれど、ファール続きなのに納得していなかった。
そして無意識のうちに、少しずつ外へ外へと投げ込まれていくボールを捉えるべく、外寄りのボールに狙いを定めていた。
神子の視線、バットを握るグリップと足の位置を見て、沙織は神子の狙いが外に絞られたのを察する。
沙織はゆっくりと両手を振りかぶった。
視線も表情も変えないまま、残った力すべてを振り絞って、渾身の一球を――真ん中やや高めに投げ込んだ。
「――――っ」
神子のバットが空を切った。
周りの部員たちから歓声が上がった。
神子も一瞬驚いた顔を見せた後、沙織をねぎらうかのような表情を向けた。
その瞬間。
沙織は確かに、野球の楽しさを感じた。
父親のミット目がけてボールを投げ込んで「ナイスボール」と言われるたびに喜んでいた、忘れかけていた感情だった。
「ちょっと神子。ずっと打ってないでよ。次は私の番よ」
と葵も我慢できないといった様子で打席に入ってくる。
けれど。
「ごめん。丹上さん。もうへとへとで腕が上がらない」
「えーっ」
そのとき見せた葵の表情は、冷静沈着な普段からは想像できないほど何ともコミカルで、沙織は一生忘れないだろうと思った。
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